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4  島には一日半で着くことができた。黄島と呼ばれる小さな島だったが、無線を使って赤島と何回かやり取りがあり、蜂たちを道案内するために、アメンボ丸は黄島と巣箱の間の中間地点で待機することになった。食料と燃料を積み、私たちは黄島を離れた。  中間地点というのは二つの航路が交わる場所のことで、灯台が作られていた。だがこれも風の頂に浮いているものだから、浮き灯台と呼ぶべきかもしれない。四角い船のような形をして、上部には大きな塔があり、これが明るく光っているのだ。時計仕掛けだが、鏡とレンズを巧みに使って月や太陽の動きを追いかけ、その光を反射して輝くように作られている。管理する人間が滞在しているわけではなく、常に無人だった。  私たちはゆっくりとアメンボ丸のスピードを落としていき、最後にはブレーキをかけて停船させ、綱を使って船を灯台に結びつけた。  興味を感じたので、私は灯台に上陸してみようと思った。コツムジを肩に乗せ、ぴょんと飛び移った。コイルはエンジンの整備でも始めるのか、工具を持って機関室へ降りていくそぶりを見せた。私たちが上陸しようとしていることにはもちろん気がついていたが、何も言わなかった。  灯台船はそこそこの大きさがあり、甲板の広さは小学校の校庭と同じぐらいだったかもしれない。だがコツムジを連れてそこを横切ろうとしたとき、突然物陰から人が現れたので、私はとても驚いた。 「そんなに悲鳴を上げることはなかろう?」その男は私を見て、にやりと笑った。「オレの顔を忘れたかい?」  ワームだった。私は、ワームが奇妙なものを手にしていることに気がついた。黒い色をした太く長いゴムホースなのだ。給油所で自動車にガソリンを入れるときに使うようなもので、長さは何メートルもあり、両手でかかえているが、ホースの反対の端は物陰に消えているので、どこへつながっているのかはわからない。 「こんなところで何をしてるの? それは何をするホースなの?」と私は言った。 「これはこう使うのさ」ワームはにやりと笑い、ホースの口の近くにあるスイッチをパチンとひねった。そうしながらホースの先を突き出し、私の肩の近くに寄せた。そこにはコツムジがいる。  シュッと音がして、まるで掃除機に吸い込まれるようにして、コツムジの姿は消えてしまった。ものすごい勢いでホースの中へ吸い込まれてしまったのだ。 「何をするの!」  ニヤニヤ笑いながら、ワームはスイッチを戻した。どこか遠くのほうで、ポンプのような機械が停止する音が聞こえた。 「何をするのよ」 「おやおやアリシア。コツムジがどうなったのか、ちょっと見に行ってみようぜ」 「何をしたの?」 「まあ来てみなよ」  目配せをして、ワームは歩き始めた。腹が立って頭が熱くなっていたが、私はついていった。ホースをたどって歩いていくと、曲がり角を曲がったところで別の船の姿が見えてきた。アメンボ丸からは見ることができない灯台の反対側にあたるのだが、見覚えのあるワームの黒い船だった。綱でつながれて、ゆっくりと揺れている。ホースはその船体につながっていた。 「こんなところで何をしてるの? コイルを呼んでくるわ」 「その前にコツムジがどうなったのか知りたくはないかね?」 「どこにいるの?」 「この中さ」ワームは足で船体をがんがんとけった。「空気を圧縮してためておくタンクがあってな、その中に吸い込まれている。出してやる方法は一つしかない」 「どうするの?」 「おまえは、今すぐオレと一緒に来るんだ」 「どこへ?」 「オオガラスさ。おまえはあのキーを見つけたのだろう?」 「これ?」首にかけてあるヒモを引き、私は持ち上げて見せた。「こんなものはあんたにあげるわ。だからコツムジは返して」  ワームはゆっくりと首を左右に振った。 「そうはいかないんだな。そのキーは、最初にぬくもりを与えた者の手でないとドアを開くことができない。オレがもらっても意味がないのさ」 「どうして?」 「そのキーは、持ち主の身体のぬくもりを記憶するんだ。一度体温で温められると、その温めた本人を主人と考える。