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第七幕 脱却のための旋律 7-1.Nobilissima visione~気高い幻想~
「理乃、あなた元気にしてるの? 二年……三年も顔、見せないで」
「うん……わたしは元気だよ、お母さん」
久しぶりに聞く母の声は、電話越しでも心配の方が大きいことに理乃は気付いた。きつい性格の母だが、やはり数年、自分が実家に帰っていないことを気にしているのだろう。
今は三が日も過ぎ、五日。仕事の昼休みだ。一日にアプリで正月の挨拶は来ていた。もちろん返事をしたのだが、今年も帰れない旨を付け足したことに不満を持っているのかもしれない。
「そうは言ってもねえ。正月にくらい挨拶には来なさい」
「忙しいの。仕事も。繁忙期だし」
「仕事に精を出すのはわかるけど、礼を欠いているわよ。お父さんも気にしてるんだから」
「ごめんなさい……」
「莉茉のお墓参りだってそうよ。上江君とは何度も会ってるけど、あなたは」
「お盆とか命日にはちゃんと行ってるから」
休憩室の中、小さく溜息をつく。隆哉の話題も、姉の話も聞きたくなかった。ただでさえ休み明けの出勤で疲労が溜まっているのだ。年末年始、貞樹と過ごした優しい時間を台無しにされたような気がして、スマートフォンを耳に天井を見上げる。
「……上江君から聞いたけど、あなた、バイオリンを習っているそうね」
ぎくりとし、思わずスマートフォンを落としそうになった。
「無理して弾かなくてもいいのよ……だってあなた」
「お母さん、ごめん。そろそろ昼食の時間だから切るね。また連絡するから」
どこか悲しげな声音に、慌てて通話を切る。離したスマートフォンの向こうで母が何かを呟いていた気がするが、構わずに。大きく嘆息し、暗くなった画面を見つめる。
母は、何を言おうとしていたのだろう。姉には及ばないのだから、弾くなと。それとも姉を彷彿とさせる趣味をやめさせようとでもしたのか。
「……疲れる」
独りごち、小さく頭を振って嫌な考えを追い出した。昼食は既に瑤子と済ませてある。会話を続けたくなくて、嘘をついた。多少胸は痛むが、疲労感の方が大きい。
白いスカートをなびかせ、自分の席に戻る。今日は金曜日だ。今年からレッスンを金曜日の夜にも入れることにした。教室が終わってからの個人レッスンを貞樹が提案してくれたのだ。五月に向けての自主公演に間に合うか、未だに不安がある。
貞樹と弾くのは楽しい。大切な恋人と共に弾くからこそ、成功させたい気持ちがあった。
(……姉さんもクロイツェル弾いたことがあるよね、確か……)
その動画は隆哉に渡してしまっている。彼に頼んで、その一枚だけ貸してもらおうか。だが、隆哉へ何かを頼むというのも、体よく利用しているみたいで嫌だ。
パソコンに向かい仕事を始めながら、理乃は悩む。お手本にするなら莉茉の動画ではなく、別の人のものを参考にした方がいいだろう。精神的に負担がかからない。
まだ、姉の影が大きい。それは偽らざる事実だ。弾けば弾くほど自分の音色がわからなくなってきている。感情の乗せ方が上手くなってきた、と貞樹は言うが、それは所詮、莉茉の模造であるのではないか。そう感じてしまう。
(だめだめ。わたしなりのテンポで……貞樹さんの足を引っ張らないように)
暗い淵に落ちていく気持ちを持ち直し、仕事に集中する。残業するわけにはいかない。忙しい時期とはいえ、レッスン日に遅刻したくはなかった。
休みも時に入れ、今日の分の仕事が終わる。幸いにして残業分はない。バイオリンは会社にではなく、貞樹の厚意で教室に置かせてもらっていた。鞄だけを持ち、コートを着て定時に上がる。
今年は特に雪が多い年だ。狭くなった歩道を、通行人たちと譲り合いながら進む。地下鉄も相変わらず混み合っていた。
教室へと急ぐ。雪が降る中、周りの街灯などが眩しい。角を曲がり、教室の明かりが見えてきたところで、外に出てくる女性がいた。
美智江だ。レモンイエローのコートを羽織り、彼女はこちらへと歩いてくる。
顔を上げた美智江と視線が合った。目をすがめられ、不機嫌な表情を作られてしまう。
「こ、こんばんは……永納さん」
「……こんばんは、瀬良さん」
ここの歩道も狭くなっており、理乃はそっと道を譲るために横へとずれた。だが、美智江は立ち止まり、こちらを睨み付けてくる。
「どうしてあなたなんですかね」
「え?」
「うちの方がバイオリン上手いと思うんですけど。どうして宇甘先生、瀬良さんと演奏しようとしてるんですか」
