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終幕 Amorosi miei giorni~わたしの愛の日々~
理乃も貞樹も、多忙な日々が続いていた。公演から約半年、今は夏を通り越して初秋。貞樹の教室はますます有名となり、生徒数も少し増えた。理乃は三ヶ月前にライター会社を辞め、現在は教室の事務員兼受付として彼の手助けをしている。
葉留は完全にピアノ講師として働き始めており、溜まった雑務は理乃に割り当てられていた。
そして、もう一つ変わったことがある。
「ただいま帰りました、理乃」
「貞樹さん、お帰りなさい」
空になった洗濯カゴを手に、理乃は玄関から上がってくる貞樹を笑顔で出迎えた。
ここは貞樹のマンション――いや、今は二人のマンションだ。少し前から貞樹の提案で同棲生活を始めている。空いていた一つの部屋を理乃専用の部屋にしてもらっていた。
「何か変わったことはありましたか」
「貞樹さんが出かけてから、まだ三十分しか経ってませんよ? 何もないです」
洗濯カゴを片付け、苦笑した。ハンガーラックにカーディガンをかけた貞樹が微笑む。
「どうにも心配……と言うより、あなたのことが気になるので。つい」
「もう……あ、いい買い物はできました?」
「ええ、安い野菜に肉が。今晩はジャガイモのオムレツとローストポークにしましょう」
「美味しそう。楽しみです」
買い物用のバッグを掲げる貞樹へ、つい目を輝かせる。
朝に軽食を作る担当とはなっているが、やはり彼の料理の腕には叶わない。その分洗濯と掃除をきちんとやることを理乃は自分に課していた。
(掃除機かけちゃおう)
と、用具が入っている収納場所を開けようとした時、貞樹が静かに手へと触れてくる。
「理乃、せっかくの土曜日です。二人でゆっくり過ごしませんか」
「でも」
「掃除は逃げませんよ」
「じゃあ、そうしようかな……」
微苦笑を浮かべられ、言葉に甘えることにした。秋晴れで天気もいい。バルコニーでお茶をするのも気晴らしになるだろう。
貞樹から買い物バッグを預かり、中身を冷蔵庫へと入れる。ぴったりとした長袖シャツとスウェットに着替え、リビングに現れた貞樹は髪の毛を降ろしていた。そうしているとより男の色気が漂うように理乃には感じ、思わず見惚れてしまう。
ごまかすように微笑み、キッチンの戸棚を開けた。
「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「では紅茶を。ああ、貰い物の菓子がありましたね、クッキーが」
「それも出しますね。貞樹さんは座ってて下さい」
茶の用意をし、クッキーを皿に出す。ソファに座った貞樹が音楽をかけた。ラフマニノフ作曲の「交響曲第二番」がゆったりと流れ始める。壮大で緩やか、叙情的な音に心が洗われるようだ。
ティーポットやクッキーを、トレイでガラス製のテーブルまで運び、理乃も貞樹の隣へ腰かけた。お茶に菓子、そしてクラシック音楽。好きなものがたくさんあって嬉しい。
「ああ……昨日、教室に上江君からはがきが来ていましたよ」
「上江さんから?」
貞樹が一枚の絵はがきを手渡してくる。受け取って見てみると、海の絵の横に「親父の会社で元気にやってる」という文字が書かれてあった。南国テイストの海にはハワイとある。
「上江さん、お父さんの会社に戻ったんだ……」
「上江グループの次男でしたね、彼は。ピアノから離れたようですが」
「元気でいてくれるなら、それでいいです」
一人頷き、はがきをテーブルの上に置いた。直後、貞樹の腕が伸びて肩を抱いてくる。抱き寄せられ、理乃は貞樹の二の腕へと頭を預けた。
「貞樹さん?」
どうしたのだろうと顔を見る。こちらを見下ろす貞樹は、真剣な眼差しをしていた。
「本当に私でよかったのですか」
「え?」
「いえ、彼は御曹司でしょう。地位もありますし」
「わたしが好きなのは貞樹さんだけです。愛を教えてくれたのは、貞樹さんだから」
どこか不安げ、焦燥しているような貞樹の頬へ、軽く唇を押し当てた。貞樹が安堵するみたいに頬を擦り寄せてくる。
稀に彼は、嫉妬を憂慮に変える時があった。健忘症が治ってないからかもしれないが。だからその分、理乃はきちんと答える。憂いを取り除くように、思いを伝えるために。
今だって貞樹に焦がれてどうしようもないのだ。何度唇や体を重ねても、こちらの方が釣り合っていないのでは、と疑問がよぎることがある。
「これからも一緒に歩いて行きたい人は、貞樹さんなんですよ」
それでも彼に対する愛情の方が強い。今まで紡いできた愛という名の旋律。それを、ずっと一緒に奏でていきたい。辛いことも悲しいことも分かち合い、道を共にしていきたい。
「理乃……私だけの、理乃」
陶酔した面持ちで名前を呼ばれるたび、全身が痺れる。両頬を手で挟まれ、少し冷たい手のひらにぞくりとした。目を閉じて口付けを受け入れる。
熱いキスに体が火照った。全てを貪るようなディープキス。それに応えながら腕を移動させ、貞樹の背中を抱き締めた。貞樹の唇が移動し、額や頬、首筋を啄んでくる。
「貞樹、さん」
甘い吐息を漏らし、理乃はうっとりと微笑む。
彼の瞳が自分を射貫くことが幸せだ。このまま貞樹を閉じ込めておけたら――今まで考えたこともないような歪んだ感情が胸を占める。でも、それはきっと貞樹も同じだろう。
「わたしは貞樹さんだけのものです」
「ええ。そうです、理乃。そして私もあなただけのものだ」
貞樹が不敵な笑みを浮かべた。野獣のようなその目が好きだ。自分だけが見ることのできる、どうしようもなく欲深い顔も。
自分に、貞樹に、それぞれが囚われている。怖いくらいの独占欲と執着心。もしかすれば隆哉も姉に、そんな思いを抱いていたのかもしれないと今なら感じる。
歪んでいる、と思った。自分たちの幸せの形は少し、歪だ。それでも構わない。枯渇することのない愛と欲望をぶつけてほしい。自分が壊れてしまうまで。
「理乃、愛しています」
「好き。貞樹さん……」
「好きだけでは足りません」
ソファに押し倒され、再び唇を重ねた。
理乃は酔う。肉欲と暴力的なまでの愛情に。貞樹には自分が、自分には貞樹しかいないという事実を確認していく。
互いが抱く愛と歪みの旋律を奏でるように――
それはきっと、二人だけの音色だろう。
【完】
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