5.timorosamente~不安げに~

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5.timorosamente~不安げに~

 札幌の冬は曇りが多い。土曜日になった今日もまた、昨日と同じく曇天だ。  休日ともあってオフィス街に人気は少ない。理乃(りの)の務める部署にもあまり人はおらず、静かだった。  昨夜、貞樹(さだき)に送られて帰った際、いつものようにチークキスをされた。思い出せばまた、頬からの熱で体中が火照る。いけない、と何度も頭を振り、柔らかな感触を頭の隅に追いやった。  家に戻った時には隆哉(たかや)はすでにいなかった。封筒に入った鍵だけが郵便受けに入れられていたのだ。  以前の理乃ならそれを寂しく、虚しく感じただろう。けれど昨日、そうされても胸にはなんの感情も込み上げてはこなかった。貞樹のことで頭が一杯だったから。  家に戻り、暖房をつけたあと、まず行ったのはアプリで隆哉へ連絡したことだ。  「もう上江(かみえ)さんの面倒は見られません。ごめんなさい」  そう、送った。文面で送ったのちにはブロックまでも。心臓が跳ね上がるほど緊張した。二年以上の付き合いがある、尊敬していた人を突き放した事実に胸は痛む。けれど、決めたのだ。未来に進むことを。過去から脱却することを。 (怖いけど……わたし、決めたから。後戻りはしないって)  決意すればするほど、仕事の手は速まる。単調だが得意な入力作業を終え、気付けば丁度、十二時くらいだ。少し小腹が空いた。あいにくと瑤子(ようこ)は本日、会社に来てはいない。  教室に行くのにもまだ少し早く、どこかで食事をしてからと思った直後だ。  スマートフォンのアプリが音を鳴らした。机に置いていたその画面を見る。貞樹からだった。  「お仕事お疲れ様です。仕事が片付いたら食事をご一緒しませんか?」  最後についている兎のスタンプが可愛らしくて、理乃は微かに笑う。仕事の片付けをしたのち、返信文を送った。  「お疲れ様です。わかりました。今から会社を出ます。待ち合わせはどこでしょう」  「西二十八丁目のバスターミナルで。お迎えに行きます」  「ありがとうございます。待ってますね」  猫のスタンプで返信し、既読がついたことを確認する。それから、は、と我に返った。  今日の服装は、枯茶(からちゃ)色のブラウスに亜麻色のスカート、そして琥珀色のボレロだ。色合いが地味だった。鮮やかなのはネイビーのコートだけ。 (……もう少しお洒落に気を遣おうかな)  こういう時は千歳(ちとせ)の出番だろう。スマートフォンをそのままに、彼女へ連絡を入れた。  「お疲れ様。あのね、明日空いてたらショッピングに付き合ってほしいんだけど」  休憩時間だったのかすぐに返答が来る。  「オッケー。札幌駅のモニュメント近くで待ち合わせしよ。十二時でよろしく」  「うん、ありがとう」  給料日は近い。少し散財しても大丈夫だと言い聞かせ、スマートフォンを片付ける。  そのまま上司へ仕事が終わった旨を告げ、コートと鞄、バイオリンケースを持った。青い鞄も大分使い古している。明日は千歳に、服や小物を見繕ってもらおうと再度決心した。  会社から出て駅へと向かう。いつものように地下鉄へ乗る足取りは、嘘のように軽かった。浮かれすぎていることに内心苦笑する。  車両内にはクリスマスの催事などに関する広告が飾られていた。理乃の誕生日は二十四日、クリスマスイブだ。そこまでにはまだ三週間ほどある。日時を自覚すれば、不意に姉の命日が頭をよぎった。  十二月十五日。莉茉(りま)が死んだ日。忘れもしない、忘れてはならない日だ。貞樹と出会えたことは嬉しいけれど、同日に姉を亡くした辛い事実は理乃を悩ませる。 (わたしはまだ、姉さんの影に怯えてるんだ)  貞樹の慈愛があるとはいえ、完全に吹っ切れたわけではない。脳に焼き付いた莉茉の姿、完璧なまでの演奏具合はありありと思い出せるほどだ。  いや、と手摺を握り考える。姉に追いつくためじゃなく、自分を表現すること。それが目下の課題だろう。まずはバイオリンと曲への思いを深めることからだ。 (間違えちゃだめ……わたしの音色で勝負すること)  周囲にわからない程度に頷き、地下鉄から降りる。階段を上がっている時にアプリ音が鳴り、多分貞樹からだろうと推測した。バスターミナル内でスマートフォンを確認すると、やはりそうだ。もう到着しているようで、理乃は早速外に出た。  出てすぐ側の路上に貞樹の車があって、駆け寄る。 「こんにちは、理乃。どうぞ乗って下さい」 「お疲れ様です。隣、失礼しますね」  微笑んだ貞樹と挨拶を交わし、助手席に乗り込んだ。車は走り出す。 「イタリアンとスペイン料理、和食、どれがいいですか」 「悩んじゃいますね……その、貞樹さんおすすめのお店に行きたい気がします」 「それでは円山公園近くにある和食店へ行きましょう。ランチもやっていますので」 「はい、楽しみです」  土曜日で車の通行量が多く、目的地まで若干時間がかかる。その間にも車中で仕事などの話をしたり、天候のことも含めてたわいのない会話を楽しむ。  到着した店は地下にある和モダンな内装で、橙色の明かりがお洒落だった。料理は炊き合わせや野菜寿司などを基本とした弁当だ。玉手箱なような見た目にも目を奪われたが、その味に舌鼓を打つ。  甘味も含めて全てを平らげ、支払いも貞樹がしてくれた。流れがスマートすぎて小銭程度しか出せないくらいだ。 「あの、ごちそうさまでした。凄く美味しかった……」 「それは何よりです。