未練

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未練

「ええと、みんなが受ける県立入試では連立方程式の文章題が毎年1問ずつ出題される。配点は全体の10%。完全記述式で出題される。特に寒梅高校や南橘高校レベルを受ける生徒の場合は基礎的な問題はみんな解いてくるから、連立方程式の文章題は合否の分かれ目になることも多い。しっかり取り組んでいこう」  進学ゼミナールの数学講師・菅野はマスク越しにそう告げると黒板に線分図を描き始めた。道のり、速さ、時間の情報を整理し、黄色と赤のチョークも用いて色分けを適宜行いながら問題文の解析を行っているが、龍樹は上の空。自宅療養機関が過ぎてから2週間経った今もまだ龍樹の心は晴れていないのだ。  県北中の3年生で水泳部員だった龍樹にとって、今回は最後の大会だった。龍樹のスタイルワンは自由形で、特に100mと200mを得意としていた。コロナ禍に入る前だった一昨年の新人戦において、龍樹は200m自由形で県南地区にある南山中の藤川(はやて)とのデッドヒートを制し県大会優勝。そして100m自由形は藤川に0.26秒差で後塵を排したものの、県で2位という実績をあげた。北の龍樹に、南の颯。1年生での新人選県大会優勝は快挙と言ってよく、颯と龍樹は「フリー短距離の双璧」と呼ばれるようになった。進級後も2人は更なる進化を続け、2年生の新人戦でも2人は両種目に置いて後続を大きく離したワンツーフィニッシュを決めており、ブロック大会でも2人表彰台に並んだ。龍樹がこのときに叩き出した200mの記録は1分57秒88で、これは2020年度の全中の参加標準記録をも上回っていた。  誰もが次の1年での飛躍を疑わなかった。しかし勝負事は終わってみないとわからない。龍樹の才能も、努力も、新型コロナウイルスの前に全て消し飛んでしまった。無症状で、体も不自由なく動く。そして大会は何の問題もなく開催される。だが、陽性反応が出たという厳然たる事実だけはもはや変えようもない。指をくわえているしかない中で県大会はつつがなく終わりを迎えた。龍樹の記録は当然残ることはなく、龍樹が所属する県北中学校のメドレーリレーもブロック大会の参加標準記録を突破できずに県大会で散った。自分が出ることができていたらと考えると、龍樹は今も悔やむに悔やみきれない。 ーーお母さんさえ新型コロナウイルスにかからなかったら……。  この考えが誤っているのは頭では解っている。親だって1人の人間。わざわざウイルスに感染したいなどと思っているわけがない。看護師の仕事で危険の最前線で闘っていたのも、ひとえに龍樹の学資保険の足しにするため。解っている。頭では解っているのだ。それなのに、気持ちはついていかない。どこまでも苦い夏の終わりを前にして、受験勉強に気分を切り替えることなどどうしてできるだろうか? 「今日やった速さや割合と関係する連立方程式の文章題は模擬試験でも本番でもしょっちゅう出てくる。よく復習して、同じ問題が本番で出たらラッキーと思えるぐらいまで演習しておくように」  菅野がそう告げたところでチャイムが鳴った。夏期講習を受けたはいいものの、まったくもって集中できないままこうして時間だけが過ぎていっていた。
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