もはやキーは、その主人の言うことしか聞かないのさ」 「それが私だというの?」 「そのとおり。何世紀もの間、そのキーはアリジゴクの身体に引っかかっていた。だがアリジゴクは体温を持たない。だからキーの主人にはなれなかった。その後、何百年ぶりかでおまえが手を触れた。キーは今や、おまえを自分の主人と考えているに違いない」 「私の前にもこのキーに手を触れた人がいたはずよ」 「いただろうな。だが何世紀も前のことだ。そのキーもいくらなんでも冷え切り、前の主人のことなど忘れてしまっているさ。そのキーはおまえのものさ」 「それで?」 「何でもいい。一緒に来るんだ」  ワームは私の腕をつかみ、船内へ乱暴に引っ張り込んだ。小柄なのにとても強い力だった。勢いあまって、私は船内の壁に身体をぶつけ、痛みで動けなくなり、くやしくて涙が出てきた目で、ワームがドアを閉め、綱をほどき、操縦室のアクセルをいっぱいに倒すのを見ていることしかできなかった。  船は、軽々と灯台を離れていった。私は窓に駆け寄り、灯台が小さくなっていくのを眺めているしかなかった。反対側にいるので、アメンボ丸の姿を見ることはできなかった。 「泣いているのかい?」  少ししてワームの声が聞こえた。私はじろりと振り返った。 「泣いてなんかいないわ」 「そうかい」ワームは肩をそびやかした。「じゃあ鼻水ぐらいふいたらどうだい?」  気がついて、私はあわててハンカチを引っ張り出した。 「ねえ、コツムジを出してやってよ」私は操縦室へ歩いていき、ワームの隣に立った。 「今はまだだめだ」操縦を続けながら、ワームは言った。 「どうして?」 「変なやつに船内をチョロチョロされたくないんでな。だが心配することはない。空気タンクの中は快適だ。つむじ風だって、元はただの空気だからな。お仲間の空気さんたちと楽しくやってるよ」 「ふん」  私はできるだけ大きな音を立てて鼻を鳴らしたが、ワームは気にもしないようだった。 「いい船だろ。気に入ったか?」 「なんていう名前なの?」 「クロトカゲ号さ。色が真っ黒だからな」 「真夜中にこそこそ密輸をする船にはふさわしいわ」 「オレは風の底に生まれなくて、本当によかったと思うよ」 「どうして?」 「風の底の娘っ子は、みんなおまえみたいに気が強いのだろう? とてもかなわんよ」 「あっ」  あることに気がついて、私は突然声を上げてしまった。かがんで足元を見た。クロトカゲ号はアメンボ丸などとは違って、船内はまったく整理整頓などされていなかった。海図や食料、予備のパーツなどがごたごたそのまま積み上げてあるのだ。そういう雑多なものの下に、あるものが顔を出していることに気がついたのだ。  手を伸ばして、私は拾い上げた。ワームは横目で見、しまったという顔をした。  私の指先からは、酒ビンが一つぶら下がっていた。空っぽのビンだが、貼り付けてあるラベルに見覚えがあった。 「これは私が住んでいる町で作っているビールだわ」私はワームをにらんだ。 「えへへ」ワームは照れたように笑った。 「あんたは風の底からお酒を密輸しているのね」  ワームはビンをひったくった。テーブルの上の海図を持ち上げ、その下に隠した。 「あんまり大きな声で言うもんじゃないんぜ」 「どうして?」 「ああ、地上の住人たちが作る酒が飛びっきりうまいということはオレも認めるよ。気圧の関係なのか、風の頂ではいいビールができないんだ。でも誰だってうまい酒が飲みたいだろう? だからオレみたいな商人が必要になるというわけさ」 「風の頂と地上とを往復して、ビールを密輸しているの?」 「『輸送』してるんだ」 「密輸よ。じゃあこの船は地上に下りることができるのね。だからこんなおかしな形をしてるんだわ。なんだか潜水艦に似ていると思ったもの」  とうとうワームも認めた。「大型の空気圧縮機を積んでいてな、空気を圧縮してタンクにつめ、船体を重くすることができるんだ。そうやって地上へ向けて潜行するのさ」  ワームのそばを離れ、私はもう一度窓越しに後ろを振り返った。小さくなった灯台が、ちょうど見えなくなるところだった。 