朱夏のエンドロール

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 空を赤々と()きながら日本海に沈みゆく太陽をぼんやりと眺めつつ、益体(やくたい)もないことを思う。二十年近く昔の中学生の頃は、自分はきっと世界が滅亡するのと同時に死ぬんだって、(せん)ない夢想をこねくり回していたものだ。あれって誰しも想像することなんだろうか。  ――夏の夕焼けは駄目だ。忘れていたはずの稚拙な感情を、否応なしに引きずり出されるから。  彼岸を過ぎた夕暮れの海風は時おり冷たさも混じるほどで、夏の盛りが過去のものだと教えてくれる。潮の匂いと言えば情緒的だけれど、風は海原の向こうから生臭さを運んでくる。  俺はこの匂いが嫌いだった。  背後では青春をとうに越えた連中が、取り落とした若かりし日のきらめきを取り戻そうと、炭火の網をわいわいと囲んでいた。もちろん、俺もその中のひとりだ。そちらから声がかかって、夕日に目をやりながら背中越しにゆるゆると手を掲げる。  地元の同期とは何年も連絡を取っていなかったのに、実家で長い夏休みを持て余して――と言うとまだ聞こえがいいが、ただ仕事がないだけだ――ごろごろしているとき、突然バーベキューのお誘いが来て、とんとん拍子に話が進み俺はここにいる。夏ってのは不思議な季節だ。熱気と湿気にあてられて、誰も彼もが今夏に意味を見出だし特別な思い出にしようと躍起になる。いずれ巡り来るひとつの四季でしかないもののために。  今日のイベントの参加者は五人だった。記憶の中におぼろげに(とど)められた少年時のバーベキューは楽しいものだったけれど、今となっては見る影もない。そもそも、俺にとって夏は劣等感の季節だった。夏を全力で楽しんでいる様子の周囲の人たちに、置いてきぼりにされている焦燥感が物心ついた頃から常につきまとっていたし、いざこういう賑やかなイベントに放り込まれると、自分の立ち位置や口にすべき言葉が分からず、所在なげに佇むことしかできない。だからこそ、サラリーマンをしていたり起業したりしている同級生の影に隠れるように、アングラなライター業なんて職にありついたのかもしれない。  砂をぎゅうぎゅう踏みしめながら、浜に置かれたコンロのもとへ戻ると、芳香を漂わせながら肉がじゅうじゅうと焼けており、きりりと搾ったレモンの清涼な香りも相まって胃の腑が刺激された。この時期になると海のレジャーに繰り出す人もほとんどいなくなるから、この近辺の浜辺は俺たちが独占していた。たいへんな贅沢ではある。  俺以外の四人は輪になって盛り上がっていたが、不意に発起人のTの携帯電話が鳴り、勤務先からだわ、ごめん、と謝りながら離れていく。俺は薄くTに笑いかけてから、積もる話に夢中になっている同級生の前で焦げる寸前の、肉や野菜を自分の皿へとレスキューする。香ばしいがどこか(むな)しい味のカルビを咀嚼しながら、楽しげに会話している他の三人の様子を窺う。  俺にはバーベキューが始まった当初から、気がかりなことがあった。昔から女子のリーダー格だったS。ひょうきんで他人を楽しませるのが得意だったM。さっき電話を耳に当てていた、みんなの兄貴分だったT。かつての大学の同期たち。  そして、大きな帽子をかぶり白いワンピースを着た黒髪のこの女。目の前の彼女を、俺は知らない。  砂浜でのバーベキューに真っ白なワンピースを着てくるなんて明らかに浮いているのに、俺以外の誰も気にするそぶりを見せず、旧知の仲のように笑みを交わしている。帽子を目深にかぶっているせいで顔の上半分が濃く陰り、目の表情はほぼ見えない。ただ、口元は心底楽しいと言うようにほころんでいる。  記憶を手繰るが、どうしても思い当たらない。そのうちSがトイレに行ってくるといって場の人数がまたも減る。