雨傘

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雨傘

 障子を透かす座敷の明かりが、濡れた中庭をぼうっと浮かび上がらせ、時折湧きだす、よその座敷の笑い声を遠くに聞きながら、田辺は静かな縁側に立ち、近頃はどこへ行っても禁煙だ。と愚痴をこぼす。まさか、座敷でのタバコを見咎められるとは思いもしなかった。  結局、会合は物別れに終わっていた。田辺に賛同したのは三人、残りは、話になるかと一蹴し、花菱は答えをださなかった。若いと言っても田辺の二回りも長生きの、年より連中の頭は金槌で殴ったところで、割れやしないのだ。思った通り時間の無駄だと、田辺は考えてみたのだが、こうして意味もなく群れるのが好きでなければ、ヤクザになどなっていないか、と玄関口を去っていく古だぬきを見送った。 「すまねぇな」  障子を開け、中庭を明るく照らしたのはその中でも一番の古だぬきだった。花菱は上座の座椅子に腰を下ろしながら、便所が近くてな。と年よりじみた独り言を漏らす。玄関先で呼び止められた時も感じたが、先日、自宅を訪ねた時より、花菱が弱々しく見えるのは、田辺の思い過ごしでもなかったようだ。今もまた、花菱を見下ろしながら、田辺は同じことを考えた。遠藤の死がよほど堪えているのだろう。  田辺はまだ十分吸えるタバコを灰皿に押し付け障子を閉じた。 「刑事の件、片は付いたのか?」 「まだ、何も」  藤崎と顔を合わせて十日、田辺は大峰の件を保留にしたままだった。柏木とのごたごたで、その内忘れてくれるだろう、と高を括っていた。 「修の話だがな……おめぇの言う通り、手打ちにするのがあいつの為だ。あいつらの顔見ただろう? 修に着いていこうって奴は誰もいねぇ」  それは、修が花菱組の若頭になったころから、いや、もっと以前からそうだった。若い時分から組長の息子であることを傘に、好き放題やって来たのだ。今更それを嘆いたところで、時間が巻き戻るわけでもない。 「俺が逝っちまったら、あいつには何にもなくなっちまう。いくらボンクラでも、俺はあいつが可愛いくて仕方ねぇんだ」  親っていうもんは、そういうもんでな。そう続けた花菱の言葉に、田辺はどの口がそれを言うのかと、表情を変えないまま嘲笑した。田辺を可愛がった深澤も、今の花菱と同じだったはずだ。己可愛さに深澤を殺すことを指示したその口で、息子が可愛いとのたまうのか。田辺の嘲笑はわずかずつ色を変え侮蔑となり、腹の底に澱のようにわだかまり続けた花菱への余憤を引きずり出した。ふつふつと体内で沸騰し始めたそれは、内側から田辺の体を焼き尽くそうとしている。放射される赤熱に体中の筋肉が酷い痒みを伴って疼き始めると、田辺は膝に置いた両手をぐっと握りしめた。   料亭を表に出て石畳の兵庫横丁を歩きながら、田辺は結局のところ、何が間違っていたのだと過去を振り返っていた。父親を金属バットで殴りつけたあの日か、ゴミ捨て場に捨てられ深澤に拾われたあの日か、それとも、深澤を手にかけたあの日か、それらの記憶が田辺の頭の中で覗き絵のようにぐるぐると回転し、色あせたそれらは自分の記憶でありながら、他人の眼で見た他所事のようでもあった。  もっとずっと以前だ。  母親の命を奪って、この世に生を受けたその時から、間違っていたのだ。田辺はそうして、顔も知らない母親の姿を思った。  神楽坂通りへ出たあたりで、田辺は近くに待たせてある岸本に戻る旨を電話で伝え、雨粒を落とし続ける赤黒い天井を仰いだ。料亭の玄関先を出る前、見送りに出てきた女将から、傘を勧められたのだが、田辺はそれを断っていた。歩く最中降られ続けたおかげで、すっかり濡れてしまった髪を後ろへ撫でつけると、田辺は路肩へ寄り加えたタバコに火を点けるためにライターのフリントホイールをまわす。髪をかき上げたお陰で濡れた指はホイールの上を空滑りした。また一つ、雨が嫌いな理由を見つけたようで、田辺の憂鬱に拍車がかかる。仕方なく火のないタバコをくわえたまま、街路灯の灯りを反射させるアスファルトに目をやった。タイヤが通り過ぎていくたびに、跳ね返った飛沫がぴちゃぴちゃと小気味よい音を立てたかと思うと、今度はそれが突然遮られたようにくぐもり、背後からやって来た黒い影が田辺の頭上を覆い、天井に目を戻すと赤黒い空が黒い雨傘に隠されていた。田辺が振り返る間もなく、その傘に跳ね返った声が雨の変わりに田辺の上から降り注だ。
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