「まさか、ここで料理をしろなんて言うんじゃないでしょうね」キッチンを一目見て、私は大きな声を出した。 「そうかい?」ワームは平気な顔を装っていたが、少しびくびくしているようにも見えた。 「まずゴミの下から調理器具を発掘しなくちゃならないじゃないの」  肩をそびやかし、それ以上は何も言わずにワームはキッチンを出ていった。私は身体を動かし始めた。何か食べたければ、そうするしかなかった。  二日後、クロトカゲ号の前方にとうとうオオガラスが見えてきた。 「オオガラスの場所を、どうしてあんたが知ってるの?」操縦室で並んで眺めながら、私は口を開いた。 「コイルが教えたのさ。オレたちはずっと昔から仲間なんだ。宝探し仲間ってやつさ」 「そうは見えないわ」 「そうかい?」 「あんたたち二人は、今は仲たがいしているの?」 「どうしてそう思う?」ワームは不思議そうな顔をした。 「あんたはコイルを出し抜いて、このキーで何かのドアを開けようとしているのでしょう?」 「コイルはいいやつだが、学者肌で慎重すぎるところがある。あのドアを開けてもよいものかどうか、いろいろ調べてからにすべきだと言いやがる。だがオレはそうは思わん。あれは宝物庫の入口に違いない。だとすれば、一日も早く拝みたいじゃないか」 「コイルは、そのドアは宝物庫ではないと思っているのね」 「ドアの向こうに何かしら恐ろしいものが隠されているような気がするんだとさ。決して開けてはならないドアかもしれないとさ」  ヒモを引いて、私は洋服の下から引っ張り出した。「でも、このキーがそのドアのものだとなぜわかるの?」 「その形さ」ワームは指さした。「そのキーのイモムシに似た形は、ドアの中央に描かれている紋章とまったく同じだからさ」 「紋章?」 「金属でできた巨大なドアでな、そこに彫りこまれているのさ」  クロトカゲ号はゆっくりとオオガラスに近づいていった。オオガラスは以前とまったく変わらない様子で、風の頂に浮かんでいた。長さが何百メートルもある巨大なものだ。こんなに大きなものが、どうして今まで地上の人々の目に触れなかったのだろうと不思議な気がした。古代から何千人もの天文学者たちが、一日も欠かさずに星空を観察してきたというのに。 「ねえ、そろそろコツムジを出してやってよ」私はワームを振り返った。 「おお、そうだったな」操縦室を離れて、ワームは歩き始めた。隣の部屋へ行き、壁にいくつも並んでいるコックの一つに手を伸ばし、さっとレバーを倒した。びっくりするほど大きなバシッという音を立てて、下向きに開いた蛇口のようなところから蒸気のようなものが噴き出してきた。見たことがないほど激しい勢いだったのだが、咳き込むように一瞬止まり、続いて何か大きなものをペッと吐き出した。吐き出されたものは床にぶつかり、ゴムボールのようにぽんと強く跳ねた。部屋の中をくるくると飛び回り、大きな声を出した。 「何するんだよ、このバカ」  だがすぐにコツムジは私に気がついたようだった。ポケットの中に飛び込んできて、じっと動かなくなった。まだおびえたように震えているので、そっと手を入れてなでてやった。 「さあてと」とぼけた声でワームは言い、操縦室へ戻って操縦を続けた。クロトカゲ号はオオガラスに近づいていき、ワームはブレーキに手を伸ばした。  協力してやる気などなかったので、私は何一つ手伝ってやらなかった。肩をそびやかし、綱を結ぶために、ワームは一人で甲板へ出ていった。  船はとうとうオオガラスに着いてしまった訳だが、少しでも時間を稼ぐために、私はできるだけのろのろと身体を動かした。それはお見通しだったろうが、ワームは何も言わなかった。私たちはオオガラスの中に入り、廊下を歩き始めた。  私たちは廊下を進んでいった。道はわかっているのか、ワームは迷うことなくさっさと歩いていった。いかにもびくびくした様子で、コツムジはポケットから目だけを出している。かなり遠くまで行く必要があった。道がくねくね曲がっていることもあって、何分もかかってしまっただろう。だがとうとう大きなドアの前で立ち止まった。目の前をふさぐように立っているドアで、中央に小さな鍵穴があり、その隣に描かれている紋章は、確かにこのキーとよく似ている気がする。 