雲の切れ間

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 夢の中でロッジの窓が閉じていたのは、どんよりとした雲が空一面を覆っていていまにも降り出しそうだったからだろう。  わたしはその大きな窓の内側に佇んで、四角く切り取られた景色を眺めていた。  渦を巻いて乳房のように垂れこめる雲と青く茂った芝生のあいだでは、キャンプ場に来た人々が思い思いに時間を過ごしている。 「ねえ、あれはなに?」いつの間にか隣に立っていた女性が空を指した。  見ると、わたしの右から左にかけて、雲に切れ間が走っている。  雲の切れ間はまるで鋏でレースを切り裂くように、距離を伸ばすごとにますます広がり、とうとう太陽が浮かぶ空を帯のように覗かせた。  わたしはこの気象現象を、慌てて取り出した携帯電話で動画に収めた。  液晶画面と肉眼の両方で捉えるなか、切れ間の進行が止まる。かと思うと、今度はわたしたちに向かって伸びてきた。  まるで定規で引いたような直角な雲の切れ間を、わたしは震える手を押さえて記録し続けた。このときにはキャンプ場に集まった全員が空を見上げていた。  そのとき、視界を横断する最初の雲の切れ間から、無数の黒いなにかが降り注いできた。わたしが正体を見極めるよりも先に、それは芝生の先にある小高い丘の向こうに消えてしまったが、なにやら手足が生えているようにも見えた。  あれはいったいなんだろう? そう思う間もあらばこそ、雲の切れ間から降り注ぐ黒いなにかはさらに密度を増していった。  段々とわたしにも、それがなんであるかがわかってきた。というのも、こちらに真っ直ぐ向かっている雲の切れ間からも黒いなにかが降りはじめてきたからだ。  それの大きさは二メートルから三メートルほど。空中を落ちる最中に手足をばたつかせる姿は、動物というより人間に近い。それが地面に叩きつけられると、芝生が大きくめりこんだ。  わたしと、窪んだ芝生のそばにいる人たちが見守るなか、落下したそれが立ち上がる。  灰色をしたそれはやはり大きかった。両腕が地面につきそうなほど前傾姿勢になっているにもかかわらず、近くにいた大人の身長が薄い胸のあたりまでにしか届かなかった。手足は細長く痩せぎすで、黒い瞳しかない目と尖った口の先端についた鼻をしきりに動かす姿は、体色も相まってネズミのようだ。  それがすぐそばにいた人間をつかみ、ふたつに引き裂く。それが合図だった。  人々は蜘蛛の子を散らしたように方々へと走り出した。追いついたそれが、彼らを次々とばらばらにしていく。  頭上から落下してきたそれに押し潰された人もいた。起き上がったのは、それだけだった。  丘の向こうからも、逃げ惑う人々を追うようにそれらがやってきた。最初に走った雲の切れ間から降ってきた連中もここに集まってきたのだ。  逃げることも声をあげることもできず、わたしはただ携帯電話を構えてこの様子をおさめた。  やがて最初の一匹が、わたしのいるロッジへと近づいてくる。人々を簡単に切り裂く片手を上げ、振り下ろす。  かたく閉じた目を開けると、わたしは自室のベッドに横たわっていた。カーテンの隙間からは、雲ひとつ無い夏の濃い青空が覗いている。  わたしはあれが夢だったのだと悟った。にもかかわらず、自分が現実に戻ってこれたことに胸を撫でおろした。  眠気を抱えながら、枕元に置いてあった携帯電話を手に取る。この忌々しい機械を手元に置くようになってからついてしまった、悪しき習慣のひとつだ。  布団の中でスケジュールやメッセージをひとしきり確認したあと、ふと思い至って記録用のフォルダを開いてみた。  新しい動画が一件、記録されていた。  背後から肩をつかもうと伸びてくる手のような存在を間近に感じる。夢の中と同じように震える指先のせいで何度も仕損じた末、わたしは再生ボタンを押した。  画面に映ったのは、窓の内側から見た雲の切れ間だった。
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