夕月の巫女

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

夕月の巫女

 村の社の縁側に腰かけて、夜に染まろうとする空を見上げていた。    白い雲が湿った風に吹かれながら、茜色の空を漂っている。  生い茂る樹木の間から、夕日がこっそりと覗く。  そしてセミの鳴き声が、雨のように木陰を濡らす。 「明日は晴れかしら」  つぶやいた声が潮風に運ばれて、社から離れていく。  結われた長い黒髪がたおやかに揺れた。  私は社が好きだ。  母上に叱られたとき、ご神木の陰で泣いた。  隣村の巫女の姉上から文を貰い、縁側で一人達筆な字を追った。  圭が他の女の子と逢引するところを、茂みに隠れて覗き見た。  母上が天に昇った日、縁側に腰かけて一晩中空を見上げた。  父上が都から帰ってこなくなった日、祭殿で父上の無事を願った。  縁側の黒ずみには私の思い出も一緒にしみ込んでいる。  荒々しい肌触りも愛おしく感じる。  社の周りに咲く白いユリが風に揺れて、ほほ笑んで見えた。   「おお、結月ではないか。久しいのお」  雨風で傷んだ社殿のように古びた声を聞いて、左後ろを振り返る。  縁側の端に黒猫が一匹、四本の足で立っていた。 「あら、クロ様ではないですか」 「隣に座っても、よいかの?」 「ええ、もちろん」  ずんぐりとした黒猫が、私の左隣に体を横たえる。  この御方はクロ様と呼ばれている。  水鏡家に伝わる話では、村の始まりからずっとこの村にいるらしい。  もう歳らしく最近は滅多に姿を見せない。 「クロ様は今日はどうされましたか?」 「ちと潮風で涼もうと思っての」  艶やかな黒い毛並みが、潮風で気持ちよさそうに撫でられる。  その姿を見ながら、空に溶け込みそうな袴の乱れを直した。 「クロ様」 「なんじゃの?」 「茜色に焼けた空は、いつまでも村を朱く染めると思いますか?」 「ふむ……。朱く染まる空も、いずれ黒い海に月を浮かべよう。村の行く末はワシにもわからぬ」  クロ様は水平線の彼方を見つめる。  この世に生を受けて滅びぬモノは何もないと、母上は言った。  それでも生き残りたい人間は、巫女に神楽鈴を鳴らせる。  海に鳴る私の鈴の音は、空っぽだと思い続けてきた。  それはきっと私には、巫女の力が無いからだ。 「少し歩きましょうか」 「そうじゃの。ではワシの先を歩いておくれ」 「はい」  縁側から軽く腰を上げて、袴についた土埃を右手で軽く払った。  そして社の前の広場を抜けて、石の階段を一歩一歩下っていく。  百段はある階段を下り切って村のはずれの獣道を歩き、浜を目指す。  右足を一歩。  左足を一歩。  少しずつ潮の音が近づいてくる。  今日も海は凪いでいるのね。  草履をはいた足が砂が混じった土を優しく固めて、乾いた音をたてる。  そんなとき道の脇の茂みがざわついた。  ざわついた方を見ると土砂降りのような泥水が、純白の巫女装束を濡らした。 「朔月の巫女は、村から出てけ!」  怒りに満ちた高い声が茂みから私を突き刺して、足音が草木のざわめきと共に遠ざかる。 「クロ様は濡れておりませんか?」 「うむ。無事じゃ。そなたこそ大丈夫か?」 「ええ、大丈夫です。慣れておりますので」  目を細める私の濡れた前髪に、白い月の光が差し込む。  そして泥水が巫女装束を滴って、足元を濡らした。 「疎まれて当然です。力を持たぬ巫女の舞は、偽物ですから」  力のない声がクロ様の耳をピクンと動かす。  クロ様は私の黒い瞳の奥を覗きながら尋ねる。 「ふむ。ではなぜお主は、闇の水面に鈴を鳴らす?」  光を湛えた眼差しが、黒い瞳の奥底に眠るものを覗く。  深く。  ずっと深くを。 「母上のような巫女に、なりたいのです」  澄んだ水のような声が、闇に染まる新緑の空気に溶けこんだ。  私は母上の凛とした神楽鈴の煌めきを、忘れられない。  月夜に冴えわたる一輪のユリの花は、今も瞳の奥底に咲いている。 「では、力を持たぬお主は、これからも神楽鈴を振り続けるのか?」  向かい合ったクロ様の目が、不気味に黄色く光る。  私には巫女の力がない。  でもいつか母上のような立派な巫女になってみせる。  だから毎晩浜で一人、砂上を舞う。  力が宿る日を信じて、鈴の音で闇を照らすのだ。 「続けます」  芯の通った声が淀みなく、朱と墨が混じる空に響く。  私には策がある。  その昔水鏡家の娘が巫女の力を宿したという、大水鏡の儀式を行うのだ。 「そうか。それは頼もしいのお」  クロ様は目を細めた。  水が滴る黒髪を結い直す。  空を見上げると、夕月(ゆうづき)が凛と佇んでいた。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!