3.Weichet nur, betrübte Schatten~しりぞけ、もの悲しき影~

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3.Weichet nur, betrübte Schatten~しりぞけ、もの悲しき影~

 理乃(りの)貞樹(さだき)と共に姉の墓参りを終え、二日間の稽古をした一ヶ月後――四月。  自主公演まであと少しだ。何度も貞樹と一緒にクロイツェルの練習をし、自分が納得できるところまで、また彼も満足いく音色が仕上がった。  今日は四月唯一の祝日。金曜日で、昼から瑤子(ようこ)たちとドレスショップを回っていた。  千歳(ちとせ)と共に選んだのはアメリカンスリーブのシフォンドレスだ。色は紫。花柄の刺繍レースがトップスにはあり、デコルテ部分だけが透けている。プリーツ部分にはシルバーが混ざっており、大人っぽい印象があった。スカートの長さも丁度いい。 (うん、これで発表会の準備もできたし……)  友人たちと別れ、地下鉄に乗る。  姉の墓前で理乃は全てをさらけ出した。隆哉(たかや)との関係、それから莉茉(りま)に対し怯えがあったことなどを。死者から返答はない。それでも貞樹と歩いていく、その思いを吐露したときには胸のつかえが取れていた。  自己満足だと言うものはいるかもしれない。しかし、けじめだ。これから自立していくと決意した。悲しみも喜びも、自分の手で紡ぎ上げていくということを。  貞樹はただ優しく見守ってくれていた。彼がいるから、理乃は未来へと歩き出せる。  今日は見事な晴天。雪もすっかり溶けた。春風が飴色のコートの裾をさらっていく。髪を押さえながら教室へ入ると、受付には葉留(はる)ではなく(しゅん)がいた。 「あ、神津(こうづ)さん……こんにちは」 「ああ。宇甘たちは今レッスン中だ。瀬良さんも音合わせに?」 「はい。ちょっと早かったかなって思いましたけど。神津さんはどうしてここに」 「ボランティアというところだな。一日だけの店番だ」 「そうだったんですね。座って待ってます」 「そうしてくれ」  理乃はコートを脱ぎ、流れるピアノの音に耳を澄ませながら椅子へ腰かける。  この教室とも半年の付き合いになった。そう思うと感慨深い。貞樹たちとの出会いがなければ、今も自分は永劫の冬に囚われていただろう。隆哉との別れ、姉との決別もすることなく、生きたまま死んでいる状態になっていたかもしない。  だが今は違う。自分の足で歩いている。貞樹と共に、新しい道へと。自分の音も蘇った。バイオリンを弾くことが、好きだ。情熱は確かに胸の中にある。  口元をほころばせながら、貞樹から借りた本を読もうと鞄を漁った直後。 「みんなお疲れ様ー。いい感じだね」 「池井戸(いけいど)先生、ありがとうございました」  葉留と生徒たちが部屋から出てきた。その中に貞樹と美智江(みちえ)の姿はない。 「あらっ、瀬良さん。早いのね」  生徒たちと挨拶を交わした理乃へ、葉留が声をかけてくれる。頭を下げて微笑んだ。 「さだなら今、ちょっと永納(ながの)さんと……」 「だと思いました」  こちらの余裕を見て取ったのか、語尾を小さくする葉留が目をまたたかせた。  美智江はまだ、理乃を認めていないだろう。確かに今の状態の演奏を聴かせたことはない。けれど――  葉留に近付き、小声でささやく。 「池井戸先生、あとで貞樹さんとの演奏を永納さんに聴かせたいんですけど、いいですか?」 「あたしはいいけど。何弾くの?」 「……シューベルトの「華麗なるロンド D895」を」 「それ、アンコール用の曲よね? いいの? 先に聴かせちゃって」 「練習の成果を。今のわたしの音を永納さんにも聴いてほしいんです」  言って、笑みを深める。  シューベルト作曲「華麗なるロンド D895」はクロイツェルと同等の難易とされている曲だ。リズミカルな曲想には技巧も要求される。クロイツェルと共に貞樹と練習を重ねてきた曲目の一つで、美智江を納得させるならこれしかないと思った。 