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時、来たる
いよいよ気が触れそう。目の焦点も合わない。しかし、自分が洗面所にいることは理解できる。幾度と見てきた排水口。もう見たくないと願いながら、毎夜此処に戻ってきてしまう。僕はどんな顔だっただろう。目を少し上に動かし、鏡に視線を移す。目を疑った。生気を失った目、痩せこけた頬、青白い唇。この世のものとは思えない。いや、実は死んでいるのかもしれない。死んだことに気がつかず、情けなくこんな日々を繰り返しているのかもしれない。
あ。来た。咄嗟にシンクにしがみつく。全てが逆流して、身体の中を駆け抜けていく。心の中身まで吐き出す。液体が打ち付けられる音がする。変な音なのに、この音を聞く度に、生きていることを実感する。頭が回らない。そんなことを考えるくらい、僕の心は蝕まれている。
倒れそうになりながら、冷蔵庫の扉に手をかける。息切れしながら開けると、何十本も同じ種類の缶が並べられている。他人から見れば、異常かもしれない。どうだろう。誰か、認めてくれる人間が僕の周りに居ただろうか。親とは連絡を取っているが、こんな現状は知られたくない。迷惑はかけたくない。友達は居ない。正確に言えば、いつの間にか居なくなっていた。こんな生活を続けている所為で、人間関係を良好に保つ方法を見失ってしまった。
もう飲みたくないという意思に逆らった僕の手は、一本。缶を取り出していた。右に左に、ふらふらと揺れながら、どうにかテーブルの前に座る。テーブルの上には、既に空になった缶が数本。一本を空にするたび、寿命が一年縮まっているような気さえする。そうすれば、僕は今日で三年の命を無駄にしたことになる。笑ってしまう。弱々しい力で缶を開けて、作業的に口に運ぶ。甘くて、苦い。如何にも体調が悪くなりそうな味が広がる。四年目の命も不味いじゃないか、と呆れてしまう。
ずっと一人になりたかった。一人になりたくないけど、一人になりたかった。大学には行っていない。もう行く意味を何処かに置いてきてしまったみたいだ。あんなに甲高い声で騒ぐ人間たちと過ごしたいとは微塵も思わない。頭悪いんじゃないか。そう心の底から思っていたのに、今は僕の方が頭悪い日々を送っている。一人になりたかった結果が、これだ。何とも情けない。
気が付けば、半分以上を飲み干していた。そう意識した瞬間、もうどうにでもなってしまえと感じた。別に生きる意味もない。大学なんて、親が学歴をあまりに気にするものだから入っただけ。仕方なく、仕方なく。
以前、SNSで仲良くしてもらっているフォロワーに、うっかり大学に行けていない話をしてしまった。「仕事するより楽だよ」「友達作ったらいいじゃん」「今しかできないことあるんだから」等、そんな軽い言葉を並べられた。僕の何が分かるんだ。あんたに何が分かるんだ。そう叫んでしまいたかった。叫べなかった。今思うと、「学校行った方がいいよ」と言われることも、「無理に行かずに休んでもいいんだよ」と言われることも、自分にとって疲れることで、かと言って、どんな言葉を欲しているのかと訊かれると答えは出ない。高校時代だってそうだ。保健室登校なんて格好悪いと信じて、真面目に教室に通い続けた。休むことを悪だと思っていた。その所為だろうか、大学に入って初めて授業を休んだ時、こんなに簡単なことだったのかと拍子抜けしたことを憶えている。そこから崩れていった。高校時代に休みたかった気持ちを埋めるようにして、ずっと家に引き籠る日々。最初は心配してくれていた友達からの連絡は途絶えた。もう、僕を救ってくれる人間は居なくなってしまった。唯一の救いと言えるものは、手元にあるエナジードリンクだけだ。他人が見たら笑うだろうか。自分が“他人”だとしたら、きっと笑ってしまう。勝手に疲れて、勝手に落ちぶれて、勝手に全てを失くしている。しかし、その立場に立ってみないと解らないこともある。
お前はどこまで堕ちれば気が済むんだ。生きる気はあるのか。育ててくれた親に申し訳ないとは思わないのか。お前は本当に弱い。情けない。死んでしまえばいいものを……何故生きている?