「さあ、開けてくれ」  ため息をつき、私はキーを取り出した。首から抜いて鍵穴に差し込んだ。何世紀も手を触れられていないはずなのに、滑らかにすっと入っていった。力を込めて回そうとするとき、ワームがゴクンとつばを飲み込む音が聞こえた。コツムジはじっと黙りこくっている。  カチッと音がして、ドアは簡単に開くことができた。私を押しのけ、ワームが前に出た。  ドアは大きかったが、その向こうにある部屋は意外なほど小さかった。私の家の子供部屋とあまり変わらないほどだろう。小さなベッドとタンスを一つずつ置けば、それだけでいっぱいになってしまいそうな広さでしかない。だがこの部屋には家具らしいものは何もなく、ただ中央に小さなテーブルがあるだけだった。そしてその上には何も乗っていないように見えた。透き通ったガラスのカケラのような小石一つをのぞいては。  当てが外れたような顔をして、ワームは部屋の中を見回した。私も同じような表情をしていたことだろう。部屋の中を一巡りした視線は、中央にある小さなテーブルに戻っていくしかなかった。 「まさか、これだけなのではあるまいな」ワームが言った。 「あの小石は何かしら?」 「割れたガラスのカケラではないか?」  私たちは近寄り、顔を近づけて眺めた。ガラスのカケラといわれれば、そんな気がした。手を伸ばし、人差し指の先でワームはそっと触れようとした。 「危ないものかもしれないわ」と言おうとしたが、もう遅かった。そのときにはワームの指先が触れ、カケラのようなものは数センチころりと動かされていた。カラカラと軽い音が聞こえる。 「何も起きないぞ」ワームはもう一度カケラに触れようとした。  そのあと起こったことを正確に思い出すのは、少し難しい。小石に注意を奪われてよく見ていなかったということもあるが、それまでに見たこともないようなものでもあったのだ。部屋の中の空気が、予告も何もなく突然に、ガラスのように透き通った固体に変わってしまったのだ。ワームは私よりも一歩前にいた。とっさに気づいて、コツムジが私を後ろに引き戻してもくれた。だから私は助かったのだ。でなければ、ワームと同じように私も巻き込まれてしまっていただろう。 「アリシア、逃げるんだ」私の手を強く引いて、コツムジが走り始めた。 「でも…」  私は振り返った。部屋の中は、まるで一瞬で氷付けにでもされたかのように固い透明な物質で満たされていたのだ。ワームの身体はその中に閉じ込められている。テーブルに向けて手を伸ばした姿勢のまま固まってしまっているのだ。ピクリとも動かない。まるで水槽ごと冷凍庫の中に入れられてカチンコチンにされてしまった熱帯魚のように。  だが、立ち止まっていられないのは事実だった。その透明な物質が、じわじわと廊下にまではみ出す気配を見せていたのだ。こちらへ向けて迫ってくるのだ。私たちは駆け出すしかなかった。  コツムジは急いで前を行った。引きずられて転ばないために、私は精一杯足を動かさなくてはならなかった。走りながら何度も振り返った。そのたびに透明な物質は大きくなっていき、廊下を覆い始めていた。あまりにも透明度が高いので、ワームの姿もまだはっきりと見ることができる。 「こっちだよ」  コツムジは私の手を引き続けた。最初の交差点にたどり着いた。曲がりながら振り返ると、物質はもう何メートルか後ろまで迫っていた。とんでもない勢いだ。止まるどころか、動きが鈍くなる気配もない。 「あれは何なの?」息を切らせながら、私は言った。 「知らないよ。でも安全なものじゃなさそうだ」 「ワームはどうなったの?」 「もう死んでると思うよ。あんな中に閉じ込められたんじゃあ息ができない」 「あれは何なの?」 「本当に知らないよ」  ドタドタいう複数の足音が聞こえてきたのは、そのときだった。聞こえてくる方向を確かめ、コツムジはそちらへ進路を変えたようだった。だからその次の曲がり角を曲がったところで、勢いよく飛び出してきたコイルと、私はもう少しで衝突してしまうところだった。  お互いにひどく驚いた。コイルは目を丸くし、うれしそうに私を抱きかかえた。 