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第六幕 思いの旋律 1.Torz~醜いもの~
二十三日。貞樹は今日、北区にある北海道大学病院にいた。住んでいる地区からは多少遠いが、もっと大きい総合病院に通院するのがいい、と医者に勧められたのだ。
貞樹の健忘症は、長期記憶障害とエピソード記憶の障害が複合したものだった。障害によって多少苛つくことが多くなったものの、薬でどうにかなっている。それ以外の高次脳機能障害はなく、体に変調も来してはいない。珍しいパターンだ。
医者やソーシャルワーカーは言う。「失った記憶はゆっくり取り戻しましょう」と。だが自分にとってなくした記憶が本当に必要なのか、わからない。社会的、日常的にもなんら問題がないのだから。
俊が言う音楽仲間たちにも、昨日の夕方に連絡はしている。労いや励ましの言葉がどこかむず痒かった。両親からも心配するような電話は来ていたが、葉留がいるからと彼らの帰国は断った。
一階に雑多する人々。貞樹は人混みを避け、待合室の椅子に座りながら自販機で購入したペットボトルの茶を飲む。
四年の間、ある一定の名声は得ただろう。それによって今の自分がいるのだと理解はできる。だがそれだけだ。空白の期間で覚えた曲はあるかもしれない。技術も。それでも焦りはなかった。
(またやり直すだけのことだ。繰り返すことは苦痛ではない)
昔から反復する作業には慣れている。今は葉留も、そして何より理乃がいた。妹はともかく理乃への思いは募るばかりで、考えるつど心臓が優しく脈打つ。
昨日、見舞いに行ったときも自分を怖れず、彼女は微笑を浮かべて迎えてくれた。それが、嬉しい。
これは恋と呼ぶべきものなのだろう。不安に焦燥、愛おしさ。女性不信の自分がよくもここまで深い愛情を、と内心苦笑した。
夕方には音楽教室で復帰祝いがあるらしい。生徒たちが自主的に考えてくれたようだ。中心となっているのは美智江だという。
受付の事務員に名を呼ばれ、諸々の手続きを済ませた。あとは薬局に行って処方箋を渡すだけ――と玄関に向かおうとした直後だ。
「げ、宇甘」
聞き覚えのある声音に視線をそちらへやれば、カーキ色のコートを着た隆哉がいた。とても不満げな面持ちで彼はこちらを見ている。溜息をつき、貞樹は頭を下げた。
「どうも、上江君。誰かのお見舞いですか」
「俺も通院してるんだよ。あんたこそ、ってリハビリか。一番でかい病院だもんな」
「通院……怪我でもなさったのですか?」
「そんなのはどうでもいい。これから帰りか」
「ええ。見たところあなたもお帰りのようですね」
赤毛を掻いて近付いてくる隆哉は、何かを考えているようだ。
「……送ってやる。一緒に来い」
「いえ、お気持ちだけいただきます」
「昨日はあんた、理乃の部屋に行ったんだろ。あいつの体調のこととか聞きたいんだよ」
理乃に拒絶されたことが辛かったのか、肩を落とす隆哉へ、優越感にも似た感情を覚える。それが貞樹を首肯させた。
「結構。ただし荒っぽい運転はやめて下さい」
「荒くねえっての。途中薬局寄って、それから家か?」
「教室までお願いします。薬局はあとから行くので」
頷く隆哉と共に病院の外に出る。駐車場に行っても互いに無言だった。牽制し合っているというわけではないが、緊張に近い空気が流れているのがわかる。
赤い車に乗るよううながされ、貞樹は助手席へと腰かけた。隆哉が運転席に乗って、シートベルトを確認したのち車を走らせる。別にそこまで荒々しい運転ではない。
「で? 理乃のやつ、平気なのか」
「大丈夫でしたよ。今日は出勤したと連絡がありましたから」
「疲れだけか。あいつ、我慢しすぎるところあるからな」
「会社の帰り、教室に来て下さるそうです。そこまで酷い熱でもありませんでした」
「ゼリー食べなかったろ」
「プリンにはつられないとも言っていましたが」
腹の探り合いが続く。隆哉が大きく息を吐き出した。
「部屋で、あいつに無理させたわけじゃないだろうな」
「……何もしていません」
「そりゃ紳士なことで。あいつは変なところで色っぽいから心配したぜ。昔からそうだ」
口の端をつりあげる隆哉を見て、焦燥めいた気持ちに駆られた。昔。自分の知らない理乃のことを彼は知っている。それはどこまでだろうか。少なくとも艶のある顔を見たことのあるような物言いだ。
「どこまで行ってんだよ、あんたら」
「それを聞いてどうするのですか」
「俺が安心する」
「それではご想像にお任せする、と言うことで」
「俺はあいつを抱いたことがあるけどな」
