疑惑

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疑惑

「濡れますよ」  もうすっかり濡れてしまった田辺を気遣ったその声に、田辺は傘を差しだした主の暗い眼を想起した。 「傘はささない主義でして」  昔からそうだ、片手の自由を奪われるのが煩わしいのだ。  ここにいるということは、事務所を出たところからつけられていたのか。 「ライターお持ちです?」  振り向きざまに訊ねてみたが、タバコの匂いのしない大峰が、ライターを持っているとも思えない。田辺は咥えたタバコを諦め、指で折り取ろうとし、はたとその手を止める。 「どうぞ」  大峰は火のついたライターを田辺の前に差し出した。大峰の顔をぼんやりと揺れながら照らすライターの火に、田辺は少しばかり驚かされた後、遠慮なく火を借りることにした。じっと先端が小さな火花を散らしながら燃え始め、田辺は煙を肺に流しいれる。 「タバコ吸わないでしょう? 大峰さん」 「持ってても、困るもんでもないですから」  再びポケットにライターを仕舞う大峰の、滑稽でしかし理にかなったような返答に、田辺はふっと声を漏らして笑った。確かに、持っていても困るものでもなかったが、タバコを吸わない大峰には持っていなくても困るものでもない。 「変わってますね」 「よく言われます」  しれっと答えた大峰がことさらおかしく、田辺は思わず吹き出した。一方大峰は、天然なのか、あるいはただの堅物か、何がおかしいのだ。と、言わんばかりの表情で田辺を眺めるばかりだった。藤崎のことは嫌いだったが、大峰を変人だと称したことだけは、田辺も共感する以外にない。大峰は今日も季節外れのトレンチコートをスーツの上に羽織り涼しい顔だった。いくら雨が降っているとは言え、湿度も気温も夏のそれと大差なく、寒いわけもないのだ。 「今日も、寒そうですね」  意地悪を言ってみたくなったのは、大峰が意図せず自分を笑わせたことへの仕返しのつもりだった。田辺はタバコを挟んだ二本の指で大峰のトレンチコートをさし、いかにも暑苦しいといった表情を作って見せる。 「ああ、これ? 暑苦しいでしょう? すみません。自律神経だか副交感神経だかがイカれてて、夏場でも寒いことがあるもんで……」  田辺の嫌味に真面目に答える大峰が、可笑しくて、また吹きだす。変わらず大峰は何が可笑しいのかと、田辺が笑った理由を見つけられずぽかんと間の抜けた顔だった。 「いえ……すみませんね」  田辺は空咳を吐き、込み上げた笑い声を喉の奥から追い出した。警視庁の刑事なら頭もそれなりに良いはずで、修のようなボンクラでもあるまいし、嫌味の一つも通じないのかと思うと、目の前の刑事に田辺はどこか愛着のようなものを感じる。 「で、今日はどんな御用で?」  もう少し話を聞いてやろうという気になったのは、大峰のお陰でつい先ほどまで思い悩んだ、これまでの雑多なことがまるで洗い流されたように、田辺の中から消えていたからだった。 「いえ、今日は、田辺さんに用があったわけじゃないんです」  だったら、一体ここへは何をしに来たのか? 田辺は大峰がやって来たと思しき神楽坂の緩やかな傾斜を振り返る。飲食店や商店が立ち並ぶ以外になにがあるというわけでもない。一度、坂のてっぺんまで上った田辺の視線は、再び坂を下り玉垣の中央に据えられた朱門に止まる。 「お参りですか?」 「ええ、まぁ……ほんとはもっと早く来るつもりだったんですけど、仕事が押してしまって」  賭け事の神様だという毘沙門天を本尊にする寺だけに、田辺は神頼みにでも来たのだと思ったが違ったようだ。そう言われてみれば、タバコを吸わない大峰がライターを持っていた理由にも納得がいく。大峰は何事かを思い偲ぶように、目を伏した。 「どなたの……」  田辺の言葉を遮るように短いクラクションが二度、一方通行の路地に響き、路肩でチカチカと瞬くハザードランプに田辺は目をやった。