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第一幕 歪な旋律 1.perdendosi~消え入るように~
理乃はあまり料理が得意ではなく、自炊と言ってもごく簡単なものしか作れない。電車で数駅ほどの勤め先近辺には、安くランチを提供する店がいくつもあって重宝している。市内中央部にも近いオフィス街の立地条件はかなりいい。
今は金曜日の昼間近。昨日とは違い、雲一つない秋晴れの空だ。
いつものように会社に出勤し、朝から議事録や見積書などを入力するためパソコンと向き合い続けていた。部署内は静かだが、時折キーボードを叩く音が耳に心地いい。
昔から記憶力だけは人並み外れている自分を、会社は高く評価してくれていた。勤続二年目でもそれなりのボーナスは出る。おかげで一等地とも呼べる場所に自宅を借りられているのがありがたい。
入社初めは実家から通うことにしていたのだが、姉の莉茉が病で死んだときくらいに家を飛び出した。隆哉と顔を合わせないようにするため、という理由もあったが、結局未練が先に出て彼のマンションの近くに住むようになったのだ。
両親は未だ何も言わない。多分呆れているのだろうとも思うが、もしかしたら自分に関心がない可能性の方が高かった。天才の姉が急逝し、残ったのは秀才程度の妹だけ。病室で泣き崩れた父と母の顔は、今でも鮮明に思い出せる。
脳裏に浮かんだ泣き声や顔を追い出して、データを隅々まで確認していく。不備はない。そうしている間に十二時を過ぎた。同僚たちは早速昼食をとるため、退席し始めている。
「あ、いたいた。お疲れ様、瀬良ちゃん」
「瑤子? お疲れ様」
名字を呼ばれ、手を止め振り返る。そこには正規ライター社員である、友人の滝霜瑤子がいた。瑤子はコンタクトが乾いているのか、目を瞬かせながら理乃の方に向かって歩いてくる。彼女はブラウスと緑のロングスカートに薄いコートという姿だ。
「ランチ行こうよ。あー、肩凝った」
「うん。わたしもそろそろ休もうと思ってたの」
「今日は中華でどう? いつもの中華屋さん」
「そこで大丈夫。定食が美味しいし、安いから助かるかな」
「お、何、貯金でも始めるの? 給料出たばっかよー」
「そういうわけじゃないけど……後で話すから。ここじゃ、ちょっと」
微苦笑を浮かべ、理乃はパソコンをスリープモードにする。愛用の鞄を持ち、椅子にかけてあった厚めのカーディガンを羽織った。
瑤子と二人で会社を出て、ビルが建ち並ぶ街路を歩く。昼時ともあってかサラリーマンたちの姿が多い。広葉樹と亜麻色のフレアスカートを揺らす秋風は冷たかったが、狙いの中華屋はすぐそこだ。
幸いにして店には並ぶことなく、すぐ入ることができた。店員へ理乃は青椒肉絲定食、瑤子は唐揚げ定食を頼み、水を飲んで一息つく。席は丁度よく満席となり、話し声があちこちから聞こえてきた。
「で? なんでいきなりお金のこと気にし始めたの?」
「その……実は、バイオリンをまた習い始めようかなって思って……」
「おー、いいじゃないの。ずっと弾いてなかったんだもんね」
「うん。だから月謝が必要になるの……個人教室だしいくらかはまだわからないんだけど」
理乃の言葉に、そっか、と頷いて瑤子は満面の笑みを浮かべる。
彼女にはあらかたの境遇を話していた。姉の葬儀にも来てくれたくらいには仲がいい。音色を聞かせたことはないが、理乃が音楽大学出身だということも、バイオリンを趣味にしていたことも瑤子は知っている。隆哉との関係までは話していないけれど。
「でも、唐突ねー。教室の先生とはもう話したの?」
「昨日の帰りに、家の近くに教室を見つけて……ええと、宇甘さんだったかな……立ち話程度、少し話したんだけど」
「けど?」
「どこかで会ったことがあるような気がして……でも、思い出せないの」
「えっ、瀬良ちゃんが思い出せないって珍しくない? めちゃくちゃ記憶力いいのに」
「うん……名前も聞いたことはあるんだけど、どうしても」
「じゃ、調べてみよーよ。もしかしたら有名人なのかもしれないよ」
「あ……そう、ね。そこまで頭回らなかった……」