「え……っと。それは……」
「恋人だから? いい役得ですね」
「永納さん……」
「うち、瀬良さんのことは認めてないんで」
言い返す暇もなく、それだけをささやいて美智江は駅の方へと向かっていってしまった。後ろ姿を見つめ、理乃は一人、うなだれる。
(役得……)
足取りが一気に重くなった。そう考える人間は多いかもしれない。恋人だから、特別だから。そんな理由で今の立場にあるのだと考えられて、貞樹の評判を落としたくはない。だが、周囲の目はどうなのだろう。
鞄を握り、うつむきながら教室へと進む。
姉なら、そう、姉ならそんなことを言わせないだろう。それだけの実力もあった。だが、今の理乃にそこまでの力と実績はない。
(貞樹さんの足、もう引っ張っちゃってる)
溜息をつき、教室に入る。暗い気持ちのままで。
「瀬良さん、お疲れ様ー」
内心をよそに、受付にいた葉留が明るく声をかけてくれる。
「池井戸先生……お疲れ様です。改めてあけましておめでとうございます」
「うん、おめでと。今年もよろしくね。あ、さだは今休憩中だから少し待ってて」
「はい」
コートを脱ぎ、椅子に腰かけた。少し頭が冷たい。ピアノの優しい音が流れる室内で、じっと握った手を見つめる。
「疲れてるの? なんか暗いね」
「そ、そう見えますか? 久しぶりに仕事したからだと思います」
お茶を持ってきた葉留から紙コップを受け取り、また嘘をつく。嘘をついてばかり、と内心自分に嫌気が差す。微笑んでごまかすも、上手くいったかわからない。
「疲れたの、休みの時、さだに無理させられちゃったからとか?」
「い、池井戸先生っ。変な言い方、やめて下さい」
「だってさだだよ、相手。ほとんど毎晩お楽しみでございましょ」
笑う葉留に、大きく頭を振る。顔が火照るのがわかった。確かに年末と年始、体を幾度となく重ねたが、それを指摘されても「はい」など言えるはずがない。
「あ、首にキスマーク」
「えっ、嘘、昨日はしてな……」
墓穴を掘った。けらけら笑う葉留に対し、理乃は真っ赤になって縮こまるだけだ。
「何をしているんですか、葉留。私の理乃をいじめるのはやめなさい」
体の熱さに一気にお茶を飲んだ時、給湯室から呆れた様子で貞樹が出てきた。
「私の理乃、だってー。熱いねー、雪が溶けるくらいよねー」
「こんばんは、理乃。お仕事お疲れ様でした」
受付に戻っていく葉留を無視して、貞樹はこちらに微笑んでくれる。その笑みは優しく、何度見ても胸がときめくくらいだ。
「さ、貞樹さんもお疲れ様です。今日もよろしくお願いします」
急いで立ち上がり、軽く頭を下げた。
「ええ。さて、レッスンを始めましょうか。バイオリンを持ってきて下さい。私は奥の部屋で待機していますので」
「わかりました」
貞樹の言葉に頷き、コートと鞄を葉留に預ける。一番奥の防音室に入る貞樹を見つめ、我に返ってバイオリンが置かれている部屋へと赴く。自分のものを持ち、奥の部屋へと急いだ。
貞樹はピアノの前に座っている。厳しい顔つきで。講師としての貞樹も、理乃は好きだ。
(頑張らないと)
先程の美智江の言葉を思い出し、小さく唇を噛んだ。
姿見に自分の姿が映っている。最近は忘れていたはずなのに、幻影が浮かぶ。莉茉の幻が。それを振り切るようにしてレッスンを開始した。
貞樹の技巧はまさに凄い、の一言だ。複雑な感情を内包させつつも、正確。一方の理乃はそれに追いつくのがやっとで、表現力が足りていない。
一時間のレッスンを終えたのち、充足感より疲労感で一杯だった。全然だめだ。指導を受けても上手く弾けない箇所がたくさんあり、まだまだだと嘆息せざるを得ない。
「今日はこのくらいにしておきましょう」
「はい……ありがとうございました」
「いいえ。お疲れ様でした」
「あの、さだ……いえ、先生さえよければ、明日は朝からお願いしたいんです」
「構いませんよ。それならまた、私の家に泊まりに来ますか?」
言われて、考える。教室に近いのは自分の家だ。宿泊させてもらった恩を返したいということもあるし、とバイオリンを片付け、照れながら口を開いた。
「……狭いですけど、わ、わたしの家にどうぞ。来客用の布団もありますから」
「それは嬉しい申し出ですね。ではお言葉に甘えて」
一転し、恋人としての笑顔を見せてくれる貞樹に、理乃は曖昧に微笑んだ。
もう一度、姿見を見る。莉茉の幻影が浮かんでいた。
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