出所

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出所

 酷い服だと田辺は思った。  三年前、東京拘置所の門扉を検察のバンに乗って入った時には、三揃えのオーダースーツとクリーニングから戻ってきたばかりのノリのきいたシャツと、そうしてハイブランドのシルクのネクタイをしていたのだ。それが府中刑務所を出る格好といえば、時代錯誤なダブルのスーツと、派手な総柄のサテンシャツ。かろうじて靴だけはどうにか自前のダブルモンクストラップシューズだが、イギリスブランドの二十万のその靴が、逆に借り物の様にも見える。それもこれも、刑務所での保管の方法が悪かったのだ。いや、それとも、あの日雨が降っていたのが悪かったのか、預けておいたスーツもシャツもすっかりカビだらけになっていた。すぐに岸本に手紙を書き、洋服を見繕うように伝えたのだが、まさかこんな物が届くとは夢にも思わなかった。  それにしても今日は何月何日だと、田辺は強く照りつける太陽を見上げ目を細める。まだ五月も半ばだというのに、すっかり真夏のそれのように太陽は黄色くギラギラと輝いていた。裸に羽織ったシャツの背中がじっとりと汗ばみ始め、しかし安物のナイロン製のスーツは通気性が悪い為に、内側の気温と湿度を上げている。田辺はちっと舌打ちをして、スーツのジャケットを脱ぎ小脇に抱えた。暑さに耐え兼ねて脱いだジャケットだったが、今度はサテンのシャツが太陽の光を吸収し、田辺の体にその模様を焼き付けようとしている様だった。三年前から中途半端な未完成の彫り物の上に、どこぞのブランドのスカーフの様な柄が焼きつくのを想像し、田辺は、はははと、声を上げて笑った。歌川国芳の描いた「相馬の古内裏」がモチーフの餓者(がしゃ)髑髏(どくろ)の禍々しさに、黄色や赤の派手なスカーフ柄はあまりにも不釣り合いだった。三年前は存命だったが、そう言えば、あの彫り師はまだ生きているのだろうか、田辺は齢七十近い老齢の彫り師の頑固な顔を思い浮かべた。  待ち合わせのコインパーキングに向かう途中、田辺はコンビニへ立ち寄りマイルドセブン一箱とライターと、五百ミリのコカコーラのペットボトルを一本買った。入所前には飲みもしなかったコカコーラを飲みたくなったのは、同室だった模範囚が映画鑑賞から戻る度、コカコーラがどれだけ旨いのかを饒舌に語ったからだ。毎月聞かされていれば刷り込まれた様に、田辺の舌もコカコーラを欲するようになり、真先に、タバコを吸いながらコカコーラを飲もうと、いつしかそれを楽しみにする様になっていた。  この三年ですっかり鈍感になった田辺の、口腔の粘膜を炭酸がビリビリと痺れさせ、その刺激と強い甘味に脳がずしんと揺れた。こんなに美味いものだったか、田辺は二口目を口にした後「そら、太るわな」と、その黒い液体を眺めた。かの模範囚は仮出所までの二年間で、体重を十キロも増やしたのだ。半年前に仮出所した模範囚の、脂肪のついた丸い背中を思い出し、そうして、こちらも三年ぶりのマイルドセブンに火をつけた。まだわずかに残る炭酸の刺激と、舌が溶けるほどの甘味が、流れ込んだタバコの苦味に混じり合い、そうだ、これを待っていたのだと口の中が悦ぶのを感じた。血中の酸素濃度が一気に下がり、末端が途端に冷え始め、秒速十秒で脳に達したニコチンに田辺は強い目眩を覚える。徐に閉じたまぶたの血管を透かせた、黄色い太陽の光はいつの間にか赤になり濃い緑の影になり、田辺はようやく生きていることを実感した。
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