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「あとフォルテ16」
一週間前の出来事がまるで昨日の事のように頭の中にこびりついて離れなかった。声しか聞いていないのに、彼女と男の行動が脳内で映像化されていて、何度も何度も湊の胸を襲った。
「おい聞いてるのか?」
現実に引き戻した目の前の客は、怒りを露わにしていた。薄くなった頭髪に反比例するように無精ヒゲを生やした四十代くらいの男だ。
「失礼しました。もう一度お願いいたします」
慌てて取り繕う。
「だからフォルテ16だって言ってんだろ」
レジ後ろにある煙草を注文しているらしいが、銘柄など全て覚えてはいない。
「申し訳ありませんが、番号でお願い致します」
舌打ちを挟んで客が答える。
「銘柄くらい覚えとけよ。お前店員だろ? 店の商品全部覚えてからレジやれよ。クソが」
「申し訳ありません。探します」
「もういいよ7番だよ早くしろよ。こっちはお前と違って忙しいんだよ」
「申し訳……ありません」
声が震えた。情けない。情けなくて仕方がない。酷い裏切りにあったというのに、こんな時に思い出すのは、それでも彼女の事だった。
「ありがとう、ございました」
男は最後にもう一度暴言を吐いて店を出ていったが、湊にその声は届かなかった。代わりに聞こえてきたのは、彼女の部屋に居た男の声だ。
ーーいつも俺の部屋とか、ホテルだったから……。
ーーいつも俺の部屋……。
ーーいつも……。
「さっき大丈夫だった?」
少ししてから休憩中の店長が慌てて顔を出した。柔和な顔立ちとそれに見合ったそのふくよかな身体を揺らしながら、心配そうにこちらを伺う。
「ごめんね。大きな声が聞こえたんだけど、ちょうどトイレに入ってて出てこられなかった」
店長はいつも間が悪い。制服のエプロンがズボンに入っていて間抜けな形になっている。そんな店長の姿に騒いでいた心が少しだけ落ち着いた。
「大丈夫です」
「もしかして、四十代くらいの薄ヒゲ?」薄は頭の事を指しているらしい。湊が頷く。
「またか、あいついつも難癖つけてくるんだよね。よし、今度なんか言ってきたら出禁にするよ」
「本当ですか?」
「うん。決めた。湊くんに辞められたら困るからね。あんな客一人より働いてくれてる湊くんの方が大事だからね」
店長も昔、バンドをやっていたらしく、湊のバンド活動を応援してくれていた。ライブを観に来てくれたり、シフトの融通を利かせてくれたり、本当に良くしてもらっていた。
もう少し休憩してくるね、と爽やかな笑顔を見せて店長は、バックヤードに戻っていった。店長のおかげでいくらか気持ちが軽くなった。
彼女とはもう終わったんだ。湊は気持ちを新たにするため意識的に彼女を切り離した。
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