シゲルの日

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 じっとりした汗をかきながら僕は目をさました。背中と尻にあったかいものがぺたっとくっついている。  ああ、暑い!  太腿にごりっと堅いものが当たった。ミチの膝だ。僕は思わず片足を蹴り出す。 「ミチ、どいて。あつい。重い」 「……うん?」  寝ぼけた声がきこえた。と思ったら、ミチの腕が僕の腰にまわり、腹のあたりをホールドする。 「ちがうって! あついの! 離れろってば」 「……うーん……」  だめだこりゃ。寝ぼけているんじゃなくてまだ寝てる。  気温が高くなってくると、僕とミチの睡眠時間帯はだんだんずれてくる。僕は寝起きがよくなる(というより、暑くて目が覚める)かわり夜は早く寝てしまう。でもミチは毎晩ひとりで夜更かしして、朝はいつまでもぐっすりだ。目覚ましが鳴る前に起きてしまう僕が、何度鳴っても目を覚まさないミチを叩き起こすのも毎日のこと。  僕はミチの腕をひっぺがそうとする。が、抱きついてきた野郎の腕は相撲のまわしのようにがっちり僕を固めている――相撲のまわしなんてつけたことはないけれど。それに(人のことはいえないが)しっかり朝勃ちしてるじゃないか。 「ミチ」 「……ん?」 「寝てるのか起きてるのかはっきりしろ」 「うん、うん?」  腕の力がゆるんだすきに布団の上で方向を変えると今度は背中をホールドされた。寝汗がひいたせいか、首のあたりがうすら寒くなって、こうなるとミチのあったかい腕も気持ちよく思えてくる。僕は顎をミチの首元におしつける。おたがいの髭がこすれてざらざらする。そうだ、今日はちゃんと剃らなきゃ。 「起きてる? 起きる?」  いちおうそう聞いてみるが、横向きで正面からくっついた股間はどっちももっこりしているから、あんま単純にはいかない。ミチの背中に手を回して腰をごそごそずらしていると――つまりイイ感じに当たる場所に――ミチの手が太腿をさすり、するっと下着の中に入ってくる。やっぱり起きてるじゃないかと思ったとたん、ずるっとパンツを下げられた。 「んぐっ、あっ」  ミチのといっしょにしごかれて変な声が出てしまう。ミチの指は長くて大きくて、これにかんしては僕よりうまいけど、最後まで持っていかれるのはなんか悔しい。両手でミチの肩を押さえると僕のやりたいことがわかったみたいに手が外れた。腰をくっつけあわせたまま僕はミチの上にのっかる。  足を曲げてパンツを引き抜いて、ミチのうえに寝そべって、顎と顎をくっつける。ミチの手が僕のお尻を揉んでいる。ごそごそしているあいだちょっとだけ落ちついた昂りが、こうやってぴたっとしたとたん、また盛り上がっていく感じが好きだ。イクとき僕はいつも目を閉じてしまうので、開けたとたんミチがじっとみているのにびっくりする。 「もう、みるなよ」  思わずそういったらミチは表情も変えずに「なんで」といった。 「悠の眉がくって動くのがいいんだ」 「だからみるなって」  ミチの上から下りようとすると、二人分の精液があいだをつたって零れる。 「やば、濡れちゃった」  僕は手をのばしてティッシュを掴む。丸めたティッシュをゴミ箱に投げたが、残念ながら狙いは外れた。ミチはスマホを弄っている 「今何時?」 「9時」 「え、もうそんな時間?」 「何時に出るんだっけ?」 「11時くらい?」 「ぜんぜん余裕あるじゃないか」 「まだ着替え詰めてないんだよ」  ベッドを下りてカーテンを開けると青空が目に痛いくらいだ。夏休み――といっても社会人の夏休みは一週間だけ、それももう三日目だ。シャワーを浴びて鏡の前で髭を剃っていると、入れ替わりにミチが入っていく。水音に負けないように僕は大声でいった。 「あのさ、ミチは帰省しないの?」 「なんで」 「正月も帰ってないだろ」 「母親には電話した」 「じゃなくて、お父さんの方だよ」 「知るか」  不愛想な声と共に浴室の戸が閉まる。聞かなきゃよかったという気もした。