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朔月の巫女
私は夜の浜辺に、巫女装束をまとって立っていた。
凪いだ海が浜辺を幾度も白く濡らしては、引き返す。
吸い込まれそうな漆黒の空に、潮の音が静かに響く。
闇に佇む焚火の炎だけが、私を赤白く照らしていた。
右手に握った神楽鈴を振り下ろす。
研ぎ澄まされた鈴の音が凪の浜辺を切り裂いて、草木が露を弾く。
巫女装束の純白の袖が潮風をまとい、金色の音が闇を舞う。
そして墨に染まる宙を漂って、焚火のまきが割れる音と響きあう。
ツンと鼻につく潮の香りが意識を研ぎ澄まして、舞は熱を帯びた。
それは寝ることを知らない暑さが、涼しく感じるぐらいに。
乾いた砂上に一輪のユリが咲く。
「痛!」
右手にできていた豆がつぶれて、赤黒い血がにじむ。
そして勢いよく伸ばそうとした右手を戻して、左手で抑える。
右手を離れた神楽鈴が行き場を失い、宙を舞う。
そのまま元気のない音をたてて、砂にまみれた。
横たわる神楽鈴を、鋭利な目つきでにらみつける。
村には私しか巫女がいないのに。
こんなんじゃ村を守れない。
左手で右手を抑えて、痛みと至らなさをこらえる。
そんな私の気も知らないで、熱い潮風が吹き抜けた。
結われた長い黒髪が、月に青白く照らされながら揺れていた。
しゃがんで左手に神楽鈴を持って、砂をはらう。
首筋を汗が流れて砂浜に滴る。
「力が欲しい」
うつむいて闇に呟く。
先祖代々受け継がれし巫女の力は、何故か私にだけ受け継がれなかった。
母上のような巫女になるためには力が必要なのに。
砂上のユリの花は、闇の中でしおれていた。
「結月? しゃがんで、どうしたの?」
低い声が、意識を暗闇の中から連れ出した。
立ち上がって振り返ると、左手の神楽鈴が可愛らしく鳴いた。
「やっぱり圭ね。大丈夫。少し休んでいただけよ」
「そっか。良かった」
安堵したかのように、圭の肩から力が抜ける。
そしてつぎはぎだらけの服が、圭の暮らしぶりを私の心に染み込ませた。
「久しぶりね。ひと月ぶりかしら」
「ああ、そうだな」
風が和らいで、圭の言葉が袴の朱色のような炎に溶け込む。
圭の顔が焚火の炎に照らされて、汗ばんで見える。
私の肌はじんわりと火照った。
「今日は漁はいいの?」
「ああ、休みだ。漁場が一緒の隣村と揉めてから、漁は月の半分だ」
「ええ、そうね。思い出したわ」
私の瞳に、肌が焼けた海の男が映る。
いつからか圭の立ち姿は、黒く染まる海に呑まれなくなった。
まるで空に浮かぶ青い月のように。
私の瞳を見つめる青い月は、今日も綺麗だ。
「結月、右手、怪我してる?」
右手を見ると、滲む赤黒い血が焚火の炎に照らされて鈍く光っていた。
「大した事ないわ」
「いいから見せろって」
圭のざらついた左手の温もりが、私の右手首に伝わる。
浜の奥の林で二匹の蛍がほのかに光って、入り乱れた。
「血豆がつぶれてる。こんなになるまで練習して……」
穏やかな潮の音に馴染む圭の声が、焚火の熱に溶け込む。
「無理するな」
「いいからもう、手を放して」
夜の海のような言葉が、寂しく響く。
着飾った巫女装束が風になびいて、弱った炎が小さく弾けた。
「そっか。悪い」
圭は、まるで冷たい海の中から出るように、私の右手を放した。
そして、月が雲に隠れて、圭の顔も陰りを見せる。
海の気配が背中を撫でる。
海にもまれながらも呑まれはしない海の男が、微かに震えて見えた。
巫女装束が闇に染まる。
圭は太い腕を組んだ。
「ここ数年魚がほとんど取れない。こんなときに年寄り共が隣村と揉めた」
吐息が黒い海に溶ける。
「都から高い金で食料を買って何とか生きてる。一体どうすればいい……」
震えた声が潮の音で消えて、夜が海に沈んでいく。
「今日も海が凪いでる」
圭の瞳に映る水面が揺れて、波紋が私の心に伝う。
そして冷えた汗が首筋を流れる。
皆、海が怖いのだ。
黒い水面は内に牙を秘める。
恐れをなした人間は、身を守ろうと神にすがった。
神に祈りを届け海から村を守ることが、巫女の役目なのだ。
私がしっかりしなきゃ。
圭の瞳に映る水面をまっすぐに見つめる。
炎で割れた薪の音が、海に沈むような空気を弾く。
私は月が海を照らすように、黒く染まる村を照らしたい。
「村には、巫女がいる」
左手に握られた神楽鈴が、凛とした音を立てた。
「だから、村は大丈夫」
巫女装束が潮風を捉える。
「私が守る」
夜空に浮かぶ青月に誓う。
村を明るく照らす月のような立派な巫女になる。
亡き母上のように村を守る。
でも現実は代替わりしてから、深刻な不漁が続いている。
まるで月の出ない真っ暗な夜が続くように。
だから村の人は、私を朔月の巫女と呼ぶ。
何故か私には、巫女の力が受け継がれなかった。
その理由がわかるのは、もう少し先の話。
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