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「うああああ、お母さん、ごめんなさい、お母さん!!」  家に帰ってくるとすぐ、瑞樹の絶叫が聞こえた。その声は、今まで瑞穂が感じたことのない、尋常ではない緊急性を孕んでいた。  急いでランドセルを放り出し、お風呂場に向かう。電気がついて、ざあざあとものすごい音がしていた。シャワーを使った上で、湯舟から水を運んでは流しているらしい。  お風呂場の扉に手をかけた瞬間、堪えようのない恐怖に襲われた。底冷えするような感覚に、思わず手と足が止まる。  果たして、この扉を開けていいのだろうか。  この向こうで何が起こっているのか、なんとなくしかわからない。それでも確かなことはある。  瑞樹が、双子の姉が、傷ついている。  今この瞬間にも、彼女は死に近づいているのだ。  だけど、ここを開けて、そしてどうすればいいというのだろう。瑞穂は、ただの子供だ。父のように体が大きいわけでも、力があるわけでもない。無力で非力な子供だ。そんな瑞穂に、なにができるというのだろう。突っ込んでいっても、瑞樹を助けられない。そればかりか、自分までもが同じ目に合う。  その恐怖が頭をよぎる。だが、それはすぐに消えた。大丈夫、絶対大丈夫だ。瑞樹と一緒なら、何も怖くない。たとえ、頭から大量の冷水をかけられようとも。  そして、そうやって自分たちを傷つけるのが母親でも。  怖いことなんて何もないんだ。  迷いが消えて、瑞穂は扉を開ける。バン、と大きな音がした。  そう広くないお風呂場。その中央には、お気に入りの服を着た瑞樹が蹲っていた。体が震えているのが、入り口からでもわかる。そして彼女の後ろには、シャワーを持った母が立っていた。母はいつも通り、ワンピースにエプロンだ。普通に、どこにでもいそうな「お母さん」。けれど、その見た目とやっていることとが不釣り合いすぎて、ぞっと鳥肌が立つ。  湯船の水は使われていなかった。ただ、シャワーから、水がすごい勢いで流れ出している。それがすべて瑞樹に向けられているのかと思うと、瑞穂までも寒気がした。  扉が開く音を聞き、母親がこちらに首をひねる。その手に握られたシャワーから出る水は、相変わらず瑞樹を打ち続けている。  瑞樹は、無反応だった。こちらに背を向けたまま硬直している。  母が、シャワーを持ったまま、恐ろしい目でこちらをにらんだ。その目から悪意が漏れ出し、そのすべてが自分に注がれている。そう分かった途端に、恐怖がぶり返してきた。  冷や汗をかいているのを感じる。それでも、口は動いた。 「お母さん。なに、やってるの」  母はしばらく何も答えなかった。ただ、ものすごい目でこちらを凝視している。それでも瑞穂が逃げないのを見ると、瑞穂から視線を逸らさないまま言った。 「こらしめてるのよ」 「どうして」 「だって、瑞樹は悪いことをしたんだもの。当然の報いなのよ、これは」 「悪いことって、なにをしたの」 「あなたには関係ない」 「でも」 「瑞穂!」  凄まじい声が響く。母は、決して体格がいい方ではないのに、その体のどこから出てくるんだと疑問に思うような声だ。それに、瑞穂は身を震わせた。その震えは数秒では収まらず、ずっとずっと、瑞穂の体を蝕み続ける。瑞樹と同じように。  おそらくこの震えは、母が瑞穂から目を逸らすまで続くだろう。そう覚悟した。歯がかちかちと鳴っている。怖くて、怖くてたまらない。でも、言ってしまう。 「瑞樹は、なにを、したの」 「友達と遊んだのよ」  思いのほか早く、あっさりと返事が返ってきた。母が続ける。 「今日は勉強だって言ったのに、友達を何人も家に呼んだのよ。それで、みんなと遊ぼうとした。五時くらいまでずっと。勉強の約束を破るのはいけない。だから、こらしてめるのよ」 「……瑞樹だって……、友達と遊びたかったんだよ」  震えが声にまで伝染していた。 「今日はって、いっつも瑞樹は勉強じゃん。瑞樹、いつも学年で一番で、塾でもトップクラスにいるのに、なんでまだ勉強しなきゃなんないの? ずっと勉強するのは、瑞樹だって疲れるよ。  ねえ、お母さん、許してあげてよ。瑞樹、みんなと同じことをしたかっただけなのーーっつっ!」  すごい勢いで、母の張り手が瑞穂の頬を打った。目で追えなかった。わからなかった。自分に何が起こったのか。少しして、手を振り上げて二発目を打とうとする母を見て、やっと状況に気が付く。次は食らうまいと体をひねるも、今度はわき腹に当たって、さっき以上の激痛が走った。 「お母さん、やめて! 瑞樹は何も悪くないの! ねえ、お母さん、お母さん! 痛い、痛いよお、お母さん……」
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