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望月の巫女
黒い水面には望月が一つ浮かんでいた。
浅瀬に浮かべた三艘の小舟に、篝火が煌めく。
私は右手に神楽鈴を持ち、三角に並ぶ小舟の中心に立っていた。
巫女装束の袖が潮風に揺れる。
微かな鈴の音を静めて、瞳を閉じた。
凪の海。
潮の音が響く。
砂のざらつき。
冷たい塩水。
風がそよぐ。
潮の香りが満ちる。
息を吸った。
短く吐いた。
その刹那、静寂が闇を包む。
私は右手に握った神楽鈴を振り上げる。
そして右手が海を割いた。
無音の闇に鈴が鳴る。
目を開き、夜空の望月を瞳に宿す。
潮の満ちる音を純白の袖が捉えた。
その音に合わせて金色の音が宙を舞う。
舞の熱が凍える夜の海を煮えたぎらせる。
それは篝火が浮かれそうなほどに。
漆黒の水面に一輪のユリが咲き誇る。
「痛!」
鍛錬で痛めた右手に、突き刺すような痛みが走る。
思わず放した神楽鈴が、大きな音をたてて沈んだ。
痛みで足元がよろけて両手で海中の砂をついた。
「ねえ、どうしてなの?」
押し消えそうな声が、さざ波の音に消えていく。
わからない。
どうしても、わからない。
どうして、私には力が宿らないのか。
母上のようになれないのか。
母上が亡くなった年から、浜には魚がほとんど揚がらなくなった。
跡を継いだ私は、村の人々の期待を一身に背負った。
でもいつまで経っても、魚は戻ってこなかった。
そしていつしか、純白の巫女装束の袖は泥にまみれた。
「結月。おい、結月! 大丈夫か?」
低い声が闇に響いた。
座り込んで浜の方を見る。
松明を右手に持った圭が、浜の入り口から海に向かって駆け寄ってくる。
「ええ、大丈夫です。自分で立てます」
立ち上がろうと、両手で海中の砂を押しやる。
でも海水にまみれて凍えたからだが、言うことを聞かず体がよろけた。
駆け寄って松明を右手から放した圭が、その体を力強く抱いた。
背中に回された太い腕が、私を離さない。
「ねえ、離してよ」
力のない声が、圭の胸元を弱々しく押し返す。
「離すわけないだろ」
「力のない巫女は、村にいらないの」
ポツリと呟いて、圭の胸元に顔を埋めた。
「結月!」
大きな声が頭を揺らした。
ハッとして圭の顔を見る。
「結月はこの村に必要だ。巫女が村を守らないで、誰が守るんだ」
「でも私には、母上のような力がないの」
「力なんて無くていい!」
圭の両腕が私の背中を強く締め付ける。
「結月の袴には一つもシワがない。背筋は竹のようにまっすぐだ。結月の子守歌は、泣く子も寝かしつける」
何を言っているの?
「結月はもう、御母上のような立派な巫女なんだよ!」
「私が母上のような立派な巫女?」
潮風でたおやかに揺れる、絹のように艶やかな結われた長い黒髪。
竹のようにまっすぐ伸びた背筋。
シワの一つもない、朱い袴、白い袖。
砂浜を優しく踏み固める小さな歩幅。
泣く子をあやすほほ笑んだ横顔。
私の瞳の奥に眠る母上の姿は、憧れそのものだった。
ずっと、誰かに言われたかった。
見ていて欲しかった。
認められたかった。
受け止めて欲しかった。
ずっと、誰かに……。
「母上……」
目頭が熱くなってとめどなく熱い水が頬を伝い、海に溶け込む。
うまく呼吸ができなくて、息が苦しい。
苦しい呼吸が、乾いたのどが、凍える体が、温かいもので満たされていく。
私は飢えていた。
自分には、巫女の力がない。
舞の才がない。
社以外の居場所がない。
村の人からの、信頼もない。
そして母上もいない。
そんな私にも、持っているものがあった。
それは巫女の心だと、圭が教えてくれた。
「圭……」
圭の顔がぼやけて、よく見えない。
水面に浮かぶ篝火に照らされた圭の顔が眩しい。
「頑張る結月をずっと見てきた。これからは一人で頑張らなくていい。だって、俺も頑張るから。もう村のためだけに、身を捧げなくていい」
「うん……」
絹越しに伝わる圭の熱が、私の濡れた巫女装束に広がる。
着飾った巫女衣装はもう、崩れていた。
そして圭は一つ大きく息を吸って吐いて、告げる。
「だからこれからは、俺のために生きてほしい」
夜の海に浮かぶ篝火が、火の粉を散らして瞬く。
「綺麗な朔月を隣で見たい」
熱い潮風がにわかに吹いて、濡れた黒髪を大きく揺らした。
空に浮かぶ月が、眩しすぎて見れそうにない。
脈打つ鼓動が、圭のものか、私のものか、わからなかった。
なんだか全身が熱にほだされて、力が入らない。
そんな私の背中を潮風が撫でる。
まるで母上の優しい手つきのように。
痛くてうまく開かない目を開く。
私の瞳に望月の眩しい光が差し込んだ。
月の光を瞳の奥に宿して、黒い真珠のような瞳を見つめる。
そして月に照らされた漆黒の海のように、私の瞳は目の前の望月を照らす。
「朔月は自分では光れないの」
だから私は。
「だから貴方の光で、朔月を照らして下さる?」
圭の背中に両腕を回して、一緒に望月を見上げた。
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