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喧嘩【lizard】
「ベルさん、ちょっとここに座ってください」
出勤前の稚依子がダイニングテーブルを指差す。いつもなら、この服は合わないだのアレを忘れただのバタバタと支度をして台風のように家を出ていくのに、今日は珍しい。また意味のない話だろうと思いつつ、仕方なく指定された席に着いた。
「なんだ?」
「お願いがあります」
稚依子は真剣な目で何やらガサガサと袋を取り出し、俺の前に置いた。
「お風呂あがりにこれを着てください」
中を覗くと人間界の服が入っていた。上は黒の半袖で、下はグレーの長いパンツだ。どちらも俺の体に合わせたサイズのようだ。おまけに男性用の下着も複数枚入っている。
一通り手に取って観察した後、丁寧に袋に戻し押し返す。
「嫌だ」
「なんでですか!?」
「人間の真似事はしない」
「誰も見てないですよ!?」
「俺のプライドの問題だ」
人間界から出られなくなっているこの状況でさえ耐えきれないのに、さらに人間の格好をしろだなんて信じられない屈辱だ。断固拒否する俺の態度にもめげずに稚依子は続けた。
「だって、そのスーツ、もうずっと着ているじゃないですか!」
「ちゃんと定期的に洗濯してる」
「それがまた問題なんですよ!洗って乾かしてる間、ベルさん、は、裸じゃないですか!」
「ちゃんと姿を消しているだろう」
稚依子に裸体を見せているわけではない。何が問題なのかさっぱりわからず、眉間に皺を寄せた彼女を呆れながら眺めた。
「姿を消しているからいいってわけではありません!どこにいるかわからないし!急に声かけられてびっくりするし!この間なんて急に冷蔵庫の扉が開いて、幽霊かと思ったんですよ!?」
悪魔は良くて幽霊はダメなのか。全くわからん。
「そ、それに……裸の男性が家にいるのはやっぱりダメです。見えてなくても、こっちは気まずいです」
「見えていないのにか」
「そうです!」
「……それはつまり稚依子が想像してしまうからだろう。俺の裸を」
「なっ!?」
稚依子の頬が急速に赤くなる。図星なのか。
「なら稚依子が俺の身体を想像するのを止めれば良いじゃないか」
「ち、違っ!想像なんてしてないです!」
「じゃあ問題ないだろう」
「ありまくりです!もう!なんでわかってくれないんですか!」
「これ以上話しても無駄だ。俺は人間の服は着ない」
「べ、ベルさん……」
何も言わなくなった俺を見て、稚依子は唇を噛み締めた。やっと静かになったか。こういったやりとりの際、ほとんど俺は折れないし、結局稚依子は諦めることになる。そうわかっているのに何故懲りもせず変な提案をしてくるのか。全く人間という生き物は理解できない。
さて、面倒臭いやりとりも終わったしコーヒーでも淹れるか。そう思い立ちあがろうとすると、稚依子が先に勢いよく立ち上がった。驚いて彼女を見上げると、頭の周りにフワフワとしたオーラが見える。最初に会った時と同じ、藍色の感情だ。
「おい、稚依……」
「もういいです!ベルさんのハレンチトカゲ!」
捨て台詞を吐きながら鞄を乱暴に掴み、バタンと家を出て行ってしまった。
「……ハレンチトカゲ」
言われた意味が全くわからず、しばらくテーブルから動くことができなかった。
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