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「おい、遠野! 煮立ってる!」
突然腕を掴まれ、矢神の怒鳴り声が響いた。その瞬間、遠野は、はっと我に返る。
目の前には、素麺を茹でていた鍋がぐつぐつと煮立っていて、慌てて火を止めた。
「何、ぼーっとしてんだよ。危ないだろ」
「……すみません」
花火大会の計画が崩れてから、遠野は魂が抜けたようになっていた。それのせいで、学校でもミスばかりしている。
この時も、夕食の素麺が伸びて、ひどいものになってしまった。
「美味しくないですね……」
「大丈夫だよ。これ、いろいろ入れると美味いな」
素麺だけでは物足りないので、胡瓜を細く切ったものや錦糸玉子、ツナに梅干し、胡麻、擦った生姜などいろいろ具を混ぜられるように準備した。
そのおかげか、しばらく食欲がないと夕食を拒否していた矢神も、その伸びた素麺をたくさん食べてくれる。それだけで、遠野は救われた。
いつまでもくよくよしていても始まらない。矢神とどこかに行くのは、また違う機会が巡ってくるかもしれない。その日を楽しみに待っていよう。それに今は、傍にいられるだけで幸せなのだ。
そう自分に言い聞かせて、伸びた素麺をすすった。
しばらく二人とも、黙ったまま素麺を食べていて、リビングにすする音だけが響いていた。
そんな中、不意に矢神が話しかけてくる。
「あのさ」
「はい?」
「おまえ、花火大会、行きたいのか?」
矢神は気にしてくれていたのだろう。何日も前の話題を振ってくれる。そんな優しさに嬉しくなった。
「もう大丈夫です」
心配かけたくないから笑顔で答えれば、歯切れの悪い言葉が返ってくる。
「あ……そう、なんだ……」
「どうしたんですか?」
「三日目、見回り代わってもらったから……」
「え?」
「大丈夫ならいい、変なこと言って――」
「一緒に行けるんですか? 花火大会!」
思わず遠野は箸を持ったまま立ち上がり、矢神に近づくように身を乗り出した。
「……行けるけど、他の誰かと行く予定してたんじゃないのか?」
「してません!」
遠野ははっきりと答えた。矢神以外に行きたい人はいない。そういう意味を込めて。
「浴衣は持ってないから、着て行けないぞ」
「それは問題ないです。杏さんが貸してくれました」
「杏さん……?」
「楽しみですね」
複雑な表情をする矢神とは反対に、遠野は上機嫌だ。
一気に気分が浮上する。現金なものだ。
あの真面目な矢神が、誰かに見回りを変わってもらうなんて、普通ならありえない。
奇跡が起こったことに、遠野は幸せを噛み締めるのだった。
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