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「しばらく来れないから」
悪びれる素振りもなく、帰り際になって海里がそう言った。
「そう……パパになると忙しいから?」
言い訳もしてくれない。
優しい嘘もついてくれない。
私の嫌味にも答えてくれない。
私が一番だと、最後まで言わない。
海里が背負うもの、私が背負うもの、どっちが重いのだろう。
私と海里の繋がりは、いいとこ取りの切り取られた時間だ。
恋愛の最深部だけを一緒に過ごす。
もしそれ以外の時間を一緒に過ごせるなら、痺れなどに捕らわれないのかもしれない。
「私、引越すかも」
「あぁ、また連絡する」
灯りを消した部屋で、膝を抱えて水槽を眺める。
カージナルテトラの青が、私の涙のように揺れていた。
「随分と急な引っ越しだな?……何かあったのか?」
「何も……気分転換よ、父さん」
父は安心したように飲みかけのビールを口にする。
「彼氏は?」
心配症の母が、遠慮がちに聞いてくる。
「まだ」
「……蘭さえ良かったら、お見合いしてみる?」
私は母から顔を背けたまま、何かを断ち切るように返事した。
「そうね、お願いしようかな」
父と母が息を飲んだのがわかる。
「心境の変化──いいえ、何でもいい。蘭の気が変わらないうちに!ね、お父さん!」
「そうだな……蘭、かまわないんだな?母さんは本気だぞ?」
ねぇ、海里。
逃げるのは、案外簡単なの。
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