でもお盆に僕の実家へ行こうというのに自分の地元には戻らなくていいのか、と思ってしまったのだ。ミチと暮らして三年になるが、あいつは一度も九州の実家に帰ってないような気がする。そもそもミチは実家の話をするとすこし不機嫌になる。  でも、シャワーから出てきたミチは機嫌よく鼻歌を歌っていた。半袖シャツから日焼けした腕がにゅっと出ている。数年前は上腕に筋肉がしっかりついていたが、最近はけっこうたぷたぷしている。それでもやっぱり、この腕が好きなんだけど。  トーストと卵で遅い朝ごはんを食べていると突然ミチがいった。 「悠んとこは親がいいから」 「は? 何の話?」 「だから親がいいんだって。それで俺も行くんだし」 「あ、帰省の話」僕はトーストの残りを飲みこむ。 「だけど、パートナーのあれはお母さんに知らせたんだろ?」  ミチの目が吊ったみたいに少し細くなる。 「まあ……なんかあった時に驚くとまずいから」  一年前に僕とミチは今住んでいる自治体のパートナーシップ宣誓をした。僕が急に入院することになって、ミチが焦ったのがきっかけだ。結婚したわけじゃないけれど、ふたりで記念に指輪を買ったりして、それから僕らは単なる同棲から一歩進んだ関係になった。僕は自分の両親にテレビ通話で報告し、ミチを紹介したけれど、何の問題もなかった。  まあたしかに僕の親は「いい親」かもしれない。僕は十代の終わりに姉にゲイバレしたのがきっかけで母親にカミングアウトした。そのあとで父親に知られて、最初はかなり気まずかったし両親はいろいろ考えたっぽいんだけど、三つ年上の姉貴が全面的に味方してくれたせいか、いつのまにか気まずい期間は終わった。何年前だったか、友達以上彼氏未満の男を連れて夏に帰ったときなんか、意識されすぎて驚いたくらいだ。ちがうってのに――ちなみにそいつとは結局ちゃんとしたつきあいには至らなかった。  ついでにいうと十代後半から二十代前半の僕はライブハウス小僧だった。暗闇の中で音楽にまみれているあいだだけが生きてるって感じがするみたいな、三十近くなる今はちょっと恥ずかしいけれど、そういう年頃があったのだ。で、ミチは僕がおっかけていたバンドのメンバーで、キーボードを弾いていたのだった。  キーボードっていうのはふつうバンドでは目立たない。ギターやベースより奥に引っ込んでいるし、ドラムより動きもすくない。  でも、ギターの斜め後方でグラサンをかけてマフィアのボスか黒幕みたいに立っているミチはすごくかっこよかった。いろんな偶然とか、恥ずかしい誤解とか、あれこれあったあげく僕とミチはつきあうようになったけど、メジャーデビューするしないでもめて彼のバンドは結局解散し、今のミチは普通のサラリーマンだ。音楽仲間に声をかけられたときだけ、サポートでキーボードを弾いている。それでも僕にとって彼はあいかわらずバンドネームの「ミチ」のままだ。昔ほど痩せていないし、上腕もちょっとたぷたぷしているけど。  そんな僕らなのだが、お盆に一緒に帰れとせっつく両親のためにこれから約二時間半かけての帰省である。僕は二泊分の着替えをリュックに押しこむ。それとヘッドホンにタブレット、充電器、財布にカード――ゴムはいらないよな。旅行じゃない実家なんだから。あ、でも念のため持って行った方が――まあ必要なのはミチの方なんだけど―― 「悠、まだか?」 「待てって」  なんだか緊張してきたような気がする。テレビ通話で話したことがあるといっても、実際にミチを実家に連れて行くのはこれが初めてだ。 「ミチこそ忘れ物ないだろうな」 「大丈夫だって」 「鍵持って行けよ? おまえこの前また鍵忘れて、外で何時間もうろうろしてただろ? そのうち忘れ物地獄に落ちるぞ」 「なんだよそれ」ミチが吹き出した。 「悠、なんかイライラしてる?」 「いや?」 「してるよ」 「してないよ」  僕はリュックのファスナーを閉め、ちょっと考え直した。 「……イライラっっていうか、緊張してるかも」 「なんで」 「ミチを実家に連れていくからだろ?」 