腐った大木

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腐った大木

 田辺がその知らせを受けたのは岸本を伴い近所の中華料理屋で、レバニラを口に運びながら、三年ぶりの味にもかかわらず、相変わらず美味くも不味くもないと感想を述べた、雨の降る水曜日のことだった。田辺の向かいで、こちらも同様に美味くも不味くもないであろう、味噌ラーメンを啜る岸本の電話を鳴らしたのは、事務所で電話番をしていた舞原だった。 「遠藤さんが、昨晩、入院なさったそうです」  岸本からそう告げられた田辺が考えたことと言えば、また高い見舞金が必要だということと、いよいよ一悶着あるか、ということだけだった。どちらにしても、花菱が動き出すまでは田辺ができることもなく、自ら動く気もなかった。何かあれば花菱から連絡があるだろうと、噛み切れずに口に残ったニラを温い水で流し込んだ。  よほど悪かったのか使い続けた覚せい剤の影響か、それから三日も経たない内に腎不全を悪化させ、意識障害を起こした後、遠藤はそのままぽっくり逝った。都合百人を抱える大所帯をまとめた遠藤の死去に、組対が少しばかりざわつき、夕方の数十秒、遠藤の二十年前の顔写真がテレビで流れた以外は、いつもと変わらぬ日常であった。  家族の希望だと言っていたが、実際はどうなのか、遠藤の葬儀はごくごく身内と遠藤組の幹部数名が会した小さなもので、田辺を含め周囲は随分驚かされた。何を考えているんだ、と、組長連中は糸島に不満たらたらだったのだが、ただそれも初七日を迎えるまでに、糸島が若頭から組長に昇進し、田辺の予想した通り、柏木と親子の盃を酌み交わしたことで、あっというまに忘れ去られ、花菱一派はどの組もピリピリとした空気のまま、季節は梅雨を迎えようとしていた。  雨は嫌いだ。  田辺は呼び出された喫茶店の軒先にぶら下がった、鎖樋を伝う雨水を眺めながらそう考えた。傘をさすのも面倒で田辺は今日も、傘をささずに歩いてやってきた。スーツの肩口を濡らした雨がシャツにまで染み込んでいたのだが、高い湿度のお陰で纏わり付く様な、倦怠感が田辺を鈍感にし、そんなことすら気に留めるのも面倒だった。  田辺の灰皿にはすでに三本の吸殻があった。それは自分で呼び出しておいて、一向に姿を見せない待ち人のルーズさを表しており、田辺はいよいよ四本目のタバコに火をつけようとライターを手にした。  カランと鳴った玄関口のドアベルが視線を誘い、ライターに火はつけたがタバコには火をつけないまま、田辺はその手を下ろした。骨の錆びた安物のビニール傘をたたみながら、よお、と手を上げた藤崎のいかにも柄の悪そうな顔に、田辺は朝から不快な気分になる。 「悪りぃな」  そう言ってテーブルに着いた藤崎だったが、言葉とは裏腹に態度は不遜で、田辺の不快感は増した。機嫌を損ねると面倒な男相手に、その不快感を露わにする事も出来ず、田辺は自身を誤魔化す為、カップに残ったコーヒーを飲み干した。 「花菱のおやっさん、だいぶピリピリしてんな」  どこへ行ってもその話だと、近頃、挨拶の様に繰返されるそれに田辺はうんざりした。 「遠藤組の件がありますんでね……アレが抜けた分、こっちの会費が上がっちゃって、いい迷惑ですよ」  事実、二百万だった会費は今月から五十万も上がる事になった。  ヤニで茶色く汚れた歯を見せながら、遠藤はガハハと他人事を笑う。遠藤組が抜けようと、花菱の腰巾着という、藤崎の立場は変わらないのだ。 「しかし、糸島の野郎も思い切ったねぇ。まぁ、昔からいけすかねぇ男だったけどな」  その点に関しては、田辺も同意見だった。 「柏木組との内ゲバなんてねぇだろうな?」 「どうでしょうね」  あり得ない話でもなかった。花菱一派最大人数だった遠藤組が抜けたとあれば、後に続けと寝返る輩が居ないとも言い切れない。歯と同じだ。一本抜ければ、支えを失った隣の歯も抜ける。