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2.attacca~休みなく先へ~
藍色と黄昏の空は美しい。ナナカマドや銀杏の葉が道路に乱雑に落ちている。理乃は低いパンプスを鳴らし、帰りの会社員でごった返す地下鉄に乗った。途中、スマートフォンを見て連絡アプリを確認したが、隆哉からの連絡はない。
少し安堵しながら普段使う駅で降り、階段を使って外に出る。時刻は六時半頃。急いで教室へと向かった。
優しい橙の明かりが教室には点いていて、胸を撫で下ろす。緊張しながら自動ドアの向こうに入ると、心を和ませるピアノの曲が耳に入ってきた。
「いらっしゃいませ。……おや」
受付にいた昨夜の男、貞樹が何かの作業をやめ、理乃を見てくる。昨日と同じく厳しい顔つきのままで。
「こ、こんばんは……」
「こんばんは。もしかして、レッスンをご希望でしょうか」
理乃が頷けば、貞樹は受付隅にある椅子を勧めてきた。コートを脱いでそこに腰かける。机を挟み、スーツ姿の貞樹も座った。
貞樹が差し出してくれた紙コップのお茶にも手をつけず、理乃は早速話を切り出す。
「あの、まだ生徒さんは募集してますか……? コースはバイオリンを希望しているんですけど……」
「つい先程、定員に達したところです。ピアノなら平日の昼間に空きはありますが」
「そ、そうなんですね……わかりました。それならいいです……」
「お待ち下さい。私の勘違いでしたら申し訳ないのですが、あなたは瀬良さんでは?」
名を言い当てられて驚く。が、すぐに頭を振ってうつむいた。
「え、えっと。多分姉と間違えているかと……ミュンヘンのコンクールで二位を受賞したのは、わたしの双子の姉です」
「でしょうね。瀬良……莉茉さんでしたか。二位に入ったのは。少しお話をしたのでわかりますが、その方とあなたとでは声質も雰囲気も違いますので」
「はあ……」
ここでも姉と比べられているのか、と貞樹の言葉にますますうなだれる。そんな理乃を貞樹はじっと見つめ、唇をほんの少しだけほころばせた。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「……理乃、瀬良理乃です」
レッスンも受けないのに、名を告げる必要があるのだろうか。疑問に思いながらも理乃は顔を上げ、素直に名乗ってしまった。押しに弱い一面が恨めしい。
「わたしは、昨日名刺をお渡ししたのでおわかりでしょうが、宇甘です。宇甘貞樹と申します。教えられるのはバイオリンとピアノです」
「でも……定員に達したんです、よね?」
「はい。ですが、あなたが条件を飲んで下されば、個人レッスンをねじ込みましょう」
「条件ですか……?」
貞樹はどこか艶やかに微笑む。唐突な申し出と艶美な笑みに、理乃は気圧された。
「条件はただ一つ。あなたが私の恋人になってくれれば」
「……はい?」
「ああ、言い方が悪かったですね。恋人のふりをしていただきたいのです。女性除けに」
「え、えっ?」
言い直されても突然すぎる条件だ。混乱し、思わずぽかんと口を開けてしまった。戸惑いを隠しきれない自分に、しかし貞樹は紙コップの茶を飲んで平然と続ける。
「私はレッスンに私情を挟みたくはありません。ですが生徒の大半は女性でして。いらぬ思いをさせるよりかは、と。困ったことに、もう無駄に差し入れをしてくる生徒もいます」
眉を寄せる貞樹は、紙コップを置いて大きな溜息をついた。男の色気を漂わせる様子に、理乃の胸すら高鳴る。すぐに我に返ったが。
確かに貞樹は顔も良く、身長も高い。巌のような面と微笑んだときの顔、そのギャップにのぼせる女性は多いだろう。眼鏡やスーツも細身の姿に映えており、まさにできる男、という言葉がふさわしい。
しかし、外見の良さに絆されるほど理乃は甘くなかった。それに、恋人のふりなど地味な自分に務まるとも思えない。
「わたし……」
「もちろん、あなたに今現在恋人がいらっしゃるなら、この話はなかったということで。私が困っているのは確かですが」
断ろうとした理乃を遮り、貞樹は目を細めた。ずるい言い方、と理乃は唇を噛む。
隆哉の顔が脳裏に浮かんだ。女と酒に溺れている彼の姿が。彼のために、隆哉の更生を目的としてここに来た自分だって、十分不純だ。
でも、と思案に耽る。理乃は男慣れなどしていなかった。大学時代に一度、清い交際をした程度の恋愛経験しかない。しかも数ヶ月で破局した。隆哉との関係を疑われての失恋だ。無論その時、隆哉とは不道徳な関係性ではなかったけれど。
