二つの目

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二つの目

 田辺が暮らした舎房には鉄格子のはめられた窓があり、塀の内側に居るとは言え、その季節の移り変わりは空の色で判断できた。窓から見える空がいつまで経っても明るい内は夏、暗くなり始めると、もうすぐ冬がやって来る事を知る。昔は見向きもしなかった空を見上げるのは、その名残だった。  舎房から見上げた空には遮るものがなかったが、ここから見上げる空は遮る物だらけだった。電柱から伸びた電線や巨大な広告看板、ビルの屋上に立てられたアンテナ、三年間、焦がれ続けた表の空は何故か、舎房で見上げたそれよりもずっと狭い。 「当分、ここには近づくな」  客間を出る直前、花菱は田辺にそう告げた。何か有れば自分から連絡すると。それにしても、あのビビり様はなんだと田辺は思う。今更ムショにぶち込まれることが怖いという玉でもないだろう、いや、あの年だからこそ怖いのか。  府中刑務所で年老いた受刑者を何人も見てきた田辺には、花菱の気持ちが理解出来た。そこが何処かも分からないまま、紙おむつに糞尿を垂れ流し、日がなベッドで寝たきりの最後など田辺自身も御免だった。実行犯の田辺はもとより、教唆の花菱も少なくとも二年は入る事になる。勾留期間も含めれば一体何年かかるのか。古希にもなる花菱にとってみれば、その恐怖はより身近なものに違いない。病院でも同じ事を考えたが、やはり田辺は歳を取らずに死んでいきたいと思う。 「ヤダねぇ…」  誰に共なく溢れた愚痴が煙と共に窓にぶつかり、砕けて拡散し辺りを白く濁すと瞬く間に溶けて消え、五ミリ向こう窓の外側を汚す雨水の跡と、その足元の歩道のない道路沿いをスーツ姿のサラリーマンが、飲み屋街へ向かって行くのが見えた。通りの店先には出勤してきたばかりで、イマイチ気分の乗らない黒服の姿がポツリポツリと現れ始め、チラシ片手に通りがかる人々に声を掛ける。まだ高い日では、どことなく、時間を間違えたようにも見え、店々の電光板の色もくすんでいた。  田辺はふとその道路の上に、金髪の小さな頭を見つけた。もう来ないかと思っていたが、凝りもせずまだ来るのかと、田辺は金髪の頭がビルの足元へと消えて行くのを眺めた。しばらくすると案の定、遠慮がちに扉が開き、電話番の諸見里がギロリと、顔を覗かせた健二を睨みつけた。 「ご、ご、ご挨拶に、う、うか、伺いま、ました」  不安定な吃音とは対照的に健二の眼はぶれることも揺れることもなく、手前の諸見里を通り越し射抜くように田辺を捕らえていた。またこの眼だ。何かを反射して煌めいているというよりは、内側から網膜を押し破り、キラキラとした光が溢れ出ているのだ。それは若さであり情熱であり、ここ数日、見てきたどんな眼よりも強く、やはり生きた眼だった。大峰の何かを隠す様な暗い眼とは対照的に、健二の眼は何もかもが丸見えで、しかしどちらも苦手だと田辺は思う。 「凝りねぇな」  言いながら田辺は灰皿にタバコを押し付ける。洗ったばかりの灰皿の底で、小さな水溜りがじっと短い音を立てタバコの火を消し、同時に悪あがきしたように、煙が一本線を引く。 「お、おね、お願いしま、します」  腰を深く折り曲げて頭を下げる健二は、先日とは違い、濃いネイビーのスーツを着ていた。痩せた健二の身体には少しばかり大きなスーツが、借りてきた衣装の様でしっくり来なかった。 「人手は足りててね」  田辺に続いて諸見里が「帰んな」と健二に投げかけた。そもそも田辺は子を持つつもりはない。深澤の死後、流儀には反したが田辺は残った構成員の誰とも、親子の盃を酌み交わしていない。