病熱とタブララサ

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病熱とタブララサ

『病熱とタブララサ』 僕はねえ、幸せだったよ。 いんや、今だって幸せだよ。 いやいや、今こそ、今が一番、 人生で至上の幸せだ!  ミュンヒェンさんの右肩関節を外して僕は赤いガーベラを差し込んだ。その後は左肘関節を外して桔梗を。その後は、その後は、その後は。  いやあ、最近は本当に素敵な時代になったね。花屋で大体の花々は揃うんだから。恋人に贈りたいと思った花が春の花なのに今が真冬だとしたら硬い処女膜で包まれた蕾の枝を贈ることになるじゃあないか?  万歳ロストジェネレーション!君達あってのこの時代さ。恵まれている、恵まれている。僕は自由と愛と情熱の世代に生まれたのだ! 「時男さん、また空想に耽ってるの」  ああ、ごめんよミュンヒェンさん。美しい君を前にしているとついついね。 「あら怒ってなんていないわ。そんな所もあなたは素敵よ。ただちょっとお髭が生えてきてるみたい、恋人の前でもやっぱり何年も経ったらだらしなくなるのね男のひとって」  違う、違うよ。これは昨晩君に合うボルトをずっと探していて。シルバーかゴールドかで悩んでしまったんだ。結局柔らかな真鍮に落ち着いたけれどね。ああ、でも君を髭の言い訳にしようってんじゃあないよ、僕は、僕は…ああ、ああ、ごめんよ、ごめんよ、こんなにやっぱり冴えなくって。 「ふふ、良いのよ時男さん。今回ばかりは私が揶揄いすぎちゃった、謝るわ」  僕を許してくれると言うの!ああミュンヒェンさん、愛しのミュンヒェンさん!君はやっぱり僕の元に舞い降りた天使だ。死ぬ時は僕をどうか連れて行っておくれ。 彼女のブロンドの髪を耳にかけてそこに薄いリンドウを差し込んだ。それが酷く淫靡で僕は子供の頃に喪った自らの陰茎が疼くのを感じた。これこそが幻肢痛!どんなに自慰をしたくてもできっこないという心の痛み!これが本当のファントムペインなのだ。 「はぁあ、あなたって本当に面白いひと。ついつい揶揄いすぎちゃうの。だからあたし眠くなってきたわ」  眠ってしまうのミュンヒェンさん、ねえ僕の残して眠ってしまうのミュンヒェンさん。 「ええ眠るわ。それじゃあおやすみ、時男さん」  また明日。  彼女は目を見開いたまま眠る。目が乾かないのか心配になるから一度花瓶の水を差してあげようと思った。そうしたら手が滑ってしまって彼女の顔に百合の香りの移った水をかけてしまってそれはそれは手酷く叱られた。  お化粧が落ちたわ時男さん!付け睫毛が取れたわ時男さん!全部全部あなたが元に戻すのよ!  僕は急いで水彩絵の具を持ってきてミュンヒェンさんのお化粧を駆け足でし直した。そして鏡で念入りに睫毛のカールをチェックして、びくびく怯える僕を許してその豊満な胸に抱いて、彼女は一言「涙って身勝手に湧くものでしょう」。ミュンヒェンさんは素敵で優しくってたまに我儘で本当に理想の女の子!香水とスパイスと赤いガーベラでできてるの。  すぐに彼女の寝息が聞こえ始めて僕はひっそりこっそりやりたい放題のカーニバル、フェスティバル、言わば兎の大運動会。  引き出しに仕舞っていた避妊具を取り出して肺の空気を吹き込むだけで出来上がる色とりどりのバルーン、僕らの赤ん坊達。僕はそれをぽんぽんと弾ませてあやしてみせる。タイマー式カメラをいくつも用意して僕は服を脱ぎ捨てた。下着は右くるぶしに引っ掛けたまま、二人分のグラタンとサラダの乗ったテーブルに深い眠りについたミュンヒェンさんを横たえた。顔の左半分が冷めたホワイトソースに沈む。ミュンヒェンさんの青い右眼が僕を見ている。