浮かんでは沈む

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浮かんでは沈む

 深澤の件を追っている大峰が姿を消せば、真っ先に疑われるのは、大峰と接触を繰り返している田辺だった。何か筋書きが用意されているとも思えない突飛な提案に、田辺は花菱の焦りを感じた。早急に手を打つべきは、証拠もないまま勘だけで動く大峰よりも、花菱を引きずり下ろそうとする、糸島や佐治や柏木一派のはずだった。花菱組を共にけん引してきた遠藤が死に、その遠藤が育てた遠藤組が一派を離れたとなれば、周囲の状況を判断できないほどに焦っているということだろう。だとして、花菱からの伝令を、どうするべきか、ということが、田辺には思いもつかないのだ。それもこれも雨のせいだ。田辺は重々しい鈍色の空を見上げた。湿気た空気、雨が濡らすアスファルトの匂い、雨粒が体を打つリズム、雨音、それらすべてが田辺の頭に一気に流れ込み、思考の邪魔をするのだ。それに加えて鉛のように体が重い。梅雨はまだ始まったばかりだというのに、この調子では、終わる前にくたばりそうだ。田辺はそう独り言ちた。  濡れた体をずるずると引きずりながら、屋上階段の踊り場まで登り切ったところで、またかとうんざりさせられた。最後に事務所から飛び出していって以来、ずっと見かけていなかったのだ。自宅の場所など誰から聞いたのか、両膝を抱えた健二が鍵のかかった扉の前に座り込んでいた。 「またかよ」  思わず漏れた田辺の声に、ハッとしたように顔を上げた健二は、すくっと立ち上がり「お、お、おつ、お疲れ、さ、さまです」と相も変わらずつたない挨拶で頭を下げた。 「兄貴の前でマワすって言ったろ」  田辺は本気だったのだが、健二はどう受け止めたのか、自宅を狙って来たのは健二がちょっとばかり賢くなったということだった。いや、あれだけやられてまた来たということは、その逆か、どちらにしても、今日は怒鳴りつける気力もない。田辺は健二を見過ごすことにした。  扉を押し開けると、煽られ霧のように細かくなった雨水がビル風と共に吹き込み、田辺は目を閉じた。雨の日の、これも嫌いだ。顔に吹き付けたしぶきを手で拭い、田辺が外階段へ出るとどこまでついて来るつもりなのか、健二も後に続いた。田辺はちっと舌打ちし、健二を無視したまま階段を上る。  屋上ではコンクリートに跳ね返った雨粒が、地面近くをけぶらせていた。縁に沿って掘られた浅い排水溝に向かって、中心部から外側に緩やかな傾斜があったが、天井から落ちてくる雨粒の量が多いと、流れる速度に比例して、二センチほどの水たまりができた。階段を上り終えたところで、その水たまりの中に足を突っ込み、田辺は不機嫌に舌打ちし、つま先を蹴り上げる。この屋上の欠点は水はけの悪さだ。田辺は水の流れる先に目をやり、続いてその縁に立つ低いフェンスを見た。先日、そこで拾い上げた命を、今度は捨てろというのか。 「それも……いいかもしれません」  そう言った大峰の吐く息の生暖かさと、そうして腹を押し上げた肋骨の硬さを田辺は想起した。よく知りもしない男と心中しようという人間の心情など、わかるはずもないのだが、しかし、田辺は大峰というイカれた刑事の内側をもう少し知ってみたいと思うのだった。  玄関先の短い軒の下までやってくると、まだ帰るつもりもないのか、健二も後を追って来た。 「く、く、くみ、組長」  健二が田辺のスーツの袖をつかみ、田辺はそれを振りほどく。 「帰んな、何べん来ても同じだよ」  ヤクザなど好んで成るような仕事でもない。一度ハマったら抜けられない、薬と同じ底なし沼だ。田辺が健二の将来を憂うわけでもなかったが、わざわざ自分を選ぶ事もない。ヤクザ事務所は他にいくらでもあるのだ。 「お、お、おね、お願い、しま、します」 「よそでやんな、うちじゃねぇなら、どこで何してたってかまわねぇよ」 「く、くみ、組長が、い、い、いいんです」 「あれか? 掘られて、目覚めたか?」  ちがいます。雨音にかき消されそうな小さな声だったが、健二ははっきりと一言でそう言った。なんだ、普通にしゃべれるのか。田辺が振り返ると、縁を赤く染め、熱に浮かれたような健二の眼が田辺を見上げていた。それは好奇心と期待と興奮と、わずかばかりの不安の色を滲ませており、田辺は冗談のつもりで言ってみたのだが、そうかと腑に落ちた。激しく上下するTシャツの胸元も、色濃く赤を引いたその唇も、健二の昂りを田辺に教えている。どうせ抱くなら、女の方がよかったが、と、田辺は考えながら、健二の体を引き寄せ玄関扉に押し付けた。硬く骨ばった細い体はすっぽりと田辺の腕の中へと納まり、健二は身体を固く縮こませる。 「く、く、くみちょ、ちょう…」  田辺の親指が紅を引いたように赤い唇を強くなぞり、引っ張られた唇がベロりと捲れあがると、つづけて田辺は健二の口腔へと指を滑り込ませた。  