5.Pour que la nuit soit propice~夜が幸いであるために~

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5.Pour que la nuit soit propice~夜が幸いであるために~

 年末最後の通院も終え、貞樹(さだき)葉留(はる)、そして(しゅん)と共に教室の片付けをしていた。二十八日の午後。今日は天候もよく、雪は降っていない。 「バイオリンは全部ケースに入れたよ、さだ。手入れもばっちり」 「ありがとうございます。俊、あなたも忙しいのに申し訳ないですね」 「大したことはしていない。ピアノは来年、調律するのか?」 「ええ。今年中とも考えましたが、もしかすれば理乃(りの)とは休みの日に練習するかもしれませんから」  貞樹たちへ水を配っていた葉留が、からかうように笑う。 「年末とかは瀬良(せら)さんと一緒に過ごすの?」 「そうですね。三日までは理乃を家に招いています。年末年始は彼女と一緒ですよ」 「五日から教室を開くんだったな。記憶の方は、どうだ?」  俊の問いに、紙コップを握ったまま貞樹は頭を振った。記憶は全く戻っていない。札幌のことも理乃に多少案内してもらったが、不透明なままだ。それでも不安はなかった。 「記憶はいずれ戻ればいい、程度に考えています。あなたたちもいますし、これから先のことが重要ですので」 「あらら、随分変わっちゃって。それも瀬良さんのおかげかな」 「そうですが?」  不敵に口角をつり上げる。ごちそうさまです、と葉留は言い、俊が笑った。 「宇甘(うかい)女神(ミューズ)は凄いものだな。ここまで君を変えることができるとは。さて、それじゃあオレはそろそろ失礼する。いい年を」 「ありがとうございました、俊。コンサートでお目にかかるかもしれませんが」  俊は頷き、颯爽と教室を出て行った。後ろ姿を見送って、貞樹は葉留に向き直る。 「私たちも帰りましょうか。私はこれから、理乃の職場へ彼女を迎えに行きます」 「西十一丁目近くなんだっけ? 送ろうか?」  葉留の申し出に少し悩んだ、その直後だった。 「こんにちはっ。宇甘先生、池井戸(いけいど)先生」 「あ、永納(ながの)さん」  長い茶髪をなびかせて、美智江(みちえ)が教室に入ってくる。我が物顔、といった様子で遠慮もない。屈託のない笑顔を向けられ、しかし貞樹は無表情を貫いた。 「年末のご挨拶にと思っちゃって。教室、まだ閉まってなくてよかった」 「これから閉めるところだったのよ。ね」 「ええ。私も葉留も用事がありますので。葉留、先に駐車場へ行っていて下さい」 「……わかった」  何かを悟ったのか、葉留は軽い挨拶を美智江と交わし、外に出ていく。残された貞樹はごみ箱に紙コップを捨て、どこか落ち着かない姿の美智江を見た。 「あ、あのっ、宇甘先生……」 「なんでしょう」 「やっぱり……うち、先生のことが好きです。瀬良さんがいても、諦めきれません」 「諦めて下さい。私は理乃以外、興味がありません」  息を詰まらせて悲しみの表情を作る美智江に、剃刀のような言葉を続けて投げる。 「正直、迷惑しています。生徒であるあなたにこのような言い方もするのも失礼ですが」 「けど前、気持ちと勇気は受け取ってくれるって言いましたっ」 「ああ……なるほど」  泣き出しそうな美智江の(おもて)を見ても、何も感じなかった。それより昔の自分に腹が立つ。思わせぶりな態度をとったであろう、過去の自分に。  ここらが潮時だろう。甘さを与えるのは恋人に対してだけでいい。言葉を剣に変え、鋭く彼女を切り裂くことに決める。 「私は猫を被っていたようですね。プライベートであなたとお付き合いする気はありません。気持ちも勇気もお返しします。どうぞ他の方と幸せになって下さい」 「……先生、なんか別人みたいで怖いですよ。どうしちゃったんですか」 「これが本当の私です。怖いと感じたなら、あなたは私の本質を見極めていなかったことになる。それでいて好意を寄せる、とはどしがたい」  わざと笑ってみせた。歪みきった意地の悪い笑みを浮かべる。  思いを抱かれることが苦痛だった。