ヘッドライトを落とした黒塗りのBMWの運転席から岸本が顔を出し、同時に振り返った大峰が「お迎えですか?」と尋ねる。田辺の隣に立った見知らぬ男に警戒したのか岸本は、扉を少しばかり開け、いつでも飛び出せるように片方の足を地面に下ろした。しかしそれも、田辺が右手を小さく二度払ったことで、つかの間に終わる。ハザードを収めたBMWは再びヘッドライトを焚き、濡れたアスファルトの上を滑り始めた。追い抜きざま軽く会釈をした岸本の横顔を、もう気付いているのかも知れないと、田辺は見送った。  岸本とは今年で十四年になる。十六の頃から田辺の小間使いとして下に付いていれば、阿吽の呼吸とはよく言ったもので、田辺のちょっとした仕草や目配せに、岸本は田辺を解するようになっていた。弟の健二が事務所に出入りするのを嫌がるのは、自分との関係を危惧してのことか、田辺は何も言わない岸本の心中を少しばかり案じた。 「少し、歩きませんか? 大峰さん」  大久保通を左へ折れていくBMWを目で追う大峰に田辺は声を掛け、車の去った大久保通へと足を踏み出した。  神楽坂から歌舞伎町までは大久保通を西へ下る。途中若松町の交差点で左に折れれば、そこから東新宿駅までは道なりだった。歩けば五、六十分という道のりを、田辺もまさかレザーソールの高級紳士靴で踏破しようというつもりはなかった。疲れれば、その地下を走る大江戸線に乗るか、駅前でタクシーを拾えばいい。まずは牛込神楽坂だと一つ目の駅を目指して歩きだした田辺の歩幅に合わせ、大峰が隣を歩く。男二人が入るには大峰の傘は手狭で、田辺の肩は傘からはみ出す格好だった。傘を滑って落ちる雨粒が、時折パタパタと音を立て田辺のスーツの肩口を濡らした。田辺は別段、それを気にすることも無かったのだが、気にかけたのは大峰の方だった。 「スーツ、台無しになりませんか?」  自分のスーツと比べてみても、田辺のそれがいくらか値が張ると考えたのか、大峰はそれが気になるらしい。確かに、大峰のように吊るしの安物でもなかったが、部屋のクローゼットには二十代から買い集めたスーツがいくつもあり、一着ダメになったところで困るようなものでもなかった。 「御心配には及びませんよ」  まさかスーツの心配をされるとは、思っていなかった。田辺はまた一つ、大峰に対する愛着が湧き、そうして、先日感じた大峰への何かしらの執着が一つ、それにすり替わる。 「今日は、どんな御用でこちらに?」  先程自分が尋ねたそれを大峰が反復し、田辺は「会合です」と短く答えてやる。会合だと言えば聞こえはよかったが、結局のところ、あれが一体なんの為の集まりだったのか田辺にはわかりもしなかった。ただ、花菱が田辺を一人、あそこに残した理由だけはわかっていた。田辺の前で畳に頭をこすりつけた哀れな老人と、とうに冷めきってしまった自身の赤熱を思い出す。花菱はこれまで誰にも下げることのなかったその頭を、ボンクラ息子の修の為にいとも簡単に下げたのだ。 「修のことは、田辺よ、お前にたのみてぇんだ」  遠藤の死によって、刻一刻と近づく己の死に際を悟りでもしたのか、花菱は田辺に修を頼むと頭を下げた。田辺はそれを見下ろしながら、溜飲が下ったというわけでもなかったが、身を焦がすような花菱に対する余憤が、ざっと音を立てながら潮のように引いて行くのを感じた。 「伺いましたよ、色々、大変だそうで……」  内輪もめの話は殺人課の刑事の耳にも届いているのか、田辺は「ええ、まぁ」と子細を告げることも無く、曖昧な返事をした。柏木組との和解について賛同した花菱だったが、花菱自ら他の組長連中の前で、柏木との和解を口にすることはない。アレはプライドが高すぎると、田辺は思う。仲違いの原因など田辺は知りもしないのだが、どうせ下らなことなのだ。女の取り合いか、あるいはシマの取り合いか……もしくは、互いへの嫉妬か。男ばかりの世界にあって、惚れた晴れたと戯れるのは決まり事のようなものだった。男の嫉妬は女のそれより、強く根深い。そこまで考えて、田辺はあほらしいと、それらを頭から追い出す。 