「アリシア、大丈夫だったか?」  すぐにうなずいたが、コイルが一人ではないことにはすでに気がついていた。コイルの後ろにいる人物はやたら背が高く、白いヒゲを生やしているのだ。 「大叔父さん!」 「アリシア」今度は大叔父が私を抱きしめる番だった。私を抱き上げ、ごわごわしたヒゲを首筋に押し付けてきた。 「ワームはどこへ行った?」コイルが言った。大叔父が私を床の上に降ろした。 「死んだよ」コツムジが答えた。「あれではまず生きてはいない」 「あのドアを開けてしまったのか?」コイルが顔色を変えた。 「そうだよ」 「こうしてはおれん」コイルは大きな身振りで合図をした。「すぐにアメンボ丸へ戻ろう」 「どうして?」手を引かれて駆け出しながら、私は言った。コイルは先頭を行き、ときどき振り返っては、急げ急げと身振りを繰り返した。 「事情は船に乗ってから話す。今はとにかく走るんだ」 5  アメンボ丸に飛び乗り、コイルはすぐにエンジンをかけて船を動かし始めたが、オオガラスの上で起こったことを説明し終えたとき、大叔父が突然理科の授業のような話を始めたので、私は戸惑ってしまった。 「何の話をしてるの? 結晶化って何のこと?」私は言った。 「おまえも氷砂糖みたいにきれいな食塩の結晶を見たことがあるだろう?」 「四角くてガラスみたいに透き通ったやつ? 触ると少しべとべとする」 「ああ、あれさ。あれは水に溶けていた食塩が結晶になって姿を現したものなんだ」 「そうなることを結晶化というのね」 「そうだ。だが食塩はともかく、たいがいの物質では結晶化などそうそう起こることじゃない。結晶化を起こすためには、結晶の種を使う必要があるのさ」 「種って?」 「濃い食塩水の中に、ごく小さなものでいいから食塩の結晶を一つぽんと入れるんだ。するとそれが引き金になって、食塩水中でどんどん結晶化が進み、結晶の種は見る見る大きく成長していくのさ」 「だけど、それとさっきの出来事とどう関係があるの?」  コイルが隣から割り込んだ。「アリシア、あのテーブルの上にあったのが空気の結晶の種なんだ」 「空気? 空気も結晶化するの?」 「化学的にありえない話ではない。しかし、実際に起こることはまずないだろうと言われていた。結晶の種が存在しないからな」 「さっきのがその種なのね」 「以前、葦の島のある化学者が偶然作り出すことに成功したのだ。だが悲劇が起こった」 「どんな?」 「その化学者の目の前で空気の結晶化が始まり、屋敷ごと研究室を飲み込んでしまったんだ。さっきおまえが見たのと同じようにしてな。空気の結晶はその後もどんどん成長し、最後にはその化学者が住んでいた島をすべて覆いつくしてしまった。島人のほとんどが死んだそうだよ。その後どういう方法でか結晶化を解くことに成功し、事件は終わった。物騒な結晶は分解され、もとの空気に戻された。後年の研究者のために、ほんのひとかけらだけが残され、厳重に保管されることになった」 「それがさっきのあれなのね」 「そのとおり」コイルはうなずいた。 「じゃあまたそのときと同じ方法を使って、結晶を元の空気に戻せばいいわ」 「そうはいかんのだ」コイルは首を激しく左右に振った。「事件が起こったのは何世紀も前のことだ。結晶化した空気を元に戻す方法など、もう誰も知らんのだよ。結晶化の進行を止める方法すらわからん」  やっと私にも、事の重大さが飲み込めてきた。すでにアメンボ丸は、オオガラスから一キロばかり離れたところにいた。それでも巨大な船だから、小さな窓から見ると視野の半分以上を占めている。見たところ、まだ外見には何の変化もない。だがあの内部では、今この瞬間も空気の結晶が猛烈な勢いで成長を続けているのだろう。 「このままだとどうなるの?」私は大叔父とコイルを振り返った。二人は顔を見合わせた。コイルが口を開いた。 「結晶は成長を続け、やがて船体を破って外に飛び出すだろう。外部の空気と接触するわけだ。すぐに反応して、外部の空気も結晶化しはじめるだろうな」 「それも大きく広がっていくの?」 「いずれは地球全体を覆ってしまうだろう。