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アップルパイ
間もなく明日がやってくる、23時45分。
子どもみたいに規則正しい生活を送り続けている凪はすっかり眠っている。
凪を起こさないように、毎日毎日夜更かしをしているであろうあいつに電話をかけた。
1コール、2コール、そしてもう一度呼び出し音がして、「もしもしぃ〜?」と間延びした声が聞こえてきた。
「あ、大吾?俺だけど。明日ってひま?」
「明日?ひまだよー」
「じゃあさ、凪連れてちょっとどっか遊び行ってくれない?」
「…別にいいけど。直、なんか予定あるの?バレンタインに?」
バレンタインに凪を放って?チョコレートをくれる相手もいないくせに?とでも言いたげな大吾の声。
「もらえないだろうから、あげるんだよ」と答えれば、誰によ?と言葉が返ってくる。
バレンタインの前に気持ちがそわそわするなんてまるで中学生みたいだけど。1週間前にもうすぐバレンタインかぁ…と気付いてから、はたして凪はチョコをくれるだろうか?とそればかりが気になり出した。でもふと気付く。きっと凪はバレンタインを知らない。知らないなら、もらいようがない。
きっと明日のバレンタインは何事もなく終わり、翌日会社でもらえるだろう義理チョコを持って帰り、意味も分からずそのチョコをおいしいおいしいと言いながら凪が食べ、今年のバレンタインはあっさりと終わるはずだ。
別にそれでもいいんだけど。だけど、やっぱり。それじゃあちょっと寂しい。
…それならば。もらえないなら、あげればいい。そう思い至ったわけだ。
少しお高めなチョコレートを買ってきてもよかったけど、せっかくならと凪の大好きなりんごを使ったアップルパイを作ることにした。
お菓子作りなんてしたことないけど、長い一人暮らしでそこそこ自炊はしているしまぁ大丈夫だろう。
誰かのためにお菓子を作るなんて、こんなの自分らしくないと思う。でも、凪の喜ぶ顔が見たいとか、凪はおいしい!って言ってくれるかな?とか、柄にもなくやる気になっているのも事実だった。
「―――と、いうわけだからさ。できれば朝から出かけて昼過ぎくらいに帰ってきてほしいんだけど」
馬鹿正直に話してしまって大吾に茶化されるかなと思ったけど、電話口から聞こえたのは「なにそれ!超いいじゃん!」という、とっても嬉しそうな声だった。
「そういうことなら任せて!直がアップルパイ作ってるあいだ、凪の子守りしてる!」
「ふふ、うん、頼んだ」
大吾の協力が得られれば凪のことは心配ない。あとはとにかくおいしいアップルパイを作れるかどうかだけ。それなりに材料は揃っているけど、明日凪が出かけたら足りないものは買いに行けばいい。
念のため確認しておこうと調べておいたレシピにざっと目を通し、明日に備えて眠りについた。
「えっ!?直、今日お仕事なの!?」
真之介くんのお店でバイトを始めたおかげか、凪はいつの間にか“曜日”というものを覚えた。そして土曜日と日曜日は俺の仕事が休みということも。
だからついさっき起きてきた凪に急遽仕事になってしまったと伝えると、凪は「日曜日なのに…?」としゅんと目を潤ませる。
「ごめんな。でも今日は大吾が一緒にお出かけしてくれるから」
「お出かけ!大吾と!?」
「お出かけ」と「大吾」というワードにたちまち顔を輝かせる凪になんとも言えない気持ちになるけど今日は致し方ない。
「俺は今日ゆっくりだから。凪は大吾来る前に出かける準備しちゃおう」
「うん!」
小さな嘘は凪に気付かれることもなく。凪は急がなきゃ!と朝ごはんをかき込んでお気に入りの洋服に着替え始めた。
そして大吾との約束の5分前。
ピンポーン、と部屋のチャイムが鳴った。
「大吾かな!?」
「そうだね。凪もう出れる?」
「出れる!」
今日は寒いから丈の長いコートを着せて、ぐるぐるにマフラーを巻いて、ニット帽も被せた。そして黒いリュックを背負った凪はもう準備万端だ。
玄関のドアを開けると「おはよー!」と大吾の明るい声と笑顔が飛び込んでくる。
「おはよう、大吾。今日はありがとな」
「全然いいよー」
「大吾!おはよう!」
「なぎぃー!おはよう」
そこそこ大人の男同士とは思えない、ぎゅうっとハグをしながら挨拶を交わす凪と大吾。まぁ今さら突っ込んだりはしないけど。大袈裟な挨拶を終え、玄関に座り込んで靴を履いた凪がるんるんとご機嫌な様子で振り返る。