「なんで悠が緊張すんの? ふつうは俺の方だろ?」 「いいじゃん! 僕が緊張しても! ああもう、行くよ!」  そんなこんなで僕らは出発した。  特急に乗ればすこし早く到着したと思う。ところが乗り継ぎ駅で立ち食いそば屋に寄り、ついでにお土産で悩んでいる隙にめあての特急は行ってしまい、結局僕らは普通電車に揺られている。  畑と田んぼ、そのあいだにぽつぽつ立っている農家と、つぶした田んぼのあとにどかんと立つショッピングセンターの看板、その近くにずらっと並ぶ新しい家などなど、僕にとってはなじみ深くて退屈な風景をミチは珍しそうに見ていた。 「お、海だ、海」  電車の窓からちらっと海がみえるとミチはやけにうれしそうな声を出す。 「ミチは海が好きだなあ」と僕はいう。海をみて喜んでいるミチはいつもより子供っぽくて面白い。 「海なんてあちこちにあるのに。ミチの実家のまわりって海から遠い?」 「遠くはないけど……とりあえず今住んでるとこにはないだろ」 「僕んところも遠くはないけど、すぐそこってわけでもないな。車じゃないと行きにくい」  やっと最寄り駅に到着し、そこからは歩きだ。電話をすれば親が迎えに来てくれたかもしれないが、なんとなく頼みにくかった。僕は駅前のコンビニを睨んだ。 「ミチ、なんか買ってく? 飲み物とか」 「アイス食いたい」 「アイス? 家につく前に溶けるんじゃ」 「じゃ、食べながら歩こうぜ」  アイスの買い食いなんて学生みたいだと思ったが、もわもわした熱気に囲まれるとたちまち誘惑に負けた。僕はマンゴーアイスを買い、ミチはワッフルコーンのチョコアイスを買った。  太陽は飽きもせず照りつけ、雲はひとつもなく、セミがどこかでうるさく鳴いている。ミチがシャツのポケットからグラサンを出してかけた。半袖シャツにグラサンだとチンピラやくざみたいなのに、アイスを食べているから妙に可愛い。 「なんかすごく夏だな」アイスを食べながらミチがいった。「夏が全部そろってる感じがする」 「全部って?」と僕は聞き返す。 「晴れてて、アイス食ってて、セミが鳴いてるから」 「ええ、夏はこれで全部じゃないよ」  いいかえしたのはいいが、暑さのせいか言葉がすぐに出てこない。 「スイカがないと。そうめんとか。冷やし中華も」 「食いものばっかりだ。大丈夫か?」ミチが笑った。「アイス、とけてきてるよ」  僕はぽたりと垂れかけたアイスの雫をどうにか口で受けとめる。アイスを食べ終わっても道のりはまだ続き、セミはいよいようるさく鳴いている。  やっとたどりついた家の門には横に立つ木からオレンジ色の花が垂れさがっていた。「小川」とかかれた表札の隣、インターホンのボタンを押すと「はーい」と声がしてドアがひらく。エアコンの涼しい風が向かってきて、僕はほっと息をついた。 「久しぶり、母さん」 「どうも――」  ミチがちょっと頭をかがめて玄関に入り、グラサンを外した。 「こんにちは。古賀です」 「あら、実物は大きいのねえ。お父さん悠が来たわよー」  母親はくるっとふりむいて叫ぶと、また僕らに向きなおって片手を振る。 「ほらあがって。悠の部屋掃除しといたから」 「うん」  ひさしぶりの実家は懐かしいにおいがした。何のにおいなのかはよくわからない。古い木とか土とか、そんなものを連想させるにおいだ。 「二階はエアコンの効きがいまいちだから、暑かったら下で寝た方がいいかもしれないけど。ねえお父さん? お父さんどこ? 何してるの?」 「スイカだよスイカ」  キッチンから父親が顔を出す。片手に包丁を持っている。 「お、悠。元気か」 「うん」 「スイカは好き?」  これは僕ではなくミチに向けられた言葉だった。包丁を持ったままではあったけれど。 「あ、はい。好きです」  ミチは動じることなく答えた。父親は自分の手を見下ろし、へへへっと笑った。  父親の髪は前回会った時よりさらに後退した気がする。僕も未来はこうなるのだろうか。  