ブレーキと共に放たれた言葉。一瞬、貞樹は隆哉を睨み付けそうになった。眼鏡を押し上げることでごまかしたが。それでも不愉快極まりない。
「あなたと彼女は……理乃は、お付き合いしていたのですね」
「それも忘れたんだな。俺とあいつの関係も」
含みのある言い方に、押し黙る。もしかしたら聞いたことがあるのかもしれない。だが、その記憶は抜け落ちてしまっている。失われたものがほしい、と悔やんだがどうしようもなかった。
「あいつは、理乃は優しいんだよ。本当に。俺を許してくれた。馬鹿な俺を」
「……彼女に何をしたのですか」
「そいつは理乃から聞いてくれ。あんたのことを本当に信頼してるなら、全部話すだろうしな」
ハンドルを切りながら淡々と言葉を紡ぐ隆哉に、こっそり嘆息する。理乃と信頼関係をどこまで築いていたのかわからない。彼女が優しい、ということだけは承知の上だが。
「あなたは理乃を諦めないと言いましたね。ですが彼女はあなたに冷たいのでは?」
送迎も拒否し、部屋にも入れなかった事実を示唆すると、隆哉はそれでも笑った。
「マイナスから始まってるから仕方ないんだよ。あんたこそどうなんだ。記憶吹っ飛ばしてさ、理乃への気持ちもなくなっちまったんじゃないのか」
「そんなことはありませんよ。思いは、確かに残っていますから」
「へえ。いっそ別れてくれりゃよかったんだが……あ、まだお前とは付き合ってなかったんだっけ」
何を言われたのか、貞樹は理解できなかった。思わず隆哉の横顔を見る。飄々とした様子に、冷え冷えとした感覚が胸から全身へ伝わっていく。
(付き合って、いない? 理乃と私が?)
理乃は言った。自分から――貞樹から告白されて恋人になったのだと。葉留も互いに幸せだったと証言している。昨日も部屋にだって上がった。抱擁やキスまでも許された。それなのに、隆哉は何を言っているのだろう。
「あんた、その様子じゃそういうことも抜けてるって感じだな」
軽口めいた侮蔑に、顔を背けて軽く歯を噛む。
理乃が嘘をついているのだろうか。恋人というのは嘘なのか。葉留に聞いたこと、以前美智江に告白されたという事実。それを塗り潰すのに、理乃と葉留が口裏を合わせたのかもしれない。
だが、葉留はそんなあくどさを持っているタイプではない。むしろ毛嫌いする方だ。兄である自分が女性に対し、酷い不信感を持っていると知っているから。
だとすると、答えになるのは一つ。
(理乃はまだ……私に何かを隠している)
手を握り締める。怒りではなく、苛立ちで。確かに今の自分に記憶はない。体や頭のことを気遣って話さなかった、ということも考えられる。
だが、一週間という入院期間で二人きりになることもあった。その際に話してくれてもよかったのではないか――そこまで思案し、隆哉に悟られない角度で唇を歪めた。
(それこそ虫のいい話だ。私は彼女に冷たくしていたというのだから)
きっと理乃は傷付いただろう。投げ付けた冷徹な視線、それに怯える彼女の姿は記憶に新しい。だとしても愁いのある笑みを浮かべ、ほとんど毎日病室に来てくれていた。きっとその過労で熱を出すほどに。
だからこそ貞樹は理乃を疑うことを、やめた。
「……明日」
「ん?」
「明日、理乃から全てを聞きます。丁度デートの予定があるので」
「……そうか」
「止めないのですね、あなたは」
「あいつが悲しい顔をするのだけは、もう嫌だからな。それに俺はまだ、あいつの隣に立てるほどふさわしい男になっちゃいない」
殊勝な態度の隆哉に、思わず目を丸くする。驚いていることがわかったのだろう、隆哉は口角をつり上げ、不敵な笑みを作った。
「ま、あんたらが結ばれても俺は相変わらず諦めないと思うけどな」
「しつこい男は嫌われますよ」
「言ったろ、マイナスからだって。何も怖くないんだよ、今は」
清々しいまでの言葉には、強い意思があった。一方の貞樹は呆れてしまうばかりだ。
(どうしたら諦めるのでしょうかね、彼は)
内心、悩む。理乃と無事結ばれたとしても、横入りが入るのは嫌だと素直に思った。彼女の側に男性が、しかもいくばくか心を許しているだろう男がいるのは、率直に嫌だ。
とめどなく溢れる嫉妬を表に出さぬように努め、目を閉じる。思うのは理乃のことだ。彼女の柔らかな肢体、甘い香り、滑らかな肌――そして、少し悲しげな笑顔。全てがほしい。他の男にとられたりしたくない。
彼女を抱いた隆哉を殴りたいほどに、自分は理乃へ懸想している。醜いまでの執着心。それを明日、解き放とう。彼女は怯えるだろうか。それとも――
車は走る。嗜虐的な愛情を抱く貞樹を乗せて。
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