「あなたがこの条件を飲んで下さると言うのなら、月謝も少し安くしましょう。そうですね、個人レッスン一回につき、六十分で七千円程度はいかがですか。入会金は一万円」
貞樹が追い打ちをかけるように提案してくる。理乃はうつむいたまま、膝に置いていた両手を力強く握った。
国際音楽コンクールで優勝した人間に、一対一で教えてもらえる機会。しかも、安い。こんなチャンスはそうないだろう。二年間のブランクもすぐに取り戻せるかもしれない。
揺らぐ内心をそのままに、困った顔を上げて情けなく聞いてみる。
「恋人の……ふり、なんですよね? 具体的にわたしは何をすればいいのか……」
「教室が終わったらできる限り二人でいる、という風にして下されば結構です」
「教室はいつ開かれるんですか?」
「月・水・金ですね。個人レッスンはあなた以外に入れてありません。土曜日にあなたのレッスンを行いますので、それ以外の先程の日に教室に来てほしいのです。用事などがある場合は仕方ありませんが」
付け加えられた言葉に、ちょっとだけ安心した。これなら隆哉の呼び出しにも応じられるだろう。だが――
「わたしでいいんでしょうか。わたしたち、多分年も離れてると思うし、それに……」
「……覚えていませんか、私のことを」
「え? ミュンヘンのコンクールでお見かけしました……けど」
嘘をついた。貞樹は見定めるように、理乃を鋭い目付きで見つめたままだ。理乃は必死に頭を回転させるが、やはり他に貞樹との記憶はない。忘れているのか、それとも貞樹の勘違いとしか思えなかった。
貞樹が軽く頭を振る。後ろで縛られている焦げ茶の髪が少し、揺れた。
「まあ、それはいいでしょう。他に何も問題がなければお願いしたいのですが」
「わかりました。バイオリンを教えてもらえるなら……」
諦めたように理乃は受け入れる。正直、恋人のふりなんてどうすればいいのかわからなかったが、それより隆哉を蘇らせるためにバイオリンを習っておきたい気持ちが勝った。
「ではそのように。よろしくお願いします、瀬良さん。今、入会手続きのための書類を持ってきますので」
小さく頷くと、貞樹は立ち上がり受付の方へと歩いて行った。安堵し、理乃はそこでようやく冷めたお茶を口にする。流れているピアノの旋律が、ようやく耳に戻ってきた。
(大変なことになっちゃった……でも、こうなったらしっかり教えてもらわないと)
なぜ貞樹が自分を恋人役として選んだのか、それすら定かではない。記憶もほとんどない。大それた役目が務まるのかかなり不安だが、隆哉のためと言い聞かせた。
考えているうちに、貞樹がクリップボードを持って戻ってくる。
「こちらに記載をお願いします」
差し出された書類には名前や住所の他、経験者かどうか、などを記す箇所がある。理乃は受け取り、備え付けのペンで少しずつ項目を埋めていった。その他のところに二年楽器に触れていないか書くかで迷い、正直にそれも記載する。
書き終え、再び腰かけている貞樹にボードを渡した。書類に目を通す貞樹が顔を上げる。
「二年、バイオリンは弾いていなかったのですね。仕事で忙しかったからでしょうか」
「そ、そんなところです」
「なるほど。瀬良さん、明日の昼夜は開いていますか?」
「土日は休みなので……今のところ何も」
「では一日、私に付き合って下さい。お互いのことを良く知りたいと考えていますので」
「それって……あの」
「昼にランチをご一緒しましょう。夕方からレッスンを始めます。連絡先を交換しても?」
「は、はい」
スマートフォンを取り出した貞樹にうながされるように、理乃も似た形のそれを鞄から出す。互いに操作すれば、理乃の連絡アプリに『宇甘貞樹』という名前が追加された。
「明日の十一時、地下街の入口にあるモニター前で待ち合わせしましょう。場所はわかりますか?」
「大通駅のですよね。大丈夫です……あの、バイオリンを持っていってもいいですか」
「ご自分のものなら手に馴染みやすい。結構ですよ。それでは明日、楽しみにしています。入会金と月謝の一部は明日、いただくということで」
薄く笑む貞樹へ、理乃はうつむき加減に頷く。
「夜も遅くなってきました。気をつけて帰って下さい。なんなら送りますが」
「い、いえ、大丈夫です。わたし、これで失礼します」
立ち上がりコートと鞄を持つ。頭を下げて、そそくさと逃げるように教室を後にする。カーディガンとスカートの格好に秋の風は冷たすぎた。でも思考は明日のことで一杯だ。
(……少し、宇甘さんのこと調べておこうかな)
外の角でコートを羽織り、教室の方を見る。貞樹の姿はここから見えなかった。
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