二階に荷物を置いてリビングに入ると、何等分かにカットされたスイカが赤い顔を晒して待っていた。 「悠、夜はお寿司とるからね」と母親がいう。 「え、いいのに。ふつうのご飯で」 「でもせっかく古賀さんと一緒だし、お祝いよ」 「お祝い?」僕はきょとんとする。「なんで?」 「なんでって、あなたたち結婚できるようになったじゃない。私だってちゃんとニュースみてるのよ、ほら」  驚いている僕の前で母親はいそいそとタブレットを叩いた。 「同性婚合法化。これでパートナーシップ何とかじゃなくて、結婚できるわよ?」 「あっ……うん、まあ……」  思わず目を泳がせた僕の横で父親がいう。 「母さん、それはあとでいいだろ? まずスイカ喰え、悠。古賀君も。このスイカ美味いんだから」 「あ、はい。いただきます」 「最近のは種も少なくていいぞ」  たしかにスイカは美味しかった。冷たくて、爽やかなにおいがして、水分が体に染みわたる。横でミチも黙々とスイカを食べているが、僕の目は母親がテーブルに置いたタブレットの画面をちらちらみてしまう。同性でも婚姻できることになったのは本当についこの前のことで、ニュースがそれ一色になった時は僕もミチとすこしだけその話をした。したのだが……。 「あら、どうして? 結婚しないの?」  まだ考えてないよ、といった僕に母親は不思議でたまらない、という顔をする。 「でもパートナーの宣誓したときは、結婚できないからこうするんだって話してたでしょ」 「まあ、そうなんだけど」  実をいうと帰っていきなりこんな話が出るとは思っていなかった。だから僕は自分でもわかるくらい挙動不審になっている。 「僕は急がなくてもいいかなって思ってて。もう結婚してるみたいなものだし」  ところが、ここでミチが爆弾を落とした。 「俺は籍入れたいと思ってますけど」 「え!」  僕はまじまじとミチの顔をみる。 「そんなこといってた?」 「いったよ。同性婚オッケーになった日に、いいなって」 「それだけじゃわかんないだろ」 「いやわかるよ」  ぷっ。  父親がスイカの種を皿に吐いた。 「まあまあ、ふたりとも落ちついて」  それみたことか、という調子で母親がいう。 「悠、古賀さんもああいってるわよ」 「あ、お母さん」ミチがあわてたように首をふる。 「悠がいやなら俺はべつに……今のところパートナーシップ宣誓でとりあえず問題ないですし」  待て待て。そういうわけでもないんだ。だから僕は急いで口をはさむ。 「あの、僕もいやなわけじゃないよ。そりゃ……」 「じゃあ結婚しよう」  ミチの声が部屋に響き、一瞬あたりが静かになった。 「いいじゃないか」  何呼吸かおいて、事態を眺めていた父親がいう。 「式はするのか? それとも婚姻届だけ?」 「あ、ちょっとそこはわかんないですね」 「簡単でも結婚式みたいなことをするなら、お父さんの礼服ついでに新しくしましょうか?」  母親が顔をのりだした。 「ほらあなた、このまえのお葬式で困ったじゃない、ウエストも肩も」 「ちょっと待て、待って! 母さん!」僕はまた急いでいった。「勝手に話を進めないで!」 「勝手に進めてないわよお、悠。なあに?」 「あの、結婚するとなったらさ、ひとつ問題があるんだ」 「問題って?」  両親とミチ、三人が不思議そうに僕をみた。 「ほら、結婚したらどっちかの苗字に変えるだろう? 同性婚はできるようになったけど、夫婦別姓は認められてないから。だから古賀か小川、どっちか名前を選ばないといけないわけで……」 「ああ、その話か」 「そうか、名前ねえ」  またあたりがしーんとなりかけたとき、ミチがいった。 「俺は小川がいいです」  とたんに呪縛が解けた。 「あら、そうなの?」 「はい。悠さんの姓にしたいです」  実をいうと僕はその答えを予想していた。パートナーシップ宣誓のときに、もし結婚できるとしたらどっちの姓にするかという話をしたのだ。ミチはその時も同じことをいった。 「まあ。本当に?」  母親は意外そうに目を見開いたが、どこか嬉しそうだ。