2004年7月25日

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2004年7月25日

 冷房の効いた室内でペンを握る梶田俊一。誰がこんなことを。難しい計算式を書き連ねたノートが一冊、机の上に何の意味もなく広げられていた。「Ⅹの二乗マイナス4aときます。そして」何や?この鬱陶しい説明は。数学バカの俺に理解できるとでも思ってんのか?教室の前に立つ一人の男性教師。大きなホワイトボードに数字やら文字やらを書いては難解な説明を繰り返す。楽でしょうねあなたは。教える側の身分として頭に入っている知識をペラペラご披露すればいいのですから。こっちの苦労なんて知らずに。   周囲を見回す彼。さぞご満悦でしょうな。頭のいい優等生君たち。80点越えなんてのも余裕でしょ。カリカリとペンを動かす同級生の集団へと向かい一瞥を投げる俊一。黒板・教師・ノート(テキスト)。三つの間を行き来する彼ら。話を聞いては頷きを見せる繰り返し。集中力のない俊一の視線になど、これっぽっちも関心を示さない。 「はい。それではここの問題をえ~梶田君やってもらいましょうか。」えっ?誰か呼んだ?気のせいやろう。ニヤッとする俊一。「梶田君!聞いてるんですか?」うわっ。驚いた表紙に腰を浮かした俊一。何人かが嘲笑ともとれる笑いを見せた。「集中してるんですか?全く話も聞かないしノートもとらない。怠けたことばかりしているからついていけなくなるんですよ。」厳しく言った教師。俊一をじろりと睨んだ。「すいませ~ん。」頭なんて下げるか。ふざけたように言った俊一。    誰が塾へなんか。親父のせいや。期末の成績が悪いからとかそんな理由だけで放り込もうとする。無理やり。これで一生懸命勉強するとでも思ったか?何やねん。偉そうにばっか振る舞いやがって。女連れまわして遊んでるだけのくせに。真剣に俺と向き合ってくれたためしがないやないか。親なんて所詮..血がつながってるとか言って結局は他人なんだから。   一学期最後の三者面談を思い出す俊一。勉強の仕方も分からず計画もぐちゃぐちゃのまま試験に臨んだとか言ってたよなあの人。ふざけやがって。何にも知らないでばっかいたあんたに言われる筋合いなんてない。だけど...間違ってはいないのだ。  勉強の仕方も知らず、試験間近になるまで何もできず...いや、しないでいた。周りのみんなはどうしてそこまで本腰を入れてやれるんだろう?血相を変えるどころか気が狂うぐらいにまで。高々小学校の延長線にしか過ぎない中学やぞ。一つの試験に臨むというだけで一生懸命になり過ぎやろ。理解できないでいた彼。地獄の怪物はすぐそこにまで迫ってきていたというのに。  試験結果が全てを物語っていたのだ。まあ、こういう結果になろうということは想像につきましたが..何にも知らんくせにくせに...間違ったことは言わないのだ。何でやねん。そばにいてくれたことなんかあらへんやん。話もせえへんってのに。偉そうな中年男め。口だけさいつも。自らの親に牙をむきたくなる気持ちを抑えるわけにはいかなかった。親父のことなんて考えるだけ無駄。  そうは言ってもな..自らの現状について考えをめぐらし始めた俊一。小学生の時とは違うんだ。何から何まで。少し勉強すれば点を取れるような簡単な試験でもない。二学期からは頑張らないと。子供じみたランドセルに別れを告げ、男らしい学ランに身を包んだ以上。それはそうと何なんだ親父は。人のことなんて歯牙にもかけようとしないくせに。それなのに..なぜかこちらの様子を前もって把握しているかのような妙な気がしてならないのだ。教師の説明を聞き流そうとする彼。デタラメだ。分かってなどいないに決まってる。   「はい。では今日の授業はここまで。梶田君、渡辺さん居残りねしばらく。」嫌らしい目を向ける教師。落ちる奴は落ちろとでもいうかのような感じで。覚えてろ。しかめっ面をして見せる彼。その脇を楽し気に談笑しながら歩いていく同級生たち。一足早い帰路へ向かおうとしていた。ため息をついた俊一。生きている次元が違う、あいつらとは。  壁一面にずらっと貼ってある成績優秀者一覧表に目を向ける彼。どう考えてもここには載れないだろうな。5教科合計で350点以上、科目別だと80点以上取らないといけない。優秀者たちの功績がありありと見える一覧表から目を背けた俊一。目に毒や。   あ~もう何で居残りなん?悔しそうな顔で机を叩く俊一。「うるさい梶田!」隣の部屋から聞こえる教師の怒鳴り声。彼は舌を鳴らした。俊一が掛けている席から少し離れた場所の席に座っていた女の子。南中の渡辺絵美だ。北中の俊一とは学校が違う。大人しい性格な上、友達もいない彼女。一人で来ては黙々と勉強に打ち込んでいた。俊一と同様、成績の悪かった絵美。デキル人の足を常に引っ張っていた。そのため彼女にとって居残りというものは茶飯事だったのだ。