全部の歯が抜けきるまで、花菱が指をくわえて見ているわけもない。 「丸く納めてもらわねぇと、俺ら組対が今度はいい迷惑よ。若頭じゃ、クソの役にも立たねぇからな」  田辺は修の間抜け面を思い浮かべた。それにしたって、そんな話をする為に、わざわざ呼び出したわけでもないだろう。田辺は目の前で取り止めもない世間話を続ける藤崎に大峰を重ね、刑事はくだらない話が好きだと、そう思う。 「田辺、おまえ最近、一課の大峰と仲良いらしいじゃないの?」  頭の中を覗かれでもしたか、田辺は不意に飛び出した名前に少しばかり驚いた。 「仲良くしてるつもりなんてありませんよ」  言葉通り、田辺は大峰と仲良くしているつもりなど、毛頭ない。アレ以来、見かけていないが、まだ田辺の周囲を嗅ぎまわっているのは把握していた。 「あんまりうろつかせんなよ、面倒クセェことになるからよ」  藤崎は運ばれてきたばかりのコーヒーに、シュガーポットから取り出した角砂糖を、一つ、二つと放りこんでいく。五つ目の角砂糖を入れ終えたところで、ようやく藤崎がコーヒーを口に含み、田辺は、どうりでだらしない体形だと、ほっとしたようにため息を吐いた藤崎を眺めた。 「面倒臭いのはこっちですよ」  田辺が言うなり、藤崎はテーブルに体を乗り出し、顔をよこせと、人差し指を二度手前にくいっと曲げた。田辺が顔を近づけるなり、藤崎の口からヤニとコーヒーの混じった生臭い息が顔に吹きかけられ、田辺もこちらはあからさまに嫌な顔をしたのだが、藤崎はそんな田辺の様子を気にすることもなく、店内にぐるりと視線を走らせた。 「アイツに嗅ぎ回られちゃ、俺もあぶねぇのよ。おやっさんも、それを心配してんのさ」  なんの話かと、田辺は藤崎の顔を見た。藤崎が嗅ぎつけられて困るのは、花菱との癒着だ。仮に藤崎が内部監査にかけられ懲役を食らったところで、一人組対の手駒が減るだけの話、花菱にとっては痛くもかゆくもない。田辺のきょとんとした表情に、藤崎は呆れたように続ける。 「まさか本気で思ってねぇだろ? 深澤の件で証拠を一つ残らず処分できたなんてよ?」  証拠は全部処分した。残ったモノは何もない。だからこそ、事件当時、田辺は疑われることもなかったのだ。 「監視カメラの映像、処分するのに手間取ったぜ?」  監視カメラの位置は事前に確認し、避けて車を走らせたのだが、何処かで映り込んだのか。どこだ、どこで撮られた。田辺は古い記憶を引っ張り出してみるが、思い当たりもしなかった。 「お前が引っ張られりゃ、俺もおやっさんも一連托生ってやつよ」  藤崎に弱味を握られた様で田辺は釈然としなかったが、一連托生と言うので有れば、藤崎が自分を裏切ることもない。田辺はそう納得する。 「ほかに、誰が知ってるんです?」 「俺とお前とおやっさんだけだ。どっちにしてもな、あの変人にうろつかれたんじゃ、俺もおやっさんも、落ち着いて寝れやしねぇんだよ。お前の方で何とかしろや」  そこまで言うと藤崎はようやく落ち着いたように顔を遠ざけた。なんとかしろというのは、花菱の伝令だろうと、田辺は思う。大峰は金で動く藤崎のような下衆でもない。ともすれば、花菱の言う「何とかしろ」は、大峰を始末しろということだった。 「あの野郎、虐待されてたかなんだか知らねぇけど、なんだよ、あの眼、気色悪いったらねぇだろ…」  虐待という単語を拾い上げた田辺は、シンパシーを感じたと言った大峰の、その理由をようやく理解した。あの死にたがりは自分と同じだったのか。ならば、自分の眼もああして井戸の様に暗いのか。藤崎が気色悪いとのたまったあの眼の底を覗いてみたいと思った自分も、大峰同様に、大峰の見えない何かに惹かれたのかも知れない。と田辺は考え、そうして花菱からの二度目の伝令を、どう遂行するのだと自分に問いながら、藤崎の話は右から左だった。
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