俺は声が上ずらないように気をつけ、なおも会話を続ける二人に自分の存在を主張して、輪に入れてもらった。  日没から時が経ち、徐々にあたりが薄暗くなってくる。まるで海の向こうから夜がやってくるみたいに、海が昼の名残(なごり)を吸い取っていくみたいに、急速に明るさが奪われていった。食材はたっぷり残っていて、おそらくこれを食べきらないうちはお開きにはならない。それを、心のどこかでうんざりしている自分にがっかりした。  それにしても、TもSもなかなか戻ってこない。自分の携帯は車の中だし、腕時計も普段からつけていないので定かではないが、二人が席を外して一時間は経っているのではないか。二人とも遅くないか、と疑問を口にするが、Mはそうかなあ?、とあっけらかんとして取り合わない。やがてMも、夜になったしせっかくだから花火を買ってくる、と言い残して闇のあちら側に消えていった。  白いワンピースの女は、もう辺り一面夜暗(やあん)に包まれているというのに帽子を脱がない。俺はわずかな緊張感を覚えながら、黙々と炭の面倒を見つつ、焼き目がついた牛肉や豚肉や玉ねぎやピーマンやきのこを胃に収めていった。  目の前の彼女は、会話がなくなっても相変わらず微笑してバーベキューを楽しんでいるようだった。爪が桜色に塗られたたおやかな指がトングを握り、適切なタイミングで食材を裏返していく。漆黒の長いストレートヘアは夜と同化している。炭火の朱色の火に、頬が照り映えていた。  彼女は誰なのだろう。直接尋ねるという選択肢は俺の中にはなかった。今日ここに集合してからずっと考えているのに答えにはたどり着かない。  小さい時分(じぶん)のお盆に祖母の家で一度だけ遊んだ遠縁の女の子や、中学二年で初めて同じクラスになったものの夏にすぐ引っ越していった同級生の女子や、高校生の夏休みに家族で遠出して立ち寄った水族館で水母(くらげ)の水槽をじっと見つめていた同世代の女の子に似ている気がするのだが、もちろん彼女らがここにいるわけもないし、TやSやMと知り合いのはずがない。あの時俺の人生とすれ違った彼女らはどんな顔をしていたっけ。記憶の中の彼女たちが、黒髪に帽子をかぶり白いワンピースを着た姿に塗り潰されていく。  二人きりになって、どれくらい経ったのだろう。誰も帰ってこない。電話を受けにいったTも、トイレに行くといったSも、花火を買いに行くといったMも、誰も。  街の明かりは遠く、炭の灯火(ともしび)のほかに、闇夜に沈んだ浜辺を照らすものはない。浜風が女のワンピースを揺らめかせるのが、水中をたゆたう水母のように見えた。俺は真っ暗な映画館の客席で、黒いスクリーンを上から下へなめらかに流れていくスタッフロールを、寄る辺なく眺めているところを連想した。  ふと、闇の向こうは俺が知っている世界とは何もかも違ってしまっているのではないか、という飛躍した想像にとらわれる。  ビーチサンダルの裏から伝い登ってくる恐怖感に、今は知らないふりをしよう。この火が消えるのと、夜が明けるのとではどちらが先だろう、とそこまで考えてから、俺は自らの考えを否定する。きっと火の粉を散らす炭が燃え尽きることなどないし、みずみずしい野菜や油の乗った肉を食べ尽くすこともないし、それに太陽が濃紺の空を白々と(あか)らめる朝などきっと来ない。それは確信に近いものだった。  女のほっそりした肢体を見る。俺たちはふたりで、永久(とわ)に続く晩夏の夜、そのべったりと(よど)んだ黒い底にいるのだ。真っ黒い油絵の具を何重にも塗りたくったかのような、質量を持った闇がいちだんと重みを増し、こちらに迫ってくるように思われた。  彼女はずっと、(うるわ)しくほほえんでいる。  この永遠が終わる頃には、彼女の名前を思い出せたらいいな。俺は本当に真剣に、そう思っている。
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