「お参りって、さっきおっしゃいましたけど、ご家族です?」 「ええ…まぁ、そうですね…家族です」  半ば言い淀んだように大峰が話すものだから、田辺はそれが引っ掛かる。他人の隠し事をほじくり返すような悪趣味はなかったが、相手が大峰だからなのか、喉の奥に刺さった小骨のような小さな異物感の正体を知りたくなった。 「大峰さんは関西出身なのかと思ってましたが、違いました?」  大峰の方言はまぎれもなく、関西のモノなのだ。確認するのも阿保らしかったが、それを尋ねたのはやはり大峰に対する、田辺のちょっとした意地悪でもあった。田辺の問いかけに惑ったように口ごもる大峰に、自分のことは話さないつもりなのか? と田辺は癪に障る。田辺が以前そうされたように、大峰の中身を引きずり出してやりたい気になった。刹那、自分の中に湧いた子供じみた感情に、田辺はこの男と一緒だと、調子が狂うと改めて思い知らされた。 「困るような事、聞いちゃいましたかね?」 「いえ…僕自身は…大阪出身です」  歯切れの悪い物言いだった。まだ隠したいことが大峰にはあるらしい。大峰の足取りは迷ったように一歩一歩と歩幅を狭め、田辺はわざわざそれに合わせて歩いてやる。 「じゃあ、ご親戚かなんかで?」 「そういうわけでも……」  適当に話を切り上げればいいものを、真面目な性格なのか、それともただ単に不器用なだけなのか、どちらにも振り切れない大峰を、刑事の癖に嘘が下手な男だと田辺は横目で観察した。これまで数えきれないほどの刑事を見てきたが、藤崎を筆頭にどいつもこいつも肝心なことは顔に出さないのだ。現に藤崎が証拠を隠蔽したことに、田辺はこの六年も気づかない間抜けっぷりだった。それだというのに、隣を歩く男は田辺の意地悪な質問に明らかに当惑している。田辺は大峰に対する愛着をまた一つ覚えた。 「ああ……もしかして」  好い人ですか? 留めを刺してやろうと放った質問に、大峰の足がピタリと止まり、田辺は思いがけず雨の中へと放り出された。まさか、ここまで動揺するとは考えもせず、その意外な反応に田辺は先日の報復を果たしたようで、少しばかり満足する。街路灯の明かりを吸収したように、白く暗闇に浮き上がる小さな雨粒は、しとしとと田辺の上に降り注ぎ、サマーウールのスーツの上に、キラキラした小さなドット模様を描き出した。 「どうしました? 大峰さん」  振り返った田辺に動揺していることを悟られまいと、慌てた様に大峰は田辺の方へと傘を傾け「すみません、濡らしてしまいました……」と、的外れな返事をした。もうとっくに濡れている。田辺はそう独り言ち、傾いた傘を大峰の方へと押しやった。 「それこそ大峰さんが風邪をひいたら大変ですよ。解決していただかないと、うちの親父も浮かばれませんから」  深澤が浮かばれることなどありはしないのだが、と田辺は己の背中に背負った、深澤の怨念を想う。結局、退院した後も彫師はしばらく自宅で休養することになり、未だに背中の彫り物は未完成のままだった。色のない彫り物は逝った深澤を追いきれない田辺自身を映し出したような中途半端さで、田辺はそれも己の業なのかと考えれば少しは諦めもついていた。 「解決、できればの話ですけどね」  またか、と田辺は大峰の暗い眼窩の前に立っていることに気が付いた。事件になにがしかの思い入れでもあるのだろうか。六年前の事件当時、田辺の周辺を嗅ぎ回った刑事の中に、大峰の姿はなかったはずだ。仮に深澤の事件に関与していたとしても、六年経った今頃、田辺の前に大峰が姿を現したのは、同じ境遇で育った田辺に対する「シンパシー」が理由だとは思えない。たかがヤクザ一人が死んだだけの話に、そこまで大峰が執着する理由が田辺にはわからないでいる。 「深澤さんの件、解決するつもりはありません」  突然零した大峰のセリフに田辺は、聞き間違いかと自分の耳を疑った。
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