それは岸本であれ山井であれ、そこにいる諸見里であれ、皆同じだった。フカザワ興業は自分の代で終わりにする。それが己の業だと、田辺は理解していた。 「な、なん、なんでも、し、しま、します」  見よう見まねの土下座で、硬い床に頭を擦り付ける健二を田辺は見下ろした。 「なんでもって……何ができるんだよ? なぁ?」  田辺が問いかけると、健二はぎゅっと手を握り緊張に身体を震わせ、ゆっくり田辺の方へと顔を上げた。  田辺の人生は十八の真冬の酷い雨の日、ゴミ捨て場から始まった。その日の記憶は田辺の中にない。クラブで手に入れた薬を過剰摂取した事で、意識の混濁を起こしたからだった。傷の舐め合いでどうにか対面を保っていた様な希薄な仲間意識では、面倒ごとに巻き込まれる事を避ける方が、仲間の命よりも重要だった。落ち込んだ舌が気道を塞ぎ、そこから漏れる呼吸で泡立った唾液を口から垂れ流し、硬く強張った筋肉を短く痙攣させる田辺を助けようという人間は一人もおらず、田辺はその状態のまま、近くの雑居ビルのゴミ捨て場に捨て置かれた。偶然、深澤が通りがかって居なければそのまま死んでいたか、今頃は酷い脳障害でベッドから起き上がることすら出来なかったはずだ。  深澤には恩義がある。命を繋いで貰った、どんなに欲しても、血の繋がった親が与えてくれなかった愛情を与えてくれた恩義があった。それに報いようと深澤の側に着いたのは、やはり、深澤という一人の人間に惚れたからなのだ。  田辺は衣擦れと繰り返し登ってくる濡れた音を聞きながら、ぼんやりと深澤の面影を頭に描いた。もし、あのまま死んでいれば深澤を殺めることもなかったのだ、そう思うと、今になって、深澤に対する憎悪にも似た気持ちが芽生え、苛立ち紛れに田辺は短い金髪の小さな頭を両手で強く押さえつけた。 「そんなんじゃ、イケねぇだろ」  喉の奥を田辺の硬くなった先端が深く刺し、途端に込み上げた嘔吐感に健二は顔を歪めた。食道を這い上がる胃液は逃げ場を無くし、喉の入り口で折り返すと、狭い気道を侵した。堪らず健二はむせ返る。肺の奥から突き上げた咳が胃液を押し上げ、黄味がかったすえた臭いのそれは、小さな鼻腔から流れ出し健二は咳と共に、咥えた田辺の雄を吐き出した。床にバタバタと溢れた胃液には、喉の奥を切ったのか赤い血が混じっていた。 「おまえの出来る事なんか、こんくらいのもんだろ?」  田辺はしゃがみ込み、床に身体を丸めゼェゼェと喉を鳴らす健二を覗き込む。 「それも、まともに出来ねぇんだよ、違うか?」  涙ぐむ赤く充血した健二の眼はしかし、まだ諦めていないらしく、きっと睨み上げるものだから田辺は呆れかえる。根性が座っているのか、あるいは何かが足りないのか、田辺は思わず目の前の小さな頭を叩き、空っぽの音がする。と、健二の頭蓋骨が響かせた音を聞いた。  すっかり萎えた自身のそれを仕舞い込み、田辺は健二の吐瀉物で濡れた下着の不快感に顔を歪める。諦めの悪い人間は嫌いじゃなかったが、しつこい人間は面倒なだけだ。いくら岸本の弟とは言え、毎度スーツを台無しにされたのでは堪らない。田辺は健二のネクタイを掴み引っ張り上げると「次は兄貴の前でマワすぞ」と、健二を脅してやった。それと被さる様にタイミングよく、使いに出していた諸見里が扉を開け、健二は足を滑らせながら弾かれた様に立ち上がった。 「あ、おい…」  諸見里が声を掛けるが早いか、健二は諸見里を押し除け表へと駆け出した。騒がしく階段を降りて行く音が狭い階段室に反響し、下から駆け上がってきたが、それもやがて、鉄の扉が閉じていくのと同時にフェードアウトしていった。
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