合言葉

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合言葉

「かっちゃん、待ってよー!」 田んぼの畦道を、走り抜けていく克也(かつや)を、(ゆかり)は、追いかけていた。 ぬかるみのお陰で、サンダルは、泥だらけになっている。それだけじゃない。(あかね)姉ちゃんのお下がりのスカートにも、泥が飛び跳ねて染みをつくっていた。 「俺に、ついてくんな!早く、うちへ帰れ、紫!」 空は夕焼け色に染まり、数羽のカラスが頭の上をすり抜け飛んでいった。 克也の言う通り、もう(うち)へ、帰る時間が来ている。 「忘れろ!何でもない!早く(うち)へ、帰れ!」   「かっちゃん!……わっ!」 ぬかるみに足を取られて転んだ紫に、先を走っていた克也が戻ってきて、引っ張り上げた。 「ありがとう……かっちゃん、ねぇ、どうしたの?」 「……次は、俺かもしんない。……だから俺に、ついてくんな……!!」 克也の、その怯えきった顔つきに、紫の小さな胸は不安でいっぱいになった。 「……俺見たんだ。茜を。そして……見つかった。……だから……」 克也は、歯を食い縛る。その先は、言ってはいけないとばかりに。 拳を作る手は小刻みに震えていた。 紫はなぜ姉の名前が出て来たのか分からない。 「かっちゃん……」 「(うち)へ帰れ」 「でも……」 「いいか──誰にも言うなよ!」 それだけ言うと、克也はまた走り出した。何かから逃げるように──。 一人になった紫は、月が登りかけた空を眺めると、転がるように家へと駆け出した。 ※※※ ーーーーもうすぐ夏祭りがやってくる。 神社では、五穀豊穣の神様へ、少女による『巫女の舞』が奉納される。 舞手は、代々、紫の家が担当している為、紫の姉、茜が毎晩遅くまで、家族総出で練習に係りきりになっていた。 紫が少し遅く帰っても、誰も気付きもしない。紫は用意されている、ちゃぶ台の冷たい(どんぶり)を食べるとご馳走様でしたと小さく呟いた。 一人は寂しかったが、それでも、お祭りが、やって来ると思うと、心が弾んだ。 飴細工、お面、わたあめ、水鉄砲……子供にとっては宝物みたいなモノを扱う屋台が、神社の境内にずらりと並ぶ。 そして、一番人気、傀儡師(にんぎょうつかい)の、寸劇が観られるのだ。 演目は昔ばなしだったり、浄瑠璃の一節だったり、とにかく、その結末を皆知っている、物珍しさなどない。 それでも皆を引き付けるのは、傀儡師の人形さばきの巧みさで、まるで、生きているかのように動く人形に釘付けになった。 この寸劇目当てにわざわざ、麓の村や、その先にあるもっと遠い町から、家族連れが集まって来るのだ。 村に子供は紫と克也、紫の姉の茜を含めて、7人しかいない。 そんな小さな村の祭りに屋台が現れるのは、相当な人が集まるからで、村の大人達は、その功労者である傀儡師を特別に接待しようとした。 ところがいつも断られ代わりに、祭りの期間中、村はずれのお堂に寝泊まりする事を傀儡師は望んだ。 そして──。 紫の姉、茜はこの傀儡師による寸劇が大好きだった。 「なあ、紫、あたし、あのおじさんに、連れてってもらいたい。あたしも、あの人形達のように、なりたい……」 「茜姉ちゃん、何、言ってるの!人は、人形には、なれないよ!」 「あははは、そうだね。人は、人形にはなれないね」 祭りが近づくたび、茜は、紫に冗談めかして言った。 毎年、紫の隣で寸劇を見る茜は、劇を楽しむのではなく、人形の動きに魅了されているように見えた。他の子供たちの様に、純粋に楽しんでいる様子と違って、仄暗い何かに心を鷲掴みにされているような、黒い渦に引き込まれているような、そんな瞳で寸劇を見る茜に、紫は、不安を覚えていた。 茜が、何処か遠くへ行ってしまいそうで。 いつか本当に人形になってしまいそうで──。
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