父はひとこと「そうか」といっただけだった。ミチが畳みかける。 「つまり悠さんと結婚したら俺が小川――」 「だからそこなんだよ!」僕は話に割り込み、ひと息でいった。 「ミチが小川姓になったら、父さんと同じ名前になるの!」  ミチの本名は古賀(しげる)だ。  そして僕の父親は小川(しげる)という。 「あらあらあら――」母親が口をぱくぱくさせていった。 「ほんとだ。しかも漢字も似てる。すごい偶然ねえ」 「小川シゲル」父親がいった。 「古賀君もシゲルなのか」 「はい。ええ、そちらもシゲルさんだったんですね」  ははははは。ふたりのシゲルは顔を見合わせて笑った。 「そうか。すごいなあ」 「すごい偶然ですね」 「悠、何がまずいんだ? 古賀君がおれと同じ名前になるのがよくないのか?」  よくない? 「よくないっていうか……」僕はスイカの緑の皮を見下ろした。 「なんかその……」  ああもう、何が嫌だときかれてもすごく答えにくい。でもミチとつきあいはじめて本名がシゲルだと知った時、なぜか僕は恥ずかしかったのだ。僕がミチと呼ぶのはシゲルと呼びたくないせいかもしれない。しかも苗字まで同じになると……。 「ま、漢字はちがうんだし、いいじゃないか」のんきな声で父親がいった。 「偏をとったら同じですけどね。ほんとすごい偶然ですよ」とミチが答える。 「偶然というか、運命的だ。シゲル君」  父親はニコニコとミチに手を差し出した。僕はため息をついた。いや僕だって、パートナーシップ宣誓なんて中途半端なことするなら結婚できた方がいいと思っていたし、名前なんてたいしたことじゃないとも思う。だいたい結婚で苗字が変わる方が手続きが大変なんだから、ミチがそれを買って出てくれるのはありがたいくらいなのだ。 「握手しよう。同じ名前の息子が増えるんだな」 「じゃあほんとにお祝いができるじゃないの」  母親がいそいそと立ち上がり、出前寿司のチラシを取りに行った。 「ほんとに名前が原因なのか?」  布団に寝転がった姿勢でミチがたずねた。 「何が?」僕は隣に敷いた布団で両腕をのばす。 「結婚の話」 「ああ、うん、まあ、まあ、そうね。そう」 「俺がお父さんと同じ名前になるのが?」 「そうなんだけど、もういいよ。なんか僕が馬鹿みたいだし、結婚するのもぜんぜんかまわないっていうか、したいと思ってたし、だからいい」  部屋は僕が家を出るまで使っていた六畳間だ。今は当時の家具も片づけられて広くなっていた。足元で扇風機が回り、効きのいまいちなエアコンを補っていた。  ふたつ並べて敷いた布団の上でミチと並んでごろごろしていると、よく知っている空間にいるにもかかわらず、遠くへ来たような気分になる。 「悠の親って、やっぱりいい人たちだ」ミチがぼそっといった。 「いいっていうか……ちゃんとするのが好きなんだよ」僕もぼそぼそと答えた。 「ちゃんと?」ミチは不思議そうに聞き返す。 「僕が誰が好きでも、適当じゃなくて、なんかこう……形式を守るところがあればいいっていうか……そういう考え方なんだ。だから正式に結婚できるようになって嬉しかったんだと思う。ミチが籍を入れたいってはっきりいったときの母さんの顔がさ……」 「それなのに名前?」 「いや、なんかさ……」  僕はさらにぼそぼそといいわけのようにいった。 「好きになった人が父親と同じ名前ってさ……たまたまなんだけど、恥ずかしいっていうか……」 「だから俺のことずっとミチって呼んでんの? バンドやめてんのに?」 「そうだよ。悪いかよ」  ふてくされたような声が出た。横から手がぬっと伸びて、僕の髪をかき回す。 「いいや。悪くない」  ミチの手はそのまま僕の髪を撫でている。あたりに響くのは扇風機の唸りだけだ。二枚の布団の境目でぼくらはそっとおたがいに腕を回す。扇風機の風にあたったミチの体はひんやりして、なぜかスイカのようなにおいがした。
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