六年前

1/1
前へ
/35ページ
次へ

六年前

 六年も前の深澤の件で刑事が一体なんの用だ。田辺は鎖を吐き続ける大峰のその顔に目をやった。途端に田辺は仄暗く冷たい色をした大峰の眼に惹きつけられる。こんな眼をしていただろうか。黒い二つの瞳孔は暗い穴のようで、そこから這い上がる冷たく湿った空気が、体にまとわりつき田辺の好奇心が掻き立てられた。何を隠しているのだ、と考える一方で、田辺はその穴に引きずり込まれまいと、無意識のうちに足を踏ん張った。  じゃり。  靴底がアスファルトを擦り、田辺の意識は不意に歩道の上へと放り出される。 「田辺さん?」  変わらずこちらを見つめ続ける大峰から、田辺はほんの少しばかり視線をずらす。 「聞いてますよ、深澤の話ですよね」  言った途端に大峰の眉尻の血管がピクリと微かに痙攣し、田辺は視界の隅でそれを捉え、何か不味かったかと頭を巡らせた。 「亡くなった人の事は、組長だとかオヤジだとか呼ばなくなるんですか?」  話が逸れ、田辺の神経はささくれだつ。 「深澤が逝ってから花菱組三代目の盃を受けましたんで、今は花菱三代がオヤジです」  花菱からの盃を受けたのは、深澤の名誉を守るためだった。  きっかけは、たった一人の女だ。歌舞伎町のクラブを任せていた若い男と、当時深澤の情婦だったその女が、売り上げの二百万を持って逃げたのだ。深澤の二人に対する執着は異常なほどで、二人を血眼になって探し続けた。たかが二百万ぽっちと、女一人に何をそこまで執着するのか、と当時の田辺は思っていたが、あれは深澤の嫉妬と、業だったのかも知れない。ようやく二人を見つけた一年後、追われる恐怖によって手を出した薬におぼれた二人は、もはや深澤が誰なのかも判別がつかない廃人だった。放っておけばよかったものの、二人を処分させた深澤は、周囲に対する不信感と猜疑心に精神を蝕まれ、深澤を裏切った二人と同じに、薬に手を出すようになり、そこからは面白いように壊れていった。  事務所の片隅でぶつぶつと独り言を繰り返していたかと思えば、組の誰かが自分を殺そうとしているという妄想に駆られ、日本刀を振り回し暴れる日もあり、田辺は随分手を焼かされた。当時から花菱と犬猿の仲だった柏木が、そんな深澤に近づいたのは、明らかに花菱組の内ゲバを狙ってのことだった。柏木の吹き込む空気が毒だということにすら気づけなかった深澤は、兄弟だった花菱にちょっかいをかけ始めたのだ。忠義、義理、仁義、絆と、田辺の暮らす世界で重んじられるのは、そんな目に見えもしない不確かなものばかりで、それがすべてでそれ以上でも以下でもない。良くも悪くもプライドの高い花菱が、内輪揉めを表に出したがらなかったのは当然のことだった。親の始末をつけるのは子の役目だと、そう言った花菱の言葉を受け入れたわけでもなかったが、深澤を放っておくことができなかったのは、狂って落ちていくばかりの深澤を見ていられなかったからだった。五分兄弟としての名誉だけは守ってほしいと、そう約束を取り付けて、田辺は深澤をその手にかけたのだ。花菱のプライドは、深澤を兄弟としてあの世へ送り出し、田辺にフカザワ興業を引き継がせることで守られた。 「案外、簡単に切れるもんなんですね」  ぼそっと漏らした大峰の言葉に、深澤との親子の絆を否定されたようで、田辺は思わず大峰を睨みつけた。 「どういう意味です?」 「切ろうと思っても、切られへん親子の縁もあるでしょう? そういうもんかと思ってました」  大峰の眼の色はよりいっそ深く濃く暗い色を増しており、田辺は再び視線を逸らすと、一体何が知りたいのだ。と大峰に尋ねた。 「ああ……六年前の件で、お話聞かせて頂けないかと思いまして」 「進展でもあったんです?」  使った車は盗難車で、翌日には知り合いの解体業者に他の車と纏めてバラさせた。靴も着ていた物も顔を隠す為のキャップも、深澤の首を絞めたロープも手袋も、何もかも燃やして灰にした。内部抗争か、もしくは戦争かと、ピリピリしたのは組対の連中だけで、田辺は疑われもしなかった。重要参考人として引っ張られたのは若頭の紫藤だったが、その紫藤も自宅で首を括っている。  今更証拠も人も出せる筈もない。 「詳しくは話せません…」  タレコミがあったとすれば花菱以外におらず、息子の修ならまだしも三代目がそこまで馬鹿だとは田辺も思っていない。 「代表」  田辺の様子に気付いた山井が向こうから声をかけ、大峰がそちらへ顔をやると、田辺はその横顔を眺めながら唇の端を歪めて笑った。  この男は嘘をついている。 「すみませんね、今日は忙しくって」  山井から田辺に戻った大峰の目からは、暗い色が抜け落ちた様に消えていた。 「そうですか、でしたらコレ」  大峰は名刺入れから名刺を一枚取り出し、田辺の方へと寄越したのだが、それを受け取るなり、田辺は目も落とさずに山井に手渡した。そうして今度は田辺がポケットから、名刺を一枚取り出す。 「何かあれば、いつでも連絡ください」  型押しされた花菱の紋と、「フカザワ興業 代表取締役 田辺勇美」の文字が印字された、その名刺を大峰に差し出し、田辺は「では」と、車に足を向けた。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!

61人が本棚に入れています
本棚に追加