パシャリ、パシャリ、パシャリ、パシャリ、酢酸の香り、パシャリ、パシャリ、パシャリ、パシャリ、終わらないライト、反射、割れたグラス。 僕らだけをここにピン留め。 「ねえ時男さん」  なあにミュンヒェンさん。 「ねえ時男さん」  なあにミュンヒェンさん。 「ねえ時男さん、飽きちゃった」  あたし、あたし、飽きちゃった。  ミュンヒェンさんが言うようになったこの言葉。僕はこの言葉を聞くたびちょん切られた陰茎がぶるりと震える。自慰をすることもなかった、一度も使わなかった僕の可愛い皮被りちゃん。 「ねえ時男さん、飽きちゃった」 『ちょん切ってやる!ちょん切ってやる!』 「ねえ時男さん、飽きちゃった」 『お前みたいな悪い子は使い物にならなくしてやる!』  こちらへおいで。 『断ち切り鋏でちょん切ってやるから!』  僕は急いでテーブルの下へ隠れた。頭を抱えてブルブルと震えた。だめだ、だめだ、だめだ、今日はあの女の声が一段と増して酷い。ゆるさない?ゆるせない?ゆるしたくない、ゆるすよゆうが僕にはない。  酢酸の部屋からドロリとした気配が広がった。宵闇の怪物、口を開けて僕を狙っている。その口の中には錆びた鋏が何本も並んでいる、奥歯に着いた血液はいつかの僕のおちんちんで遠の昔に怪物の腹の中。次は何を狙っているのか、僕の腕や脚や首や声、そしてミュンヒェンさんとの愛しき日々。  僕はテーブルの下で思わず吐いた。胃酸と溶けかかったウツギ、菊の花びらが出てきた。今朝早くにミュンヒェンさんの内臓を飾り立ててその後で僕の朝食になったものだった。 「時男さん、出ておいでなさいよ」  嫌だよ、嫌だ。今日は怖いばあばが居るもの。 「大丈夫、そんな怖い化物どこにも居ないわよ。だから出ておいでなさいよ」  怖い、怖いよ。ばあばが居るんだ、すぐそこに。 「居ないわよ、居ない。この家には私と時男さん、ふたりしか居ないわ」  うそだ、うそだ、うそだ、うそだ、うそだ、 「嘘じゃないわ。だって、ねえ時男さん。 あなたのおばあさまはあなたが十二の頃に、」  僕は悲鳴をあげて床に座るミュンヒェンさんに食卓の椅子を投げつけた。カランカランとミュンヒェンさんのパーツが取れてしまって生けてあった花達が辺り一面に散らばった。バラバラになったミュンヒェンさん、僕をバラバラにしようと企むばあば。すると周り一帯から悪夢達の怒声、罵声。まただ。  うるさい!うるさい!  一体何時だと思ってるんだ!  いつもいつも一人で騒いで!  独り言も良い加減にしろ!  ガヤガヤ、ドンドン、嗚呼、ナイトメア。早く早く目覚めてほしい。こんな中でもミュンヒェンさんはどこ吹く風、僕ににこりと微笑んだまま。女神様だ、女神様。花と夜の女神様。僕は世界一幸せ者だ。一刻の早くミュンヒェンさんを組み立て直して生きた花を飾らなければ。そうしないと僕はもはや生きている心地さえしないのだ。 「ねえ時男さん」  ミュンヒェンさんが呼びかけてくる。 「ねえねえ、私の時男さん」  僕は芋虫のように散開したミュンヒェンさんに這い寄る。蜜に集まる虫ケラのように。 「この夢のような幸せを、ずっと現実のものにしたいって思う?」  私とあなたのこの時間を、ずっとずっと続くものにできたらってそう思う?  ミュンヒェンさんの質問に僕はすぐさま頷いた。勿論ですとも女神様、そんなことが叶うのですか。もしそうだとするならば僕はなんでも差し出しますとも。ああでももう陰茎は無いのです、差し出せるものはこの四肢かあるいはこの心臓か。ばあばに取られるくらいなら、いっそ。 「あなたは偉いわ時男さん、あなたはずっとひとりで戦ってきた。今、この時、救われるべきだと思わない?そう、思わない?」  思います、思いますとも。僕はずっと独りだった。