「直!行ってきます!」
「はい、いってらっしゃい。大吾、凪のこと頼むね」
「はーい」
バタンとドアが閉まるととたんに静まり返る部屋の中。
凪が来る前はこれが当たり前だったのに。
凪の明るい声が響くのが日常になってしまった今、この静けさが少し寂しいだなんて。…でもまぁ、数時間後には帰ってくるし。感傷に浸っている暇はない。凪のためにおいしいアップルパイを作らなくては。
「…あ、卵ないじゃん」
材料はある程度用意していたけど、うっかりさっきの朝ごはんで卵を使ってしまった。でもシナモンパウダーも買わなきゃいけなかったしと近くのスーパーへ向かう。
店内の一角はたくさんのチョコレートが並んだバレンタインコーナーになっていた。まさか自分があげる側になるなんてなぁ…と横目に通り過ぎようとしたけれど、ふと大吾の顔が頭に浮かんで一番に近くにあった赤い箱のチョコレートを手に取った。今日のお礼…と、どうせあいつも誰からももらえないんだろうし。
凪もチョコ食べたいかなとバレンタインコーナーをぐるりとまわると、猫やうさぎなど動物の顔をモチーフにしたチョコレートが目に入った。
「ふふ、なんか凪っぽい」
大吾の分と凪の分。ふたつのチョコレートと卵とシナモンパウダーを買って家路に着いた。
アップルパイなんて作ったことはないけど、レシピを見る限り難しそうではない。
ざっくり言えば切ったりんごを煮て、パイシートに敷き詰めて、オーブンで焼けば完成だ。
「…なかなかいいんじゃないか、これ」
ふわっと漂うりんごとシナモンの香り。格子状にかけたパイ生地はこんがりきつね色。初めて作ったにしてはかなりイイ。
時計を見れば13時を少し過ぎたところで、お昼を食べたら帰ると言っていたからもうしばらく待てば帰ってくるだろう。
「早く帰ってこないかな…」
こんなふうに凪の帰りを待つのも悪くない。
パイを作るのに夢中で食べていなかったお昼ご飯にずずっとカップ麺を啜って後片付けをしていると、「ただいまー!!」と元気な声が聞こえた。
「おかえり、凪。大吾」
「ただいま!直!もうお仕事終わったの!?」
「…あ、あぁ、うん。今日は午前中で終わりだったんだ。ほんとはお休みの日だからね」
「そうなんだ!」
今日は仕事だという設定をすっかり忘れていたけど、素直な凪はすぐに信じてくれる。
素直で人を信じて疑わないのは凪の良いところであり悪ところだ。
「凪。手洗ってうがいしておいで」
「はーい!」
パタパタと凪が洗面台へ向かうと、大吾がにやにやとした顔で近付いてきた。
「アップルパイ、うまくできた?」
「うん、まぁ。…あ、これやる」
「え、なに?チョコ?」
「うん。今日のお礼」
「やったぁ!ありがと!」
さっきスーパーで買ってきたチョコレートを渡すと大吾は目をキラキラとさせて喜んでくれる。
いちいち生意気なやつだけど、こういうところは昔から変わらずに可愛いと思う。
やったやったと大吾がチョコレートの箱を眺めていると、「手洗ってうがいしたー!」と凪が戻ってきた。そしてすぐに大吾の手にある箱を見つけて「それなに?」と首を傾げた。
「直がくれたの!いいでしょ〜!」
「えっ!直!凪のは!?」
「残念でした!凪のはないんだって!」
「!?」
「大吾、お前…、」
大吾の言葉に目をまん丸にして驚きとショックをあらわにする凪。さっきまであんなに仲良くしていたくせに。急に凪に意地悪するなと言いかけた言葉は、凪の寂しそうな小さな声に遮られてしまった。
「なお、凪の、ないの…?」
「え?いや、凪のは………って、凪っ?」
「…あーあ、拗ねちゃった」
「お前のせいだろ!」
すっかり拗ねてしまった様子の凪は「…もういいもん」とこぼしてソファーの上に丸くなると置いてあった茶色のブランケットを頭からかぶってしまった。
「まぁ、俺は帰るから。あとは頑張って」
「いや、お前…」
ひらひらと手を振って、場を荒らすだけ荒らした大吾はそそくさと帰って行ってしまった。
どうすんだよ、これ。…まぁ俺がどうにかするしかないんだけど。
「凪ー?なーぎー?」
名前を呼んでブランケット越しに頭を撫でてみても凪は顔を見せてくれない。これは完全に拗ねている。大吾にだけあげて、凪の分はないと思ったんだろう。
「凪。凪にもさ、あげたいものあるんだけど…」
俺の言葉にピクッと動く凪の体。もう少し、かな?
