涼音

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涼音

 まとわりついた夏を夜が洗い流してくれているみたいだ。  最寄りのコンビニへと向かう途中、苛立ちを纏った身体を吹き抜けた夜風に、滝川涼音はそんなことをふと思った。  ベッドに倒れこんでから、明日の朝必要な牛乳の残りがわずかになっている事に気がついた。  少しだけ贅沢をして買った高級マットレスは、涼音の起き上がる気力を吸収するように沈み込んでいる。うつ伏せの状態の身体がいつもより重く感じてしまうのはどうしてだろう。無理矢理に起き上がるよりも、横に転がりベッドから落ちてしまった方がいくらか楽なようにすら思える。それでもある程度の高さからの落下の痛みを想像して、結局のところ涼音は力一杯起き上がった。  どれだけ面倒でも、煩わしくても、コンビニへと足を運ぶのは、子供の頃からの習慣を変えられない性格のせいだ。  幼い頃から朝はコーヒーに牛乳と蜂蜜を入れて飲むのが決まりになっていて、朝ご飯を抜いた事はあっても朝のそれだけは一度も欠かした事はなかった。  さすがに歳を取るにつれて蜂蜜の量も減っていき、二十代後半に差し掛かった今ではコーヒーに牛乳だけという簡単なコーヒー牛乳に代わってはいる。  店内に入ると、夜風よりもさらに冷たい人工的な空気が一瞬にして身体を包み込んだ。包み込むというよりも、飛び込んできたという表現の方が近いだろうか。  涼音は身震いをした後、半袖からはみ出た両腕をさすりながら、肩をすくめるようにして目的の牛乳がある冷蔵コーナーに向かった。ここには何度も訪れていて、一通りの場所は頭の中に入っている。遅い時間だからか、涼音の他に客はいないようだった。  紙パック500mlの牛乳を掴む。せっかくだからと明日の朝食も買っていく事にした。何種類もあるパンの中から、ミルクパンを迷う事なく手に取る。  レジへと向かう途中、スイーツコーナーで足が止まった。ここへ来ると毎回のようにベイクドチーズケーキを買いたくなってしまう。袋に入った長細いタイプのそのまま食べられるケーキ。しかし、今はもうすぐ二十三時を過ぎようとしている。昔から食べても太らない体質の涼音ではあっても、夜中にケーキを食べてしまうのは逡巡してしまう。  やっぱり今日はやめよう、そう諦めてレジへ向き直ろうとした時、視界の端が、【新作】の文字を捉えた。ドゥーブルフロマージュ。  カップに入っているそのチーズケーキは、涼音の大好きな赤いベリーソースがかかっていて、気がつくと当たり前のように手を伸ばしていた。  手に取った三点を抱えてレジへ向かう。「お待たせしました」と商品を陳列していた店員が涼音の背後から小走りでレジの中へと吸い込まれていく。  男は二十代前半くらい、あるいは自分と同じくらいの年齢だろうか。いらっしゃいませ、と爽やかな笑顔を一度こちらに向けてから、商品をスキャンしていく。 「あれ?」レジ打ちを終えて、店員が小さくこぼした。 「どうかしましたか」涼音は不安に思い遠慮がちに尋ねる。 「あっすみません。今日はあれ買ってないんですね」  何のことかわからず涼音は、あれ、と小さく呟いて首を捻った。  店員が涼音の後ろを指差す。その先がベイクドチーズケーキに続いていてようやく合点がいった。 「ああ、今日はそれにしました」  少し照れながら、涼音はドゥーブルフロマージュを示した。何度も来ていて、いつも同じ物を買っているから覚えていたらしい。 「これ新作なんですけどすごく美味しいですよ」 「店員さんもお好きなんですか? チーズケーキ」  涼音がそう訊いてやると、店員は嬉しそうに答えた。 「僕、チーズケーキに目がないんです。新作とか出たらすぐ買っちゃって」 「そうなんですね。私も好きなんです。っていつも買ってるし、もう知ってますよね」  涼音が笑うと、店員も、知ってます、と言って笑った。  店を出てから、自分が化粧をしていなかった事に気がついた。というより、赤の他人にどう見られようと気にならなかった。  けれど、知り合いとなれば話は別だ。いましがた顔見知りになってしまい、お互いの名前も知ってしまった途端に恥ずかしくなった。  ただ、それ以上に正体のわからない高揚感が涼音の中から湧き出てくる。いつも買っているものを買わなかった、たったそれだけの些細な事に気がついてくれた。そんな事が涼音の胸を高鳴らせたのだ。  買い物袋を持つ指先を固く結んで、涼音は首を伸ばした。  昼間あれだけ体力を蝕んできた熱が、なかった事のように涼しげな表情を浮かべる黒い空を見て少しだけ顔がほころぶ。  あれほど面倒に感じていた道中を、帰る頃には心地良い散歩道へと変えてしまう魅力が夏の夜にはあった。  外灯越しに見る黒はどこか安心感を伴っていて、誰も居ないのに照らしてくれる明かりが、まるで自分だけを愛してくれているみたいで嬉しくなる。  足取りは軽く、油断していると気持ちもふわふわとどこかに飛んでいってしまいそうだった。  振り返ると遠くの方でいつまでも明るく照らすコンビニがぼんやりと見えた。
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