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月明かりというより、月灯りと読みたい。
こんなに、優しい気持ちになれてるのだから。
左手が、こんなにも温かい。
彼を見上げる。
袖を摘んでいれば、もしくは手首を掴んでくれればいいのに、「いいんじゃない? 今だけ」と手を繋いでくれた。
終電間近、誰もいない路地で風が涼しげに吹きわたっていく。
ゆっくり歩いている歩幅を急かすように。ためらいがちな靴音を慰めるように。
ふと、彼が私を見たけれど。
「前、向いてていいよ」
足を止めて見つめ合えば、時が止まった。風も黙り込む。ふいに訪れた静けさに包まれて、きっとこの世界に私達だけしかいない。今だけは、私と、この人と、月灯りだけ。
初めて、まっすぐに彼の顔を見た気がした。
私が入社した数ヵ月後に本社から異動してきたのが、彼だった。無愛想に自己紹介してきたあれから数年、ともに仕事をしていくなかで不思議な信頼関係が私たちの間に出来上がっていた。少なくとも私はそう思っている。
何も言わなくてもお互いの必要な物を差し出せたり。無言でいても、彼となら心地よかった。
これからも。そう思っていたけれど、月末の今日で終わりを迎えた。明日から彼は元いた本社勤務に戻る。
そしてもうあと数歩で街灯のある車道沿いの道に出る。手を離さなきゃ、いけない。
彼はゆっくり前を向いた。何も言わずに歩き始める。固まっていた時間は溶け出してゆっくり流れ出す。
何も起こらなくていい。私達は、そういう関係じゃない。出会った時、あなたは既に誰かのものだったんだから。
私たちを結んでいるのは不思議な信頼関係。
出口が、もうすぐそこ。
少しだけ、手に力を込めた。
同じ分だけの強さで握り返してくれる、彼の右手をこの感触を私はずっと忘れない。この先、辛いことがあったらこの月灯りの今日を思い出す。
さあ、最後の一歩を踏み出そうか。
「待って」
私の言葉に、もう一度彼が私を見た。
深呼吸するように、ゆっくり息を吸う。胸いっぱいにして、それでも数秒待って。私から手を離した。路地を出て振り返る。
「バイバイ」
彼は静かに見ていてくれた。
無愛想なだけじゃない、優しさを含んだ眼差しで。
一瞬で焼き付けた彼の姿を振り切って、私は駅へと急ぐ。
思っていたより、世界は音に溢れていた。もうすぐ今日が終わるという時間なのに街灯も目に刺さるほど明るい。立体感を増し、少しだけ息苦しい世界を私は明日からも生きていく。
乗り込んだ電車の車窓から、私は月だけを見ていた。
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