雨で冷えた田辺の指先が、健二の熱を奪う。 「今更嫌がんなよ」  田辺の親指をくわえたままの健二の唇に、田辺は自分のそれを押し当て、舌を割り込ませた。親指に引っ張られた口角から、唾液を含んだ健二の呼吸がプクプクと泡だち、その音に雨水が、水たまりに落ちる音とが混じり合う。  田辺は親指を抜き取り、その濡れた指を健二の頬に這わせ、さらに奥へと侵入し、行き場を見失った健二の舌をからめとり吸い上げる。雨音は、鼓膜の内側から聞こえ始めた湿った音にかき消された。飲み残した唾液が、健二の顎を伝い、田辺の手を濡らし、小さな鼻腔から漏れ出た健二の興奮は、田辺の頬を熱く焦がす様だった。漸く唇を逃してやると、健二はトロンと溶けた視線を田辺に向けた。 「女は? 経験あんのか?」  十八ならば経験済みかとも田辺は思ったのだが、どうやら違ったようだった。健二は面映く、俯いて首を横に振った。 「気の毒にな」  そう同情を示しながら、田辺は再び健二の、その唇を貪った。  田辺が童貞を切ったのは、十六のころのことだ。あの頃は持て余すほどのエネルギーがマグマのように、常に体の中心で熱を放っていた。それが今はどうだ、すっかり冷えて腹の底で固まっている。目の前の健二は口づけただけで、そのマグマを沸騰させようとしているというのに。田辺は健二の初めてが男であることに同情しながらも、しかしその若さが少しばかり憎らしい。  健二の尻へと手を回し、そうしてギュッと引き締まった二つの肉塊を掴み上げると、充血したその下肢を自らの太腿へと押し付けてやる。吐息にも似た健二の嬌声が耳をくすぐり、田辺は健二の若さに復讐を果たした気がした。さらに激しく小さなその尻を、田辺は揉みしだく。突き当りにぶつかるたび、硬くなった下肢はパンツの中で擦れあがり、その恍惚に健二はかすかに体を震わせる。  激しく肩を上下しながら呼吸を繰り返す健二の指が、腕に食い込んでいくのを感じながら、田辺は、そうだ、あの時もこんな感じだった。と、初めての少女とのそれを思い出した。安いラブホテルの一室で、少女は怖いと体を震わせながら、向かい合った田辺の腕を掴んだ。緊張していたせいか、挿入した悦びなどは一つも覚えていないのだが、ただ、細い爪が腕に食い込む痛みだけが、今もはっきりと、田辺の記憶に残り続けていた。あの時、大峰も怖かったのだろうか? 突き落とされようというのに、表情一つ変えなかった大峰の指の感触が少女のそれに重なる。 「も、も……や、やめ……」  息も絶え絶えに言った健二の尻が、田辺の手の中で緊張したように硬くなり、そうしてビクビク震えると同時に、健二の中心部から、白濁が短い痙攣を伴って吐き出された。突然にぐったりと田辺の肩に、頭を預けた健二だったが、収まり切らない熱を内包した下肢はまだ萎えることもなく、黒いパンツに出来た小さなシミを押し上げていた。  健二の欲情に当てられた様に、漸く田辺の雄が昂り始める。倦怠感のせいだ。健二より随分遅れてやって来たそれに、田辺は言い訳した。  扉に手をつき背中を向けた健二の背後から、田辺はその内壁を探る様に、徐に腰を突き出した。先端からじょじょに締め付けられる田辺の雄は、初めてそこを犯した時よりも、ずっと鋭敏に健二の内壁の温度を感じる。健二のめくれ上がったTシャツの裾から覗いた、細い腰がもどかしそうにうごめき、健二の絶え兼ねた小さな呻き声が聞こえたが、田辺は構わず、さらに内奥へと踏み込んだ。  健二は悲鳴とも言葉とも取れない声を上げると、身体中を粟立たせ、堪える様に両腕をぐっと突っ張った。田辺は、痛みか快感か小刻みに筋肉を震わせる健二の腰を、体を弄った。背骨に沿って隆起したなだらかな背筋、それを覆う皮膚はキメが細かく、滑らかだった。湿度と体温によって吹き出した汗は、ごくごく小さな玉になり、健二の体に艶をつけている。大峰は––––またもや、刑事の顔が頭に浮かび、田辺は振り払おうと、腰を引き、今度は激しく打ち付けた。  田辺のそれに押し出されるように、健二の開いた口から声が漏れ出した。ぶつかり合う肌の音とともに、その声は玄関先の軒下で湿度を含みコンクリートの上へと落ちていく。  繰り返し寄せて来る波が田辺の頭の中で雑多な物を、攫いながら飲み込み、空っぽになっていくそこに、大峰への何かしらの執着だけが、沈んでは顔を出し、遠のいては近づく。  隣接するビルの太い排水パイプが、滝の様なゴォゴォという音を立てながら水を落とし、田辺は健二の背中に欲情の残滓を放出する。健二の白い尻の上でヌラヌラと光るそれを眺めながら、田辺は、またぞろ雨は嫌いだと、そう思った。
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