事故物件ロンダリング承ります

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 ダイニングテーブルのうえで、スマートフォンが振動する。とっさにカレンダーを目で探す。冷蔵庫の側面に貼った小さな年間カレンダーの丸印を探し当て、首を捻る。  まだ、引っ越しの時期には早い。たしかにこの物件の契約期間はあと二週間もすれば満了するが、いつもならば、そのあとでレポートを提出したり次の引っ越し先を見繕ったりと、なんだかんだで一ヶ月は延長で部屋を借りている。こちとら、これが本業ではないのだ。引っ越し業者に見積もりを取るのは必然的に土日になるし、レポートも平日の帰宅後、ちまちまと書き進める。書けない日もある。すべてのスケジュールを相手に合わせてはいられない。  鳴り続けるスマホの画面表示には、案の定『立川瑠偉(るい)』の文字があった。嘆息し、通話ボタンとスピーカーボタンを押す。 「やっほー、レンジくん! 元気ぃ? 実はさぁ、次の物件、ちょっと入居早めたいんだよねえ。そこの契約期間、まだあるけど、告知義務の必要な期間はちゃんと過ぎてるし、貸主さんのほうには僕からうまく言っとくからさあ」  いつもの軽い調子で一方的に話しはじめた立川をよそに、俺は冷蔵庫を開け、牛乳パックを手に取る。 「立川さん。何度も言いますが、俺の名前は廉士です。れ・ん・し。濁りません」 「いいじゃん、別にそのくらい。あだ名だよ、あだ名。それでね、いままでって、定借物件ばっかりだったじゃん? 今度のはさあ、ふつうの二年更新で行きたいんだけど、オッケー?」  定借物件とは、定期借家物件の略だ。一般的な二年更新のアパートやマンションの賃貸契約とは異なる。まず、更新がない。一年未満の契約も可能で、貸主の都合に合わせて期間を定めて契約する。たとえば、いま住んでいる部屋は駅近1LDKだが、同じ建物内の他の部屋の家賃は月11万円するところ、この部屋は破格の月6万円。そのぶん、今回なんかは、三か月と契約期間が短い。  まあ、俺の場合、6万円の半分は職場の住宅手当を受けているし、もう半分も立川の勤める不動産会社に支払ってもらっているので、家賃がいくらだろうと関係はない。  マグカップに注いだ牛乳にインスタントコーヒーを溶かしこみながら、俺は立川のことばの裏を読んだ。  さっきみたいに勢いよく丸めこもうとしてくるときは、たいてい、俺に不利な条件なのだ。立川の話をよくよく聞かないで了承すると、痛い目を見ることは学習済みだった。 「……で? あんた、何を隠したいんですか」 「いやだなあ、レンジくんったら、疑り深いんだからぁ。なーんにも隠してることなんて」 「あるでしょ、どうせ。何ですか、家賃を払えとか、そういうヤツ?」  電話のむこうが一瞬沈黙した。図星らしい。 「月いくらですか?」 「住宅手当ぬきで四万円。レンジくんの負担は、ね。ホントは全額ウチで負担したかったんだけど、ちょーっと予算が厳しくってさ」  住宅手当の上限額は三万円。立川が負担するぶんがいくらかは不明だが、いまの月額六万円の部屋よりはランクの高い部屋らしい。どのあたりの物件なのだろう。あんまり職場から遠ざかると、緊急時に参集できないから業務に支障が出る。 「次は、どういう系ですか」  ざっくばらんに問いかけると、またもや、立川のことばは歯切れが悪くなった。口から生まれたみたいに調子のいいことばかり言うのが彼の性分なので、めずらしいことこの上ない。 「そう、だなあ。心霊系、……かな?」 「心霊系? そんなのいつもどおりじゃないですか。俺が聞いてるのは、そういうんじゃなくて、『出る』ようになった原因ですよ」  溶け残ったコーヒーの顆粒が舌のうえに苦みを生む。『心霊系』という単語にでも反応したか、濃密な気配がふっと背後に生じた。ざりざりと、耳障りな音がしはじめる。たぶん、風呂場のドアの磨りガラスを爪でひっかいている音だと推測してしまい、後悔する。 「まあ、まわりが噂するような殺人事件が起きた部屋なんかは滅多にないよね。いまレンジくんが住んでるところも自殺だしさ。ただ、なんていうか、次のは、そのぅ……ざっくり言うとね、ないんだよ、事故の記録が」 「──はあ?」  思わず声が裏返った。さすがに意味がわからない。事故物件専門をうたっている部署の立川が、どうしてそんな物件を俺にまわそうというのか。 「告知義務があるような事件事故は存在しない。周辺に嫌悪施設もない。隣近所にヤバめの住人もいない。でも、建物内であの部屋だけ、入れ替わりがとんでもなく早い。直前の入居者なんか、からだを置いたのは一か月だけなんだ。確実にね、何かあるんだよ。たまたまそういう物件を目にしたら、気になってしかたなくなっちゃってさあ。何が原因なのか調査して、レポートしてほしいんだよねえ」  っていうか、そんなふうに根拠があいまいな物件だから、予算が下りなかったのではなかろうか。  俺に、事故物件以外の『ふつうの物件』に割く時間はない。求める真実に辿りつくには、いくら時間があっても足りないのだ。 「入居可否の返事、明日でもいいですか。俺もネット浚ってみますから、物件の場所だけ教えてください」  返答が保留であることを念押しして通話を終える。メモの住所は、市内のものだ。さいきんのニュースや、これまで耳にしてきたうわさ話に、この住所が出てきた記憶はない。インターネット上に何か、情報が落ちていればいいのだが。
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