理乃以外から向けられる恋心が、こんなにも疎ましいとは思ってもいなかった。言い過ぎ、冷血、そう感じられても構わない。 「……瀬良さんは、そんな先生でも好きなんですか」 「ええ。彼女なら受け入れてくれるという自信があります」 「うちの出番は、ないってこと……ですね」 「はい。残念ですが。あなた以外の女性だとしても、出番はありません」  笑みを消して言い切る。過去の自分は理乃へ、優しさは毒になると言ったらしい。全くそのとおりだ。優柔不断でありたくはなかった。  美智江は何も言わない。うつむいて体を震わせている。泣いているのかもしれないが、貞樹の琴線に触れることはなかった。 「……すみませんでした。迷惑かけて」  今度は貞樹が黙る。慰めの一つもかけることをしてはならない。そう決めて。  うつむき加減のまま、美智江は勢いよく(きびす)を返すと、駆け足で外へと飛び出していった。入り込んだ冬の風が、一瞬貞樹の髪をさらう。 (これでいい。一縷(いちる)の望みすら持たせてはならないのだから)  溜息をついた。美智江はもしかしたら教室をやめるかもしれない。音楽に情熱があるなら続けるだろう。気まずさより腕を磨きたいのならば。  気を取り直し、黒いコートを羽織って教室を出る。鍵をかけ、シャッターを下ろし、五日までの休業と記した紙を貼った。すでに美智江の姿はどこにもない。  そのまま雪道を歩き、駐車場へと急ぐ。黄色い軽自動車の中には葉留がいた。どうやら送ってくれるようだ。助手席に遠慮なく乗った。 「待たせましたね、葉留」 「永納さん、泣いてた」 「冷たく言いましたからね。ですが、甘えさせてはならないのです。私には理乃がいる」 「まっ、これも一つの経験だよね。あたしだって旦那以外の好きはいらないし」  肩をすくめた葉留の手で、車は発進する。思った以上に車通りは多く、理乃の職場まで時間がかかった。見慣れないオフィス街近くは新鮮だ。そこら中に退社したサラリーマンたちがいる。  貞樹は一つのビル前に、葉留へ指示をして車を停めてもらった。 「このビルです。あとはもう大丈夫ですよ」 「はいはい。それじゃ瀬良さんによろしくね。いい年を」 「ええ、あなたも」  言って、車から降りる。葉留の車はすぐに他の車体に紛れて消えた。  見送ってからビル内に入ると、フロアに茶色のボストンバッグを持った理乃がいる。 「あっ、貞樹さん」 「お疲れ様です、理乃。迎えに来ました」 「ありがとうございます……あの」  理乃が首を傾げた。貞樹の方へ近付きつつ。 「大丈夫ですか? 何か、あったんですか?」 「……どうしてそのように思うのでしょう」 「えっ、と。少し疲れてる感じがしたから……」  遠慮がちな声に自然と微笑みが浮かんだ。彼女は内向的な分、人の心の機微に聡い。優しさと心配が込められた台詞は、心身を癒やしてくれる気がする。 「やはりあなたは私の特別ですね」 「え……えっ?」 「いいえ、こちらの話です。さて、荷物をお持ちしましょう」 「あ、でもこれ、少し重いから……」 「でしたら尚更ですよ。これから家まで歩くのですから、遠慮せず」  じゃあ、とおずおず差し出されたバッグを手にした。女性では重いだろうが、男の自分には大したこともない重量だ。  そっと理乃の横顔を見下ろす。落ち着きのあるメイクに長い睫。形のよい鼻梁(びりょう)。贔屓目に見ても彼女は可愛い。貞樹という彼氏がいると知っても、アプローチをしかけてくる男がいてもおかしくないだろう。 (そんな真似は私が許さないが)  理乃の手をとり、強く握る。彼女は嬉しそうに、照れくさそうに微笑みを浮かべた。  この休み――理乃が家に宿泊する間。一週間程度の時間で、彼女の体も心もがんじがらめにし、自分以外の誰もを見ないようにさせたい。思いは募り、欲が膨らむ。しかしとめどない独占欲をおくびにも出さず、ただ笑みを深めた。 「これから一週間、毎日楽しみですね、理乃」 「は、はい。楽しみ、です」  頬を染める理乃を見て、愛おしさがより一層込み上げてくる。  思いの丈はとどまりそうにない。
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