「大吾にあげたやつよりも、もっと大きいの、あるよ?」
「………おおきいの?」
ひょこっと顔を出した凪の目はうるうると潤んで今にも泣き出しそうだった。
まったく、大吾のやつ…。説教はまた後日たっぷりするとして、今は凪の機嫌を直すことが最優先だ。
「うん。今持ってくるから。ちょっと待ってて」
キッチンに向かいラップをかけておいたアップルパイとナイフ、フォークを持って凪のもとに戻る。「はい、これ」とテーブルにお皿を置くと、ブランケットから顔だけ出した凪の目がキラキラと輝き出した。
「なお、これなに?」
「アップルパイ。分かる?」
「わかる!」
「よかった。これ、全部凪のだよ?」
「ぜんぶ!?凪の!?」
よほど嬉しかったのか、凪はばさっとブランケットを投げ捨ててテーブルの前にぺたんと座った。
「わぁ〜…!」
「実は今日仕事ってのは嘘でさ…」
「えっ、嘘?」
「うん。凪が大吾とお出かけしてる間にこれ作ってた」
「直が作ったの!?」
「ふふ、うん」
泣いたり驚いたり喜んだり。ころころと変わる凪の表情は本当に見ていて飽きない。
「だから…、食べて、くれる?」
「うん!食べる!」
「切るから待ってて」
にこにこと笑顔を浮かべて今か今かと待ちわびている凪を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
機嫌を損ねてしまってどうしたものかと思ったけど、今の凪の顔を見れば本当に作ってよかったなと思う。
アップルパイをひとり分切り分けて、うさぎの顔をしたチョコレートを添えてやると、凪は「うさぎさん!可愛い!」とテーブルに身を乗り出した。
「はい、どうぞ」
「いただきます!」
パチンと手を合わせて早速食べ始めた凪は、大きく口を開けて、もぐもぐと咀嚼して、ごっくんと飲み込むと「直!おいしい!!」ととびきりの笑顔を見せてくれた。
「ほんと?…よかった」
味は大丈夫だろうと思っていたけど、柄にもなく緊張していた。
おいしいと言ってくれるかな?喜んでくれるかな?…とか。
バレンタインにチョコを渡す女の子の気持ちが、ほんの少し、分かった気がする。期待と不安が混じったような、なんとも言えない気持ちだ。
今まで付き合ってきた彼女や明日美も、バレンタインにはこんな気持ちになっていたんだろうかと、ふとそんなことを考えてしまった。
「直は食べないの?」
「…え?あぁ、俺はいいよ。凪のために作ったんだし、冷蔵庫入れとけば明日も食べれるから」
「ううん!直にも食べてほしい!」
そう言って、凪はキッチンからもう1本フォークを持ってくると、俺にはいっと差し出した。
「おいしいものは直と一緒に食べたいの!直と一緒に食べたらもっとおいしくなるもん」
にっこりと笑ってそんなことを言う凪に思わず顔が熱くなる。
「…わかったよ」
素直で、純粋で、まっすぐすぎるくらいまっすぐな優しさがくすぐったい。
「直、おいしい?」
「うん、おいしいよ」
「ふふ、でしょ!?」
「…いや、俺が作ったんだからね?」
こんなふうに笑い合いながらふたりでおいしいおいしいとアップルパイを食べる。
穏やかで、なんでもなくて、だけどちょっとだけ特別な1日。そんな1日を一緒に過ごす相手が凪だということが、なんだかとっても嬉しかった。
「直、なんでアップルパイ作ってくれたの?」
狭いキッチンにふたり並んで片付けをしていると、お皿洗いをしている凪がそう聞いてきた。
そうだ、凪は(おそらく)バレンタインを知らないんだった。
「今日はバレンタインだからだよ」
「ばれんたいん…?ってなに?」
「バレンタインって言うのは…、大切な人にお菓子とか、何かプレゼントをあげる日のことだよ」
「たいせつなひと?」
「…そう。大切な人に、いつもありがとうって、これからも一緒にいたいなっていう気持ちを伝える日、かな…」
かなり恥ずかしいことを言っている自覚はある。
だけど今日くらい、バレンタインデーくらい、いつも言えずにいる想いを伝えてみたっていいじゃないか。たまには俺も素直に言葉にして伝えなきゃ。
「…知らなかった…」
「…えっ!?なんで泣きそうになってんの!?」
「凪も直にお菓子あげたかった…」
ちらりと凪の様子を伺うと、凪はなぜかまた泣き出しそうになっていて。慌てて顔を覗き込めば、「凪も直にこれからも一緒にいたいって言いたかった…」と呟いた。
しゅんと落ち込んでいる凪には申し訳ないけど、俺は今、とっても幸せな気持ちになっている。
これからも一緒にいたいと思う人が、これからも一緒にいたいと思ってくれている。
これ以上に幸せなことって、きっと世界中のどこを探してもないはずだ。
…これは恥ずかしすぎて、まだ口にはできないけれど。
「ねぇ凪」
「…なに?」
「ホワイトデーって知ってる?」
「ほわいとでー?」
「ホワイトデーっていうのは、バレンタインにお菓子をもらった人がありがとうってお返しをする日なんだ」
「お返し?」
「うん。もう少し暖かくなったらホワイトデーがくるから、そのときに、お返ししてくれる?」
「…っ!うん!する!お返しする!」
こくこくと首が取れそうな勢いで頷く凪に笑いがこぼれる。
いったいいつまで凪と一緒にいられるかなんて分からない。もちろん俺は、いつまでもずっとずっと一緒にいたいと思っているけど。
だけど"絶対"も"永遠"も存在しないことは大人になれば嫌でも分かってしまうから。
だからこうして小さな約束を積み重ねて、少しでも長く、凪と一緒にいられるように。
ホワイトデーが過ぎたら次はどんな約束をしようかと、ほんの少しの寂しさを抱えながら、そんなことを考えていた。
アップルパイ
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