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「それで、帰れなくなったって言ってましたけど……」
食後に黒い飲み物を出しながら稚依子が尋ねる。……これは、今まで出された中で一番美味そうだ。香りも良い。
「そうだ。今朝出口に……美味いな」
「美味しいですか!?コーヒーって言うんですよ!」
「コーヒー……」
口の中に広がる苦味が最高だ。また人間界に来た時のために覚えておこう。……まぁ帰れなくて困っているんだが。今の悲惨な現状を思い出し、話を元に戻す。
「いつもならすんなり帰れる出口に、入ることができなかったんだ」
「何か、条件があるんですかね?漫画とかだと、『こっちの世界の物は持ち込めない』とかよくありますけど……」
「そういうのは聞いたことがないな。学生の時に学んだのは、人間と契約を結ぶと帰れなくなる……とかだが……」
そんなことする奴なんていないだろうと、あの頃は話半分に聞いていたが。もしかして。
「契約って……どうすると結ばれるんですか?」
「確か……ひとつは、名前を伝えること」
「……聞きましたね。ベル……なんとかさん」
「……伝えたな」
冷や汗が出てきた。必死にあと一つの条件を思い出す。
「もう一つは、血を飲むことだ」
「急に物騒!……でも血なんて飲んでもらってないですよね?私どこも怪我してないし、昨晩は泣いてただけですし……」
「ああ」
少し安堵する。いくらなんでも人間と契約だなんて。そんなことあってたまるか。
しかし、向かいに座った稚依子は険しい顔をして立ち上がり、小さな電子機器を持ってきて操作し始めた。その必死さに、嫌な予感がする。
「やっぱり……」
「なんだ」
「あの、大変申し上げにくいんですが、」
「だからなんだ。スッと言え」
手元の小さな画面を俺に向けながら、彼女は続けた。
「涙の成分、血液と同じみたいです」
「……つまり?」
「多分、昨日大泣きしたから、何かのはずみで私の涙が口に飛んでしまったのかと……」
昨晩の記憶を呼び起こす。違う。俺だ。俺があの時、舌で、涙を拭ったんだ。
力が抜けて、頭をテーブルに打ちつけた。ゴンっという鈍い音がして、おでこがジンジンと痛む。痛みなんて感じるのはいつぶりだろうか。そんな余計なことを考えて必死に現実逃避をする。
「す、すみません、トカゲさん!私のせいで」
お前のせいじゃないと伝えたかったが、そんな気力も残っていなかった。人間と契約……魔界でエリートの、この俺が……。
「トカゲさん?」
そっと肩に手を添えられて顔を上げると、稚依子が申し訳なさそうな顔で隣の席に移動していた。
「あの、私、トカゲさんが帰れる方法探し出します」
「……どうやって」
「わかりません。でも、こうして悪魔が人間界にしょっちゅう来ているのなら、契約を結んじゃう悪魔だっていると思うんです」
たしかに。教科書に載っているぐらいだ。こうした事故の他に、好き好んで契約を結んでいる悪魔もいるかもしれない。
「そうだな。調べてみる価値はありそうだ」
俺の前向きな言葉に、やっと安心したような顔をする。俺が帰れなかろうが関係ないくせに、なにをそんなに心配しているのか。よくわからない。
「じゃあ、帰る方法が見つかるまで、家にいてください」
「……いていいのか?」
「もちろんです!元はと言えば私のせいですし」
自分の棲家まで提供するとは……。本当に知れば知るほど意味がわからない生き物だ。でもまぁ、害はなさそうだし。しばらく世話になることにしよう。
「よろしく頼む」
そう言ってコーヒーを啜る。そんな俺の様子を稚依子はニコニコしながら眺めた。こうして、悪魔の俺と人間の稚依子の共同生活が始まったのだった。
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