序幕  piangendo~悲しげに~

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序幕  piangendo~悲しげに~

 小さく呻く男をソファまで運び、理乃(りの)は窓を見た。薄曇りの空に茜色の夕陽が眩しい。 「酒……よこせ」 「もう十分酔ってます……上江(かみえ)さん、これ以上はだめです」 「お前、いつから俺に逆らえる立場になった?」  顔を歪ませ、短い赤毛をくしゃくしゃに掴みながら男――上江は言う。ニヒルな態度と言葉に理乃は悲しみを堪え、それでも黒髪のボブを左右に振って抵抗を示した。 「莉茉(りま)ならくれたぞ」 「……姉さんは少し上江さんに甘かったんです……」 「妹のお前と違ってな。莉茉は優しかった。優しくて、明るくて……双子でも大違いだ」  そんなこと、自分が一番わかっている。胸の疼きを溜息に変え、ソファに沈んでいく上江の様子に静かにキッチンへと向かった。ごみ箱やシンクは綺麗だ。ほとんど外食で済ませているのだろう、と推測し、冷蔵庫を開ける。 (姉さんが生きてたら、こんな上江さんを放っておかないよね……)  同時に、理乃と上江との関係が歪んでいることに悲しむだろうとも感じた。  冷蔵庫の中はほとんどが空だ。並ぶ酒の中にミネラルウォーターがあったから、ピッチャーとコップへ注いで上江の元へと戻る。  ガラス製の机にそれらを置いたとき、不意に腕を掴まれた。 「俺の名前を呼んでみろ」  虚ろな鳶色(とびいろ)の目が理乃を捕らえる。理乃は軽く眉を(ひそ)めてまた、頭を振る。上江が笑う。これ以上ないほど冷淡に、残忍に。 「隆哉(たかや)さん、って呼べよ。あの日みたいにまた抱いてやるから」 「放して下さい……もうあんなこと、したくないです」  は、と鼻でせせら笑う上江――隆哉に理乃は泣きそうになった。一夜の過ちを思い出して。急病で死んだ姉、その彼氏だった隆哉、二人とも理乃の憧れの人だった。 「莉茉の変わりにもなれないんだな、お前は。なんのためにその顔がある?」  そんな憧れの人に、罵詈(ばり)にも似た言葉を投げかけられていることが辛い。目頭が熱かった。窓からの逆光で顔が見えてなければいい、と思う。泣きそうな表情を見せてはだめだ。過ちで体を重ねた際、「泣き顔がそそる」と隆哉が言っていたことを思い出したから。  中腰になったまま手が離れるのを待つ。隆哉の瞼がどんどん落ちていくのと同時に、理乃の腕を掴んでいた力が緩まった。少しして、寝息が聞こえた。  ほっとしながら、理乃は腕を引き抜く。隆哉が起きる様子はなかった。テーブルの上にあるエアコンを操作し、風邪を引かないように冷たい室内へ暖房を入れる。  今は秋の中旬。北国の秋は寒い。隆哉が着ていたシュノーケルコートは玄関に脱ぎ捨てられていた。それを拾い、眠る隆哉の上にかける。 「莉茉……」  寝言で姉の名を呼ぶ隆哉に一抹の苦しさを覚え、理乃は小さく嘆息した。  半ば強引に体を貪られた際も、そうだ。隆哉は理乃の純潔を奪いながら莉茉の名を呼んでいた。これ以上なく悲しげに、辛そうに。  一日だけだが、姉の身代わりみたく男女の仲になったのは事実だった。以来、酒に溺れ始めた隆哉を介抱するのは理乃のルーティーンになっている。今日も行きつけのバーで酔っ払った隆哉に呼ばれ、仕事帰りに理乃が家まで彼を連れて来たのだ。  つっぱね、()ね除けられたらどんなに楽だろう。しかし兄のように慕い、それだけでなく隆哉のピアノに惚れている身としては、今の彼を看過できない。今はただの酔っ払いだが、隆哉は姉と同様、ミュンヘンの国際音楽コンクールでも入賞している天才だ。  所詮秀才止まりの自分とは違う。つくづく姉や隆哉との違いを突きつけられた気がして、大きく溜息をつきたい気持ちに駆られた。 「……お休みなさい、上江さん」  それすら姉を裏切った身としては許されない気がして、堪える。小さい声に反応はなく、眠る隆哉をそのままに理乃は部屋から出た。  足早にマンションを後にする。ネイビーのコートに吹き付ける風は冷たく、街路樹が黄色い葉っぱを揺らしていた。空はいつの間にか藍色になっており、周囲の明かりが眩しい。  自宅は十分ほど歩いた近距離にある。表通りを通れば花屋やケーキ店、ドラッグストアなどの照明が煌々と光っていた。  いつもの風景に何も思わず、横断歩道を通り家へと急ぐ。冷えた風に熱かった目頭は乾いており、群青色のストールへ縮こまるように顔を埋めたそのときだ。  ビルの一角に、音楽教室ができていることに気付いた。