10人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
突然、場違いな気がして後ずさったが、後ろにはすでに何人か客が居て、押し戻されるように涼音は元の位置に立った。
しばらくして、客席の明かりが消えた。暗闇の中、ステージ上で準備をする何人かの姿が見えた。影はそれぞれに与えられた役割の楽器を手に持ち、思い思いに曲になる前の音を奏でた。
身内めいた歓声がそこかしこで上がり、複数の影はその声が止むのを待っていた。
音が止んでから数秒の間を置いて、息を吸う音だけがマイクを通して会場に漏れる。
【優しいあなただけを夢の中に閉じ込めていたいの。別に起きなくてもいいんでしょ】
静かでそれでいて熱を閉じ込めているような、優しい歌声はコンビニで聞く湊の声からは想像もできないほどに美しかった。
湊のワンフレーズが終わるとそれまで気配を絶っていた影達が一斉に弾けた。ソロからバンドになる瞬間。歌から音楽になる瞬間を涼音は確かに感じ取った。
それを合図に照明が影を実体化させ、まるで会場全体が一つになったように拍手と歓声が同時に鳴り響く。
熱が一気に会場を包み、音がそれを破裂させる。そんなイメージが涼音の中に流れ込んだ。ギターを弾きながら湊がマイクを掴む。
ともすれば消えてしまいそうな高い声がより一層、涼音の耳を捉えて離さない。鳥肌が身体全体を襲い、震えが止まらなかった。
先ほどまでの熱気を纏った人々が散り散りに会場を後にした。
蜂蜜テールの出番が終わり、違うバンドが出てきても、涼音は会場を出る事ができなかった。最後のバンドが終わり、人波に流されるままに会場を出るまで、涼音は湊の高く澄んだ声を頭の中で反芻させていた。
初めての体験で疲れが出たのか、人ごみに酔ったのか、とにかく涼音は休みたかった。
駅へと向かう途中、近くに小さな公園を見つけて入った。二人掛け程度のベンチがいくつかあるだけの遊具のない公園だったからか、涼音以外に人は誰も居ない。
なるべく外灯に近いベンチに腰掛けると、鞄の中で携帯電話が振動している事に気がついた。急いで取り出す。湊からの電話だった。
「湊くん?」
「涼音さんいまどこ? 帰っちゃった?」
電話越しに湊の慌てた様子が伺える。
「ううん。近くの公園で休んでるちょっと疲れちゃって」
「えっ、ごめん。つまんなかった?」
湊の声音が沈んだようにくぐもった。歌声はあんなに透き通った綺麗な声だったのに、まるで別人のように低く幼い。
「あっ違うの。初めてだったから。湊くんの歌すごく良かった。ほんとに。私、全然音楽の事とかわかんないけど、感動して鳥肌たったし。それで、なんていうかすごく……良かった」
伝え方がわからなくて、それでもどうにかこの気持ちを伝えたくて、思いつくままに拙い感想を告げた。
黙って聞いていた湊は、へへっと嬉しそうに笑うと、「今すぐ行くからそこで待ってて」と電話を切った。
数分後、息を切らしながら目の前に現れた湊は、コンビニで見る時とも、ステージ上で観た時とも違う空気を身に纏っていた。
「来てくれて本当にありがとう」
身体を折り曲げて礼を言う湊に恐縮して涼音はベンチから立ち上がり「すごくカッコよかったです」と何故か敬語で返していた。
そんな涼音の姿に湊は電話越しに聞かせた時と同じように、へへっ、と笑ってみせた。
「あの、涼音さん」
短い沈黙の後、唐突に名前を呼ばれた。かしこまった湊の表情に、涼音は答えるでもなく湊の目を真っ直ぐに見つめた。
湊が小さく息を吸う。吐き出した言葉は、涼音の想像のはるか外だった。
「今度、僕とデートしてくれませんか?」
急ぎ出した胸の鼓動が、夜風を弾くほどに上昇した体温が、自分の気持ちを表しているようで、たまらなく恥ずかしい。すぐに応えなければとわかっているのに、返す言葉が出てこない。
落ちた沈黙をかき消すように湊が再び口を開く。
「あっあのデートというか、その、遊びに……」
頭を掻きながら口ごもる湊が急に可愛らしく思えた。
言葉の隙間に飛び込むように、慌てて「行きます」とだけ返した。
一瞬の間を置いて、湊の表情が夜を照らすように明るく輝いた。
最初のコメントを投稿しよう!