俊一と二人揃って当たり前のように受けていた。  軽い口笛を吹きながら部屋を見回していた俊一。ポツンと座っていた彼女の姿に気付いたのか席を立ち、さりげなく歩いていった。「あ、あのさ。」机の横で足を止めた彼。声を掛けたのは初めてだ。動いていた絵美の手が止まる。「大変やんな俺ら。他の連中みたいにできるわけでもないしさ。足引っ張ってばっかりや。」言って頭を掻く俊一。彼女は何も言わない。「まっそのぉ..頑張ろうぜ。そうや。先生のことどう思う?岩田なんかさ」 「梶田!」教師の中田がペンを片手に入ってきた。慌てた俊一はすぐ席に戻った。ちっ中田かよ。俊一が特に嫌っていた教師だった。40そこそこの彼。保守的で体裁主義者だった上、能力ある生徒を常に贔屓しようとする。「二人はどうしてうちへ来たのかな?えっ?デキル生徒しか歓迎しないんだよここは。デ・キ・ル生徒しかね。案内書とかにはちゃんと目を通したはずやと思うねんけど。あ~どうやらうちの指導方針が頭に入ってなかったみたいやな。理解できひんかったんかな?そんなことはええ!」  ホワイトボードの前を左右に移動していた中田は突如机を叩いた。「君たちは努力が足りん。力を入れてやればそこそこ平均点くらいは取れるものを。いいか梶田!怠けものや君は。先生の話は聞かん。宿題はやらん。よそ見ばっかりしてる。これでまともな内申点が取れると思うか?えっ高校どこも行けなくなるぞ。」    二人をハッタと睨みつける中田。俊一は顔を火照らせていた。絵美はと言えば背筋を伸ばし、中田の言うことをしっかり聞いていた。それでも時々顔を俯けるような動作を見せていた。「他の子なんか帰ったら早速テキスト広げて復習してるぞ。宿題とあと次回までの予習も兼ねてな。君らにそれができるか?特に梶田。」 「親に引っ張ってこられたんですよ。無理やりに。やりたくもない勉強をさせられるっていうわけです!」俊一はぷっつりキレた。「なら断ればよかったんや。やりたくないことを続けようたって無理のある話なんやから。君の親御さんもおかしな人やで。」くそ野郎。俊一は左膝を叩いた。こんなやつなんかに何が分かる。   「質問は?」間を置いた中田が言った。何も言わない二人。「ではこの間やったところから。」めんどくさげな調子の中田。こんな連中のために自らの時間を割くのがもったいないとでも言いたげな表情だ。30分の居残り授業が終わり、ふぅ~と一息つく俊一。「頭破裂するわ。」そう言い、力なく机にひれ伏す。絵美は何も言わず、筆記具やノートを片づけていた。部屋はとても静かだ。  「帰るか。」体をすばやく起こした俊一。私物を片づけようとする前にゆっくりと後ろを振り向いた。俊一を見ていた絵美は慌てて彼と目を合わさないようノートで顔を伏せた。「どしたん?えらい恥ずかしがっとるやん。あ~クソ中田のヤロ~。偉そうにばっか言いやがって。なっ?」同意を求めるようにふった俊一。彼女は何も言わない。  「あっあんなやつにどうこう言われても我慢できんのすごいなほんま。俺は無理。」会話を何とか成り立たせようと努力する俊一。文字の消えたホワイトボードを背後に疲れた声で言った。「頑張ってるんですこう見えても。」ぽつりと小さな声で言った絵美。初めて口を開いた。  「覚えられないことはノートとかメモ帳に書いて頭の中で整理し、暗記する。何回でも何十回でも。分からなければ質問する。納得のいくように。それでも他の人みたいに出来はしません。頭もよくはない。けど努力していくことはできます。一生懸命、カッコ悪くても前へ進んでいくことはできるじゃないですか。この塾へ入ったのも自分のためなんです。厳しいことを知った上で選びました。中田先生が言っていたように確かに私にはできません。偏差値とかっていうのも低いと思います。」席を立つ絵美。   「雑草が好きです私は。踏まれても踏まれても立ち上がる強い雑草のように生きていきたいです。」力強く言い添えた絵美。俊一は思わず胸を打たれた。思っていた以上に現実的で真っすぐだったからだ。「いいこと言うなあ。さすがや。」笑顔を見せる俊一。その笑顔とは裏腹に自身の愚かさを心の中で強く恥じていた。俺は何のために塾へ来てるんだ?教師や生徒を冷やかすためか?罵るためか?いがみ合いに参加するためか?違うやろ。1学期の自分を反省し、心を入れ替えたうえで2学期をスタートさせる。そのために頑張ろうとしているのではないか。  強制入塾させられたことを喜びはしない。身勝手な親父のせいだ。それでも..扉を開け、先に出ていこうとする絵美の後ろ姿にちらりと目をやった。今の俺には必要なのだ。勉強という仕事が。小学6年生の時の担任が(ついこの間の話ではあるが)みんなの前で言っていたことを思い出す俊一。やってやれないことはない。やらずにできるわけがない!
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