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 ギターをかき鳴らしていた手を止めて、伊藤湊は玄関の方に耳を傾けた。鍵を乱暴に置く音とヒールを脱ぎ捨てる音。  見なくても音だけで彼女の行動がわかるのは、彼女の部屋に転がり込んでからもうすぐ一年が経つからだろう。  そっとギターを元の位置に戻してから部屋を出た。    アンプを繋いでいないギターは、カチャカチャと乾いた音を小さく出すだけだというのに、いつからか彼女はそれを嫌がるようになった。出会った頃は、毎回のようにライブにも来てくれていたし、家で弾き語りをすると涙を流して喜んでくれたこともあった。  季節と比例するように、夏から季節を過ぎるごとに段々と湊に対する気持ちが冷えていったのだろう。湊に、というよりも、バンドをやめない湊に。  二度目の夏が来ても、その熱が再び戻る事はないようだ。 「おかえり」  湊が言うと、彼女は、ただいまとは言わずに奥の部屋をちらりと見遣った。 「またギターの練習してたの?」  ギターの位置が少しずれていたのかもしれない、と湊は思った。 「いや、うん。してた」  彼女がわざとらしくため息を吐いて、鞄をローテーブルに置く。 「ギターの音うるさいって管理人から苦情来てるって言ったよね?」 「うん。あっでも、エレキだしアンプ繋げなかったら音はほとんど出ないから。さすがに外までは聞こえないと思う。……ちゃんと窓も閉めてたし」  以前、窓を開けたままギターを弾いていて、隣から注意を受けたことを思い出してあわてて付け加える。 「ライブ次いつなの?」  彼女は何かを諦めたように、長い髪を後ろで縛っていたゴムを外して頭を振った。自由になった髪はサラサラという音が聞こえてきそうなほど優麗になびいた。 「来週の金曜日」 「そう」 「新曲もできたんだ、今度のは自信作。女性目線の歌詞だから、観に来て感想聞かせてよ」 「仕事だよ。知ってるでしょ」 「そうだよね」  彼女が鞄を手探って、財布を取り出した。二枚の紙幣を取り出して、こちらに寄越してくる。 「これチケット代。行けなくてごめんね」 「いや、いいよ。来れないなら」 「いいから。ノルマ大変なの知ってるから」 「ごめん」  受け取る手が微妙に震えた。震えの理由がわからずに無理矢理に止める。 「ねえ、私、湊のこと応援してないわけじゃないの」  彼女がこちらを向き直りおもむろに口を開いた。 「でもね、私もいつまでも待ってるわけにはいかない。私はどんどん年老いて、湊はいつまでも夢を追いかけて、それでその先どうなるんだろうっていつも思うの」  何かを返そうとしたのに、何も出てこなかった。 「想像した先の未来がね、いつも怖いの。怖くて怖くてたまらなくなって、それでも目の前の湊はいつでも優しくて、それがどうしようもなく……辛い」  彼女の目から涙がこぼれた。その涙を湊は拭えなかった。拭う資格がないことが、やり場のない思いを増幅させた。 「別れよう。住むところが決まるまではここに居ていいから。なるべく早く。ごめん……」  無理矢理に作った笑顔をこちらに向けて、彼女が終わりの言葉を口にする。止められるはずもなかった。 「僕の方こそごめん。気付いてあげられなくて」 「ううん、湊は気付いてたよ、たぶん。でも優しいから気付かないふりをしてくれてただけ。それが湊だもん」  シャワー浴びてくるね、とだけ言い残し彼女は湊から離れていった。
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