井戸の男

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井戸の男

 丁度、真北の壁際中央には白木の神棚が部屋を見下ろす形で鎮座しており、その両側の榊は今朝挿げ替えたばかりなのか、ずいぶん青々としていた。田辺はそれを惚けた様な顔で見上げ、自身の事務所のそれとは値段も素材も違う、ソファーの背に深く身体を沈めて足を組み換えた。  ヤクザは揃って人知の及ばない力というのが大好きで、神棚も飾れば弦も担ぐ。どんなに金のないヤクザ事務所でも、神棚だけは必ずあった。例に漏れず田辺の事務所にも、こちらは真西に東を向いて神棚があったが、ただそこにあると言うだけで、ついた埃が払われるようなこともなくなっていた。最後に田辺が青い榊を見たのは、いつのことだったか。神様だなんだと言いながら、やってる事は地獄の鬼とおんなじだと田辺は独り言ち、続けてぐるりを見回した。  壁にはどこぞの画家が描いた抽象画があり、その反対側には中国あたりの高価な磁器の壺があり、神棚の真下にはマホガニー素材の飾り棚があり、その上には象牙の彫刻があり、まるで博物館のようでしかし、その統一感のなさが花菱の人となりを表している様だった。 「待たせたな」  しゃがれた声に田辺はスーツの裾を引っ張りながら立ち上がると、九十度に腰を折り頭を下げた。本来なら真っ先に出向く予定だったのだが、先日の面会は会合だか会食だかで断られていた。 「まあ座れ」  花菱はソファーに着くなり羽織の袖から祝い袋を取り出し、それを田辺の方へと押しやった。 「ご苦労さん」  息子の時とはえらい違いだと、田辺は二センチはありそうな分厚い祝儀袋を、やはり息子の時と同様に恭しく受け取りスーツの内ポケットに仕舞った。つづいて、小さく咳払いしながら床の上へ膝を下ろし「ご過分なるご祝儀を頂戴いたしまして、お礼申し上げます。私、田辺勇美、三年の刑務所生活より、無事復帰することができました。今後も花菱組の為に、任侠道を邁進して参る所存でございます」と、多分にもれず、仰々しく口上を述べた。昔はこれを刑務所の表で、それも大勢の前でやっていたと言うのだから呆れたものだった。 「精進せぇや」  田辺は五秒数えて漸く顔を上げ、再びソファーに腰を沈めた。 「放免祝いもしてやれねぇで、すまねぇな」  邦正会が指定暴力団になってからは、大規模な集会は忌避されるようになり、当然の事ながら、刑務所前で堂々となされた放免祝いなどはもはや、昭和の遺物となっている。 「お気持ちいたみいります」  花菱はヒュミドールからキューバ産の葉巻を一本取り出すと、シガーカッターで吸口を切り落とした。田辺はそれを眺めながら、ライターで火を着けてやる気遣いが必要ない葉巻は好きだと、そう思う。まだ若い時分に、それを知らずにライターを差し出して、ひどく頭を打たれた事があった。あれは、誰だったか。 「どうだ?組の方は?」  花菱の声が田辺の思考を邪魔し、田辺は誰に頭を叩かれたのかを思い出せなかった。 「自分より、下のモンがしっかりしてますんで」  事実、田辺が離れていた三年、毎月八十万の会費は滞ることなく支払われていたし、大きな問題も揉め事も皆無だった。田辺が跡を継いだことで深澤を慕った舎弟の殆どが、散り散りになった中、岸本と山井をはじめとする残った若衆数人は、田辺と違い真面目に仁義を貫いていた。 「変わった事はなかったか?」  変わった事と言えば、あの暗い穴の目の男だと、先日、病院で会った捜査一課の刑事を思い出す。芯から冷える様な冷気が登ってくるのに、どれ程の水があって、どれ程の深さがあるのかもまるで暗くて見えない。引き込まれればすとんと落ちて、這い上がることさへ出来ない井戸だと、大峰の暗い眼に田辺は少しばかりゾッとした。 「大峰って刑事が訪ねてきました」  指ほども太い葉巻を口に咥え、花菱は紫煙を燻らせる。 「聞いたことねぇ名前だな」 「殺人課ですよ、組長。六年前の件で、進展があったとか無かったとか」  結局のところ田辺はそれを嘘だと判断したのだが、これまで停滞しつづけた事件を今更ほじくり返す理由もわからず、不気味といえば不気味であった。 「そうか」  一言頷き、花菱は手を組み頬を撫で、田辺は小刻みに上下し始めた花菱の膝に目をやり、刑事の話の信憑性がまた一つ薄れたことに安堵した。突然周囲を嗅ぎまわり始めた警察犬の動向に花菱はうろたえている。その様子を見れば、大峰がまだ花菱に接触していないのは明らかだった。 「他には?」  しばらくは、周囲をうろつく警察犬の影に怯えて居ればいい。 「何も」  田辺の答えに、音もなく吐き出された花菱の煙はゆらゆらと線を描きながら上り、やがて、霧の様に霧散した。
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