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2.Perche dolce, caro bene~優しい愛しい女よ~
貞樹は隆哉と別れ、薬局に寄ったのち教室へと赴いた。
美智江を中心とした生徒たちの快気祝いは少しかしましく、疲れる。それでも平静を装い、お開きとなるまで苛立ちを抑え込んだ。
今は理乃や葉留、俊だけが残っており、ゴミなどの後片付けをしていた。
理乃と俊は小声で何かを話している。楽しそうだ。友人と思い人の組み合わせ。知らない間柄ではないというのに、嫌な胸焼けがする。
(俊のことだ。理乃に手を出すはずはないと思うが……)
どのくらい彼が誠実かわからない。覚えていない。馬に蹴られたくはない、と笑っていたが、問題は理乃の方だ。彼女は顔を背けるように――まるで自分から逃げるように振る舞っていた。それが不安感を煽る。
「わたし、紙コップ捨ててきますね」
「ありがと、瀬良さん。神津さんは帰っていいんですよ?」
「その前に少し、ピアノを弾いても構わないか? 先程から気になっていてな」
俊がこちらを見て聞くものだから、貞樹は軽く首肯した。楽譜はベートーヴェンの『月光』に変えてあったはずだ。俊が早速椅子に腰かけ、鍵盤に手を置いた。
ピアノの柔らかく、どこか温かみのある旋律が流れる。その技術は巧みだ。葉留はすっかりピアノへ夢中になっているため、必然的に片付けは自分と理乃が担当することになる。
ゴミ袋に紙皿や紙コップ、包装紙などを入れた理乃が、給湯室へと向かった。貞樹は葉留と俊の様子を尻目に、理乃の後を追う。
彼女が部屋に入るのと同時に体を滑り込ませ、給湯室の扉を閉めた。理乃が肩を跳ね上げ顔を背けるのを見て、意地悪く笑う。
「なぜ私と顔を合わせないのですか」
「え、えっと……」
「そんなに私が怖いのでしょうか」
ちらりと理乃がこちらを向く。その面は、赤い。困惑と照れが交ざっている表情に、貞樹は笑みを深めて彼女の側へと近付いた。どうやら嫌われてはおらず、照れられているだけだとわかって。
給湯室は狭い。すぐに理乃との距離は縮まる。奥でうつむき、うろたえる彼女を逃がさない。壁へ背中をつけた理乃が、怖々と顔を上げてくる。目が、潤んでいた。
そのまま貞樹は、両手で彼女の頬を挟んだ。中腰になって顔を近付ける。理乃が目をつむったと同時にその唇を奪う。柔らかく、甘い。
『月光』が室外から流れてくる中、長いキスは続く。理乃は抵抗する素振りを見せない。そのことが嬉しかった。満たされていく。空っぽになった心が。
しばらくしてから唇を離すと、緩やかに理乃の瞳が開いた。潤んだ瞳に赤く染まった肌。それらがあいまって、とても色っぽかった。彼女を壁に押しやりつつ、貞樹は続ける。
「俊と何を話していたのですか」
「ク、クロイツェルの……弾き方を、少し……」
「だめですよ、私以外の男に教えてもらうなんて真似は。お仕置きが必要ですか?」
「お、お仕置き?」
「……それは明日に持ち越しですね。あなたはもっと、自分の魅力に気付いて下さい」
小首を傾げ、困ったように目をまたたかせる理乃が可愛らしくて堪らなかった。くぐもった笑いを零し、もう一度、今度は額にキスをする。
「ここ、教室です……」
「構いません。ずっとあなたとこうしていたい」
うう、と呟く理乃からは、相変わらず甘い香りが立ち上っていた。
(フェロモンのようなものなのか。この匂いが私を壊す)
紺色のストールをずらし、彼女の首筋を見る。強く吸い付く。
「さ、貞樹、さん……」
甘く喘ぐ理乃の吐息が、心地いい。声も、息も、匂いも全て、自分のものだ。隆哉のものでも他の男のものでもない。何度か啄むキスをしたのち、ようやく体を離す。
「明日のデートが楽しみですね」
「は、はい……」
理乃が照れくさそうにはにかむ。今、自分はどんな笑顔を浮かべているのだろう。きっと野兎を追い詰める、狼のような笑みをしているに違いない。
明日、二十四日。理乃と一線を越えるだろうことを、貞樹は確信していた。
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