「オッケ。ここらでガツンとやっちゃえ」 「いえ、その、ガツンとやるだなんて……」  にやりと笑む葉留へ、顔を苦笑に変えたその時―― 「永納さん、注意事項は以上です」 「ありがとうございますっ、宇甘先生」  奥の部屋から、貞樹と美智江の二人がこちらに向かって歩いてくる。美智江は理乃に気付くと笑顔を消し、厳しい眼差しで見てきた。 「お疲れ様でした、貞樹さん。永納さん」 「……お疲れ様です、瀬良さん」 「理乃、早かったですね」  理乃の言葉に、それぞれが返答する。敵愾(てきがい)心をそのまま声に乗せた美智江の声は硬く、貞樹の声音は柔らかい。理乃は真面目な面持ちで美智江を見つめた。 「永納さん。よかったら、今のわたしの音を聴いてくれませんか?」 「……別にいいですけど……」 「貞樹さん、休んだらわたしに付き合ってほしいです」 「ピアノは弾いていなかったので、すぐにでも構いませんよ。葉留、準備を」 「はいはいっと」  葉留が楽譜置き場に入るのを見て、理乃はバイオリンが置かれている室内へと赴く。自分のバイオリンをとり出し、ケースを持って奥の部屋へ進んだ。  防音室には椅子があった。貞樹はそこで、美智江の演奏チェックをしていたのだろう。バイオリンの準備をしているうちに、三人が入室してくる。  椅子に腰かけた美智江の顔は硬い。構わずにバイオリンの音を確かめる。貞樹がピアノの前に座り、譜面を見て頷く。葉留は譜面を捲るため、一脚、椅子を持ってきていた。 「これから貞樹さんと弾くのは、シューベルトの「華麗なるロンド D895」です」 「聴かせてもらいます、瀬良さん」  答えた美智江に首肯し、理乃はバイオリンを構える。貞樹がこちらを見た。その手が鍵盤に置かれる。  厳かな、粛々とした重い音が響いた。入るところを間違わないよう、リズムをとる。最初は緊張感のある音色に弦を弾き、感情を乗せていく。 (貞樹さんと出会えなかった頃の思いを)  一転して優しく、明るくなり始めたピアノに合わせて少しずつ音を軽やかさに変える。 (出会えたことの喜びを)  生動たるリズムに合わせ、アレグロに。思いを込めて弾き続ける。まさに貞樹との邂逅をイメージしたような曲は、弾いていて楽しい。貞樹と共に演奏できるのが、嬉しい。  主題の華麗さを忘れず、それでいて愛しさも乗せて弾いた。奥に置かれた姿見に、もう姉の影はない。ただただ貞樹との出会いを歓喜に変え、華麗なる曲想を響かせる。  クライマックスでピアノと共にバイオリンは駆け上り、理乃と貞樹の演奏が止まった。  十六分近くもある長い曲が一瞬のようだ。ほぼ全力を出した。今弾けるもの、出せる技術を総動員したと思える。  は、と小さく呼気を吐き、理乃はバイオリンを降ろした。呼吸を正して背後を見る。美智江は目をつむり、曲の余韻に浸っているようだった。 「……これが二人の音」  ぽつりと美智江がささやき、瞼を開けた。その顔はどこか清々しい。 「凄いですね、瀬良さん……曲に感情が乗せられてない、って聞いてましたけど」 「今のわたしは違います。これがわたしの音なんです」 「完敗か。凄かったです、瀬良さんも、宇甘先生も。聴かせてくれてありがとう」  少し寂しそうな笑顔に理乃も微笑む。 「うちも頑張る気になっちゃった。お幸せに、二人とも」 「ありがとうございます、永納さん」  祝辞を述べた美智江は、一礼して防音室をあとにした。貞樹が立ち上がり、理乃の方へと近付いてくる。 「理乃、見事な演奏でしたよ。安心して伴奏することができました」 「さ、貞樹さんのピアノですから……思いを込めて弾けたんです」  理乃ははっきりと、自信を持って貞樹を見上げた。優しく微笑む彼が愛おしい。 「……理乃」 「貞樹さん……」 「お二人さん、あたしがいること忘れないでねー」  甘い空気を打ち消すように、けらけらと笑う葉留の言葉で我に返る。  照れながらまた姿見を見た。  そこにはもう、姉の幻はない。
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