さて、そろそろ教室に行きましょうか」 「わかりました。お稽古、頑張ります」  そうして理乃が助手席に乗ると、貞樹は何やら後部座席から小さな袋を手にして運転席に戻ってくる。 「理乃、これを」 「わたしに……ですか?」 「ええ。気に入って下さるかわかりませんが、いつも頑張っているあなたに贈り物です」 「贈り物……」  貞樹から袋を受け取った理乃は、目をまたたかせながら包みを取り出した。包装紙を丁寧に剥がすと、現れたのは香水の箱だ。 「香水、ですか?」 「正確にはオードトワレです。四時間ほど香りが持続するものでして。あなたのイメージにぴったりでしたのでこれをと」 「ありがとうございます……とても嬉しいです。中、開けてみてもいいですか?」 「どうぞ。嫌な香りでないならいいのですが」  自分のためにと選んでくれたことに胸が弾む。宝箱を開けるように大切に、箱から小瓶を取り出した。透明なボトルに白いラベル。どんな香りがするのかとときめく。  服に拭きかけようとした時、貞樹が理乃の手を止めた。 「理乃、手を貸して下さい。こういうのは脈に近いところへ吹き付けた方がいい」 「あ、そうなんですね……」 「香水をつけたあとは、脈を合わせるようにして擦って下さい」  貞樹にそのまま手をとられ、そっと瓶も渡す。手首の内側へ貞樹が香水をつけてくれた。爽やかで透明感のある匂いが車内に広がる。言われたとおり手首を擦り合わせた。花の香りもするが、甘すぎない部分が気に入った。自然と顔が緩む。 「凄くいい香りです。ありがとうございます、大切に使いますね」 「気に入って下さって何よりです。私もお揃いの香りをハンカチにつけているんですよ」  薄く笑む貞樹に、理乃は少し照れてしまう。お揃いのものなんて、昔の彼氏とも隆哉とも共有したことがなかったから。  微笑みながら箱へ大事にボトルを片付け、袋と共に鞄に入れた。シートベルトを締める。 「あなたの誕生日にはまた別のものを用意しますので」 「え、え? いえ、そんな、悪いです」 「私のわがままに付き合って下さい」 「……貞樹さんの誕生日はいつですか? わたしもお返し、ちゃんとしたいです」 「それは嬉しいですね。四月二十二日で来年ですが、楽しみにしていますよ」  車を発進させる貞樹に、理乃は頷く。かといって男性に何を贈ればいいのか見当もつかなかった。瑤子たちに聞いてみようと思う。  車でいつものように教室に行き、少し早めに手解きを受けた。二人きりの教室で、厳しく指導をしてもらう。  今日の課題曲はマスネ作曲の『タイスの瞑想曲』だった。大分指が昔の感覚を取り戻している。宗教的な意図を伴った曲は弾きやすい。最後の部分は多少情熱的に、と注意されたが、以前よりかは甘やかなメロディに身を委ねることもできた。 「少しずつ感覚を取り戻しているようですね、瀬良(せら)さん」 「はい、先生のおかげです」 「その言葉は講師冥利に尽きますね。これならもう少し、高いレベルの課題曲を出しても問題ないでしょう」  ケースにバイオリンを入れつつ、理乃は微笑む。素直に嬉しかった。段々、バイオリンを弾けることが純粋に楽しくなってきている。 「瀬良さん、まだ私とクロイツェルを弾く気にはなれませんか?」 「……今のわたしじゃ、まだ先生の足を引っ張ってしまうと思います」  貞樹の問いに、理乃はケースを持ちながら立ち上がった。 「でも……練習して弾いてみたい、気もします」  偽らざる本心を呟けば、(いわお)のような(おもて)をしていた貞樹が優しげに目を細める。 「それでは次からクロイツェルを練習していきましょう。少しずつ音を合わせて」 「はい。頑張ります」  理乃も笑む。自主公演まであと五ヶ月だ。どの程度までできるかわからないが、最善を尽くしたいと心の底から思う。 「明日は暇ですか?」 「あ、明日は友達とショッピングに行くんです。お稽古は……夜ならなんとか」 「そうですか。一つお伺いしますが、ご友人は男ですか?」 「いえ、女の人ですけど……前に言ったアパレル関係の」 「安心しました。ぜひ、差しあげたオードトワレをつけて楽しんできて下さい。レッスンは来週から土日にしましょう」 「あの、十五日の日曜だけは空けさせて下さい。姉の命日なんです」 「そうでしたか……ご実家に?」 「いえ、一人でお墓参りに。両親とはあまり、顔を合わせたくなくて」  理乃が苦笑すれば、貞樹がふむ、と何かを考えるような所作を作った。 「失礼ですが霊園の場所は?」 「真駒内(まこまない)です。いつもバスで行ってるんです」 「……私もご挨拶に行ってもよろしいでしょうか」 「え……」  突然の申し出に理乃はまごつく。確か、貞樹と莉茉はミュンヘンで顔を合わせていたはずだ。大した知人でなくても、同じ演奏家として手を合わせたい気持ちがあるのかもしれない。そう考えて首肯した。 「わかりました。きっと、姉も喜ぶと思います」 「では車でその日、お迎えしますよ。バスより行きやすいでしょう」 「ありがとうございます、お言葉に甘えますね」  会話しながら二人で防音室を出る。ふと、隆哉のことが頭に浮かんだ。彼も毎月欠かさず十五日に霊園へ行っている。鉢合わせしたくなくて、朝早くに行くことを決めた。  隆哉との歪な関係は、まだ貞樹に話していない。怖かった。貞樹に失望されるのではないかと心配で。勇気の出せない自分がまだいる。  連絡を絶ったところで、過去は精算しきれないのだから。
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