確か数ヶ月前からテナント募集、とはあったが、今日オープンしたのだろうか。帰り道の途中ということもあり、否応なしに教室へ目が向いてしまう。  ローマ字で『宇甘(うかい)音楽教室』と書かれた看板があり、個人教室なのだと理解できた。  暖色系の照かりに包まれたロビー、受付と思しき場所の奥にあるアップライトピアノに釘付けになる。足を止め、ガラスに手を当ててピアノを見つめた。 (わたしがバイオリンをまた弾いたら、上江さんもピアノ、弾くようになるかな……)  隆哉はピアノでも、特にモーツァルトの曲が得意だった。過去を思い出してぼうっとする。理乃と姉の莉茉はバイオリンを習っており、三人でよく曲を奏でたものだ。二度と帰らない思い出に浸りつつ、表に貼られたポスターに視線をやる。  『レッスン生徒募集中。バイオリン、ピアノに興味のある方はぜひどうぞ』と書かれたシンプルなポスターで、住所と電話番号が記載されてあった。  理乃は二年、バイオリンに触れていない。姉が死んだときから今に至るまで、ずっと。隆哉もすっかりピアノから離れている。もし、理乃がバイオリンを姉のように弾けるようになったなら、隆哉も再び鍵盤に手を置くかもしれない。 「教室にご興味がありますか」 「えっ……」  不意に中から出てきた男性に声をかけられ、慌ててそちらを見た。  黒い切れ長の瞳に、焦げ茶色の髪。四角い眼鏡とスーツがよく似合う男だった。顔立ちは整っているが無表情で、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせている。年齢は三十過ぎ、といったところだろうか。見下ろされる形で問われ、理乃は顔をうつむかせた。 「いえ、見てただけです……」 「……あなた」 「はい……?」  切れ長の目が、何かを探るようにこちらを見てくる。しかし男は何も言わない。視線が痛く、理乃は軽く頭を下げた。 「た、ただ見てただけなんです……ごめんなさい」 「これを、よろしければ」  そのまま立ち去ろうとする自分へ、男は先程のポスターと名刺がクリップされたものを差し出してくる。つい受け取ってしまい、名刺に軽く目を通した。  名刺には『宇甘貞樹(さだき)』とあった。名前になぜか聞き覚えがあって、少し考える。  だが、思い出せなかった。唯一の取り柄は記憶力だというのに、珍しいこともあるものだ。誰かと混同しているのかもしれない、と考え、もう一度男――貞樹を見上げる。 「もし興味があるなら、一度お越し下さい。歓迎します」 「ありがとうございます……」  形式張った礼の言葉に、貞樹はなぜか微笑む。笑うと少し、雰囲気が柔和になる。けれど穏やかな笑みにつられることなく、理乃はもう一度頭を下げて貞樹の横を通り過ぎた。  手にしたポスターを丁寧に折りたたみ、肩掛け鞄に入れながら路地の角を曲がる。 (バイオリンが弾けたら、少しは上江さんもまともになってくれるかもしれない)  街灯のある道を歩きながら、ふとそんな希望を抱いた。  姉とは違って、自分には天賦(てんぶ)の才はない。海外のコンクールで入賞することもなく、今はライター会社の事務員として働いている。音楽大学へ入れてくれた両親にも顔向けできず、ここ二年、実家に帰省していないくらいだ。  一方の隆哉はホテル経営を中心に、リゾートの経営なども行う上江グループの次男坊。最近は貯金を切り崩して生活しているらしいが、彼もまた、莉茉の死以来、実家に戻っている様子はなかった。  『なんのためにその顔がある?』という隆哉の言葉が繰り返し、理乃の胸を締めつける。一卵性の双子で、姉とそっくりだったことがとても辛い。姉の莉茉が夏の太陽のように明るい性格ならば、自分は冬の曇り空みたいに陰気で、その違いにも嘆くばかりだ。 (でも……もしかしたら……)  考えているうちにマンションの部屋に着いた。電気をつけ、パンプスとコートを脱いでソファに腰かける。鞄からポスターを取り出し、それを見つめながら考えた。 (わたし、上江さんのピアノ、もう一度聞きたい)  暖房を入れて冷えた体を温めつつ、寝室の扉に視線をやる。そこのクローゼットにあるバイオリン。実家から持ってきたそれは、手入れだけはこまめにしてある。 「……姉さん。わたし、バイオリン弾いていいかな……」  少しでも隆哉に元の生活を送ってもらえるならば――動機は不純かもしれないけれど、と思いながらポスターを撫でた。  自分の問いかけに答えるものなど、もういないとわかっていつつも。
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