間抜けさを嘆く自分と正反対に、瑤子はどこか楽しげにスマートフォンを取り出す。手慣れた様子で検索していく瑤子を見ながら、理乃もまた自分のスマートフォンを手にした。
『宇甘貞樹 バイオリン』で検索をかけてみる。すると一番上に教室のwebサイトと、それに続いて音楽関連の記事が出てくる。とりあえず音楽記事を見てみた。
「……ミュンヘン国際音楽コンクール……バイオリン部門優勝」
「うわ、めっちゃ有名人だった。へー、ピアノもやってるんだね、この宇甘さんって人」
「うん……凄い人」
ミュンヘン国際音楽コンクールとは、一九五二年に第一回が開催された世界的な国際コンクールだ。歴史と伝統を重んじた難関なコンクールの一つ。バイオリン部門などで日本人が受賞することもあり、著名人が名を連ねている。
受賞者年代のところをよく見てみると、丁度姉の莉茉と隆哉がそれぞれバイオリン部門とピアノ部門で二位を取った年だ。そのときは家族で応援をしに、理乃もミュンヘンへ行ったことがある。そこで出会ったのか、とも思ったが、彼との記憶は全くない。
「CDとか音楽は出してないんだねぇ。演奏家を辞めちゃったのかな」
「どうだろうね……でもこんな有名な人なら、月謝が高くなっちゃうかも……ピンからキリまでだから、バイオリンの月謝って」
「でもでも、家の近くなら会社帰りからも行けるよ? 話だけ聞いてみてもいいかもしれないよ」
「うん。今日の帰り行ってみるつもりなの。厳しいようなら……」
話の途中で、それぞれ頼んだ定食が運ばれてくる。二人で「いただきます」を言いつつ、スマートフォンを片付けた。
牛肉とピーマンを食べながら、理乃はなぜあんな有名人を忘れていたのか疑問に思う。顔を合わせて名刺ももらった。普通なら、顔を一度見たら思い出すことは容易い。なのに忘却の彼方だ。
ミュンヘンのコンクールでは、姉と隆哉のことしか頭になかったからかもしれない。それにしたって、優勝者を忘失しているというのも妙だった。
(変よね……どうして忘れてるんだろう)
靄がかる思考を振り払い、ともかく食べることに専念する。月謝などの心配もあるが、それは直接聞いてみればいい。
だが奇妙な偶然もあるものだ。市内に二人も、ミュンヘンで受賞した人間がいるなんて。隆哉はともかく、貞樹。そして死んだ姉を含めると三人にもなる。東京や大阪ならわかるが、ここは札幌。全国的に有名なコンサートホールだって数える程度しかない。
札幌にはクラシックに関するホールは少なく、交響楽団もただ一つしかないのだ。プロを目指すならばやはり本州の方が制度は整っている。理乃と姉は北海道最初の音楽系大学を出てはいるが、専攻は音楽総合コースしかなかった。
(……考えても仕方ないかな)
こっそり溜息をつき、おかずを載せた白飯を口に運んだ。千円でこの味は非常にありがたい。見れば瑤子も、心から美味しそうに唐揚げを頬張っている。
ともかく、午後の業務を終えて定時に上がり、教室で月謝のことなどを聞いてみよう。理乃はそう決めて食事を終えた。
食べ終えたのち支払いの時、瑤子が自分の分も支払ってくれたので驚く。
「よ、瑤子? 自分で払うわ……」
「いいっていいってー。少しでも月謝の方に回しなよ。まあ、毎回は無理だけどね」
「じゃあ……今回は甘えるね。ありがとう、ごちそうさま」
瑤子の笑顔が、理乃の胸を痛ませる。しかしそれを表に出さず、微笑んでごまかした。
隆哉の――姉の恋人のためにバイオリンを再び手に取る、という不純な動機。それを知っても瑤子は手放しで喜んでくれるだろうか。いや、本当に謝罪しなければならない相手は莉茉だ。もう、この世のどこにもいない姉に対して罪悪感がある。
一夜の過ちを犯しただけでなく、未だ思慕にも似た憧れを隆哉に抱いていると言ったら、いくら優しかった姉でもあの世で嘆くはずだ。爛れた関係だと誰もが怒るだろう。だから言えない。口にしてはならないのだ、隆哉への思いも、悲しい夜のことも。
落ち込んだ気分のまま、瑤子と二人で店を出る。外は秋だが、自分の周囲では永遠に冬の季節が続いているような気がして、理乃は大きく嘆息した。
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