そんな言葉が脳内を駆け巡る。思わず耳を塞ぐが、一向に鳴り止まない。僕の声が追いかけてくる。まるで自分に言い聞かせるように。それが時折、友達や親の声に変化していく。「俺たちは学校に行っているのに」と、友達が云う。「大学卒業したら、就職して普通の生活を送りなさい」と、親が云う。カフェインが頭に回っている所為だろうか。それとも、僕が狂ってしまったのだろうか。
「あれ、何で生きてるんだっけ」
改めて口に出したら、涙が頬を伝った。声は止まない。声を打ち消すように、缶の中の甘ったるい液体を一気に飲み干す。しかし、胃に辿り着かなかった様子。慌てて立ち上がり、洗面所に駆け込む。シンクに頭を突っ込んだと同時に、液体が逆流していく。さっきまで冷たかった筈のそれは、一度体内に入ってしまったゆえ、変に生暖かい。そう思考してしまった時には遅かった。また逆流していく。ここ数日、まともに食べていない。何も出てきやしない。その事実が余計に辛い。言葉にならない声が出る。呻き声と表すことが正しいだろうか。いや、そんなことはどうだっていい。
意識が朦朧とする中、冷蔵庫を開けて、缶を一本取り出す。洗面台の前に移動して、鏡の中の自分自身に見せつけるように缶を開ける。ふと、缶に書かれてある“品名”が目に留まった。どうやら『清涼飲料水』らしい。
「……どこがだよ。こんなに飲んでるのに、全く涼しくない」
本来、清涼飲料水とは、そういう意味ではないのだろう。しかし、今の僕は頭が回っていない。嗚呼、清涼飲料水さえも僕の味方になってはくれないのか。全く機能してないではないか。世界は馬鹿げている。誰か僕を見つけてくれないか。独りきりの僕を笑ってくれるだけでもいい。自分で自分を笑う行為には飽きてしまった。誰か。誰か、僕が生きていた証を見つけてほしい。
窓から光が漏れている。どうやら朝が来たらしい。鳥が鳴いて、車の行き交う音が聞こえる。今日は晴れらしい。青い空が広がっているでしょう。曇ることなど知らぬ空が広がることでしょう
さあ、こんな無意味の人生に決着をつけよう。何故か胸が高鳴る。楽しみで仕方ない。思わず声が漏れる。しかし、変だ。笑っているはずなのに、涙がこぼれる。早く行かなきゃ。手元の缶の中身を一気に飲む。手を止めることなく最期を味わう。激しく息切れしてしまう。缶を洗面台に置く。どうか、僕が生きたことを証明しておくれ。
手の震えが止まらない。それでも必死にポケットの中からスマホを取り出す。時間がない。急いでLINEを開く。
『今度いつ帰ってくるの?』
『夏休みには帰るよ』
それが、母親との数日前のやり取り。あ、そういえば、明日から夏休みだったけ。そうか。そうだったか。冷静に考えようと努めるが、面白いくらいに涙が止まらない。震える手で文字を打つ。
『生んでくれて、育ててくれて有難うございました。
でも、間に合わないみたい。
夏休みに帰ることができなくなりました。
どうか体調には気を付けて。ごめん。』
余韻に浸ることなく送信する。メッセージに気が付いてほしいが、気が付いてほしくない。
ねえ、今なら助けられるよ。お願い、気が付いて。気が付いてくれ。お願い。お願いだから。
ああ、眩暈がする。手が震え、スマホが床に転がる。足が震える。どうか気が付いてくれますように。そう願いながら、力尽き、床に倒れた。同時に、スマホから着信音が鳴り響く。
いよいよ気が触れてしまった。目の焦点も合わない。
僕はついに自分がどこに居るのか判らなくなってしまった。
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