1/1
59人が本棚に入れています
本棚に追加
/35ページ

 大峰の言う通り田辺は十四の冬、酒に酔って眠る父親を金属バットで殴りつけた。自分を見る恐怖に怯えた父親のその顔は、今もはっきりと田辺の脳裏に焼き付いている。一度めは腹を、二度目は背中を、三度目は失敗して逃げられた。 「自分をバットで殴った息子を引き取ろうなんて親、いないでしょ」 「お父様は四年前、肝硬変で亡くなったそうです、ご存知でしたか?」  ようやくくたばったか。  十数年ぶりの父親の所在に、田辺はそう感慨した。 「知りませんよ、どうでもいい」 「伊佐治さんは田辺さんを酷く虐待してたとか……」 「深澤の件とどう関係あるんです?」 「関係ないのかもしれません」 「だったら、話す必要なんてないでしょう? もうやめません?」  これ以上、ほじくり返されるのはごめんだ。  田辺は短くなったタバコをコンクリートの上へと弾き飛ばした。いつの間にか濃い群青は田辺の上までやってきており、薄暗い屋上の床の上を、赤いタバコの火が小さな火花を散らしながら、向こうへと転がって行った。  大峰は田辺が止めるのも聞かず、話を続ける。 「十六で施設を飛び出した後、あなたはどんな生活をしてましたか? 頼れる大人が周りにいない状況は、ずいぶん心細かったでしょう?」  心細かったのは、生まれてからずっとだ。顔も知らない母親は分娩中に脳梗塞を起こし、田辺の命と引き換えにあの世へ逝った。それを許せなかったのだろう、田辺が物心ついたころから始まった父親の虐待は、年々酷くなる一方だった。伊佐治を襲った前日、田辺は酔った伊佐治に酷く殴られていた。折れた奥歯が口の中を切り、錆びた鉄の味がしていた。バットを振り下ろす時、田辺が考えたことはだだ一つだった。まるで自分だけが被害者のように大袈裟な悲鳴を上げながら、表へ逃げて行く父親のその背中を田辺が追ったのは、「殺してやろう」とその一心からだ。  大峰の吐き出す言葉は刃物のように、田辺の腹や胸を刺し続けた。そこにできた傷口から、田辺の内奥で静かに眠る臓物を、まるで引きずり出そうとしているかの様だ。 「施設を出てからのことは記録にないので、なんとも言えませんが、酷い生活を送っていたんじゃないでしょうか? 深澤さんに出会うまでは」  ずるりと、奇妙な音を立て田辺の臓物の一部が飛び出し、大峰はなおも田辺のそれを引きずり出す。 「深澤さんは、お子さんがいないからでしょうか? 田辺さんのことを随分可愛がったそうですね…」  ずるずるずるずる     赤黒い血液と粘液にまみれた臓器が、傷口を広げ痛みを伴いながら田辺の腹からこぼれ出し、それは大峰のその井戸の様に暗い眼窩に醜態をさらした。 「初めて知った親の愛情って、どんなものでした?」  追い討ちをかける様に、大峰はさらされた田辺の臓物を、歩きなれたその汚れた靴底で踏みつけた。刹那、田辺の理性のタガはカチりと音を立て外れた。コンクリートを蹴り上げると、田辺は大峰の胸倉へと掴みかかる。とっさに田辺の手から逃れようと、大峰は一歩後退ったが、眼前に迫った田辺からは逃れることができなかった。殴りつけるように押し当てられた田辺の手が、トレンチコートの襟を掴み、大峰はその勢いに押されコンクリートのでこぼこに踵をひっかける。片方の靴をその場にのこしたまま、さらに大峰は二、三歩後退しながら、倒れまいと田辺の腕を掴んだ。大峰の指と爪が強く腕に食い込んだが、田辺は構わず大峰を向こうへと押しやった。鉄性パイプの空洞が大峰の体を受け止め、ゴンと音を反響させると、それ以上は行き場のない低いフェンスに突き当り、田辺の足は止まった。 「放してください、公務執行妨害で引っ張ることもできるんですよ?」  大峰の表情には焦りも恐怖もなく、ただ、やはりぽかりと井戸の様な眼がそこにあるばかりだ。 「そうなる前に、あんたが逝くでしょ?」  フェンスの向こうには隣接するビルとの間にできた、暗くて深い谷がある。幅は一メートルほどだったが、大峰を飲み込むには十分だった。田辺はさらに大峰の体をフェンスへとおしつけた。背中を大きく反らした大峰の、浮き出した肋骨が田辺の腹を圧迫する。 「心中でもする気ですか? 僕は絶対に放しませんよ」  さらに大峰の指が食い込み、田辺はそれもいいと思う。病院で見た年寄りや、花菱のように長く生きるつもりもないのだ。深澤の元へ行くのが早くなる、それだけのことだった。 「だったら、どうします?」  小さな三面記事はたった数行で、田辺と大峰の死を簡潔に世間に知らせるのだと思うと田辺は可笑しかった。もはや田辺にはその死に哀傷するものなどいない。この世界に生きた痕跡は瞬く間に、多くの雑多な出来事に上書きされ、すぐに忘れ去られてしまうのだ。目の前のイカれた男は、それでもまだ生きていたいのか、田辺はその井戸の様な暗い眼孔を覗き込んだ。大峰の呼吸が生ぬるく田辺の顔を撫で、同時に、浮き上がった肋骨が田辺の体を押し上げる。 「それも……それもいいかも知れません」  大峰は田辺の目を見つめながら、ぼそりとつぶやき、突然、田辺の腕を手放した。大峰の体がガクンと後ろへ倒れ、その体重を途端に任された田辺の腕は一気に伸び切る。大峰にひっぱられるように前のめりになると、まだこの世に未練でもあるのか、田辺の両腕は頭が働くより早く反射的に筋肉を収縮させた。サンダルの足をフェンスにひっかけ、田辺は両腕で大峰の体を引き寄せる。ミシミシと筋繊維の一本一本が千切れるのを感じながら、一体何をしているのか、と田辺の頭の半分が冷静に状況を飲み込み、もう半分は大峰の暗い井戸が何を隠していたのかを悟った。生きることに執着しているのは、大峰でなく自分だ。田辺は思いっきりフェンスを蹴飛ばし、大峰を携えたまま後方へと倒れ込んだ。コンクリートの硬さを背中で受け止めると同時に、大峰の力の抜けた人形のような体が田辺の上へとのしかかった。 「大峰さん……あんた、どうかしてる」  どうかしているのは自分も同じか。  田辺は大峰の肩越しに、濃い群青を仰ぎ見る。 「シンパシーです」  上体を起こした大峰のネクタイが垂れ下がり、田辺の首元をくすぐった。 「知れば知るほど、田辺さんにシンパシーを感じました」  田辺を見下ろす大峰の向こうで、赤と青が混じり合うはずの境界は白み、空は二つの色を分けていた。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!