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高校時代、俺は実家を離れ、大学生の兄とふたりでアパート暮らしをしていた。独立心が芽生えたワケではなく、単純に地元には自宅から通える距離に高校が無かったからだ。兄は高校に進学する際にひとり暮らしを始めていたから、俺も中学を卒業するなり、その部屋に転がり込んだ。
男兄弟ふたりでの暮らしは意外ときちんとしていたと思うし、何より気楽だった。朝に強い俺が朝食を作り、几帳面な兄が洗濯をして、掃除は当番制。夕食もお互いのアルバイトのシフト次第で交代制で用意した。たまの外食でファミリーレストランに行くのが楽しみで、新作のスナック菓子やカップ麺をふたりぶんコンビニで買って試すのが豪遊だと思えるほど、慎ましやかな暮らしぶりだった。
十年経って、社会人になったいまでは、ファミレスでメニューを広げてもワクワクできないし、コンビニの新作に賭けるよりはいつもの味を求めてしまう。
しかし、決定的に変わったのは、俺だけではない。俺の大好きだった兄貴は、もうこの世にはいない。大学三年生だった兄は、あの日から時が止まったままだ。
高校の夏休みが翌週に迫った七月頭、兄のほうは大学の試験もレポート提出も終えていて、夜遅くまで遊びに出ていることが増えていた。その朝も、ひどく眠そうに起きてきたのを覚えている。
「おはよう、昨日はけっこう飲んだ?」
「そんなでもない。でも、味噌汁は欲しい」
兄のお気に入りの酔いざまし、インスタントのしじみの味噌汁を用意しながら振りかえり、俺は目を疑った。
食卓に肘をついて大あくびしている兄の肩口に、妙なものがひっかかっていた。まるで、風呂上がりにひょいとかけたタオルのような按配で、薄っぺらな人型の何かが、ひらひらとはためいている。
「……メシ、どんくらい食う?」
「いつもどおりー。あ、目玉焼き食いたい」
目を離せずに、でも、平然を装う。
それは、女だった。真っ赤な服を纏い、長い髪をだらりと兄の胸から床へと流している。仰向けに、腰のあたりでからだをふたつに折り曲げて、肩に垂れさがっている。女の目がギョロリとこちらを向く。ニタリと嗤われて、背筋に怖気が走った。
──どこで拾ってきたんだよ、そんなけったいなもん!
叫びたいような心地で食卓に背を向け、リクエストに応える。卵を割る指が震えた。
兄にはまだ、怪異が視えることを伝えていなかった。言うべきか迷って、結局、口をつぐむ。そのあいだも、ざわりとした不快感が肌を撫でる。腕をさすって感覚をごまかして、俺はなるべく明るい声を出した。
「昨日はまた、東京まで行ってきたの?」
「いや、市内で飲んでたよ。肝試しもしたんだ。つっても、友達の先輩んちが事故物件で、そこで宅飲みしてただけだけど」
先輩は心霊好きなタイプではなく、むしろ否定派らしい。だから、単に家賃を安く抑えるためにそうした物件を選んだそうだと、兄は女のいるほうの肩を揉みながら言った。女はケタケタとくすぐったそうに嗤っている。
「なんで、それだけでそうなるかなあ……」
ぼやいたが、卵とベーコンの焼ける音に紛れて、兄には届かなかったらしい。聞き返されて、なんでもないと答える。
たぶん、あれが最後の分岐だった。俺は、兄に信じてもらえないかもしれないという不安や恐怖に目をつぶって、打ち明けるべきだったのだ。自分が視えるたちであることや、兄に何か嫌なものが憑いていることを。
兄より先に出発しなければならない俺は、バタバタと朝食をかきこんで、かばんを手にふりかえった。いってらっしゃいと、グロッキーな感じで手を振る兄の肩で、女の足がひろひろと舞っている。
「兄貴も、気をつけてよ?」
どうにかそれだけ言いのこして、家を出る。かばんが揺れて、兄とおそろいの御守りについた鈴が、ちりり、と、かぼそく鳴った。地元の神社で正月に買った交通安全守だ。兄も確か、大学に持っていくバックパックに着けている。こんなものでも無いよりはマシだろうかと、産土神様に対して失礼なことを考え考え、階段を駆け下りる。
結論を言ってしまえば、お守りに目的外の御利益なんてものはなかった。その日、大学への道すがら、兄は、ビルの屋上から降ってきた看板の下敷きになって、時を止めた。
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