親にも捨てられて、唯一の引き取り手だった祖母からは何度もぶたれた。真冬に裸でベルトで縛られ幾度となくベランダに出されて。助けてくれたおじさんはスープの代わりに何度も僕を使い回した。痛かった痛かった痛かった、爛れるまでお友達と僕をまわして。 「そうよ、辛かったわね、寒かったわね。それからっていうもの助けの声を上げられないよう、ガムテープで口まで塞がれて。あの女はいつだって用意周到だった、あなたのおちんちんを切り落とした時だって」  全裸に剥かれて縄で手足を縛られた。口も何重にもガムテープを巻かれて最後に鼻は洗濯バサミで塞がれた。瞳だけは開かれたままだった。切り落とす様をよく見られるようにとそうあの女が言ったのだ。 「あまりの恐ろしさにあなたはおしっこを引っ掛けちゃったのよね。ああ、もちろん責めてるわけじゃないわ。あなた、だってほんの子供だったんだもの、仕方ないじゃない。そしたらほら、あの女、しわくちゃの手であなたの頬を酷くはつって」 『汚いじゃないか、このゴミめ! お前なんかやっぱり棄てておくんだった』 ぢょきん。 『アッハッハ、嗚呼面白い。 もう見世物小屋にでも売っちまおうか!』 パシャリ、パシャリ、パシャリ、パシャリ、 『ほらこっちをお向きよ、せっかくかわいいおんなのこにしてやったんだ。記念撮影しなくちゃね』 パシャリ、パシャリ、パシャリ、パシャリ、 『…寒いからって死ぬんじゃないよ。あーあ笑った笑った、それじゃあお休み。あたしの可愛い子猫ちゃん』 「時男さん、時男さん」  僕は吐瀉物の中で目を開けた。酷くすえた匂いがした。それが酢酸の匂いなのか、はたまた僕の胃液なのかもう判別などつかなかった。 「だから時男さん、もうあなたは自分を責めないでいいの。思い出さなくていいの。あなたは然るべきことをした。あなたはあなたを誇っていいのよ」  本当?本当?本当なのミュンヒェンさん。 「本当よ。殺鼠剤に紫陽花、朝顔、彼岸花、よく擦り潰せていた。味の濃いパウンドケーキに混ぜてしまえば分からない」  そして今も、あなたはよく隠せているわ。 「写真たちの為の真っ暗な暗室、匂いの強い酢酸の香り、その奥にある冷凍庫。誰も、誰も気付きやしない。今も、そしてこれからも」  ねえ、そうでしょ?  そうだ、そうだ、ミュンヒェンさん、僕のせいなんかじゃない。仕方なかった、痛かった、苦しかった、だから仕方ないじゃないか。だって誰も助けてくれなかったんだから。  クラスメイトも先生も、本当は知ってた、気付いてた。  すれ違うマンションのおじさんも、近所の散歩してるおばさんも、みんな知ってた、気付いてた。  でも誰も助けてくれなかった。僕はあんなに苦しかったのに。息もできずにここに居たのに。 「助けてって全身で叫んでいたのに!」  救ってくれたのはミュンヒェンさんだけ。 「後にも先にも、僕にはもうミュンヒェンさんだけだ」  胃液だらけの僕はミュンヒェンさんに縋りついた。何も無い股間をミュンヒェンさんに擦り付けた。幻肢痛は起きなかった。幸せだった。心の底から。 「時男さん、この時を永遠のものにしましょう」  ミュンヒェンさんの転がる右手が僕にマッチを手渡した。 「大丈夫、あそこが一番燃えるようちゃんと細工をしてあるから。骨も苦悩も残らない。あるのはそう、」  遺るのはそう──  僕は笑顔でマッチを擦った。 「私たちふたりの情熱だけ」 轟々、炎炎。 サンバ?フラメンコ?なにもいらない! 今こそ、今こそ、今こそ全て! 燃える、爆ぜる、爆発音、 愛の熱と肉欲と愛撫! 嗚呼、僕たち阿鼻叫喚! 人生で至上の幸せを、謳歌!
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