そして地球上には、吸うことのできる空気は一口もなくなってしまうだろうな」 「地上の人々もみんな死んじゃうの?」 「その前に」大叔父が言った。「結晶の重みで重量の増したオオガラスは地上へ墜落してしまうのではないか?」 「それはありえるね」コイルはうなずいた。「風の頂の住人としては、『墜落』ではなく『沈没』という言葉を使いたいものだがね」 「なるほど」 「墜落したらオオガラスはどうなるの?」私は言った。 「どうもしないさ。そのまま落ちていってバラバラになるが、結晶が空気に触れることに変わりはない」 「ちょっと待ってくれ」大叔父の表情が変わった。「墜落するということは、地上へ向かって空気中を高速で落下していくということだ。猛烈な速度で空気とこすれ合って、その摩擦で真っ赤に燃えてしまうはずだ」 「それで?」不審そうな顔で、コイルは眉を上げた。 「結晶といっても単なる物質に過ぎない。ただの窒素と酸素だ。どんな結晶構造をとっているとしても、超高温で熱せられればバラバラになり、元の気体に戻ってしまうのではないか?」  私は少しの間考えた。ダイヤモンドとは炭素が結晶化したものだと聞いたことがある。ある宝石店で大きな火事があり、陳列してあったダイヤモンドがすべて燃え尽きてしまったという話を聞いたこともあった。高熱を受けたダイヤモンドは結晶構造が崩れ、ただの二酸化炭素に変わってしまったのだ。それと同じことだ。 「しかし問題は、空気との摩擦熱によって結晶が本当に分解してくれるのかどうかだな」 「そんなことを議論してても仕方がないよ」コツムジが口をはさんだ。私の頭の上に乗り、大きな声を出した。「うまくいくかどうかは別にして、とにかくやってみようよ。このままだと、風の頂も地上もみんな滅びてしまうんだよ」 「そうだな」コイルも同意した。「空気との摩擦で十分な温度が得られるかどうかは、やってみればわかるということか。うまくいけば世界を救うことができる。たとえ失敗しても、失うものはない」 「よし、オオガラスを墜落させよう」 「だけど、どこで墜落させるかが重要だよ」コツムジが言った。 「なぜだ?」 「オオガラスができるだけ速い速度で墜落するようにしようよ。そうやって、少しでも高い温度で燃え上がらせるんだ」 「どうするんだい?」 「僕に考えがあるよ」  急いで相談を済ませ、私たちは行動を始めた。エンジンを全開にし、コイルと大叔父はアメンボ丸を海軍司令部へ向けて走らせ始めた。葦の島の海軍の協力を得て、オオガラスを曳航し、最も都合のよい場所まで移動させようというのだ。 「海軍には知り合いがいないわけではない。時間の余裕はないが、とにかくやってみよう」とコイルは言った。  私とコツムジはアメンボ丸を降りた。私たちは灯台へ向かい、そこで待機しているはずの蜂たちと合流することになったのだ。事情を話せば女王蜂も協力してくれるかもしれなかった。私はアメンボ丸の船べりを乗り越え、空にぽつんと浮かんでいるコツムジに恐る恐る乗り移った。丸まっているときのコツムジはとても小さいのだが、空気を思いっきり吸い込んでまっすぐに伸びると野球のバットぐらいの大きさになる。私はその上にちょんと腰かけたのだ。体重を乗せるとわずかに沈みかけたが、すぐに安定した。クスクスと笑い声が聞こえてきた。 「アリシアのおしりって意外に重いね」 「バカ」  私がぽんとたたくと、コツムジは走り始めた。アメンボ丸を離れ、何もない空の上へ乗り出していったのだ。アメンボ丸はすぐに遠く小さくなってしまったが、私は身体を固くして、コツムジにしがみつかないではいられなかった。ひざがガクガクと震えていることに気がついた。床も何もないまま、地球の上空何キロかの場所に浮かんでいたのだ。足の下には本当に何もない。白い雲とボールのように丸い大地が、太陽の光を受けて、輝きながら広がっているのだ。だがコツムジは平気な顔で一直線に進んでいる。私も、あまり怖そうな顔は見せないことにした。 「オオガラスをどこへ引っ張っていこうというの?」私は言った。 「北極の滝だよ」 「滝?」 「暖かい赤道付近で温められた空気は、軽くなって風の頂まで上昇してくる。そして冷やされて、北極と南極からまた地上へ落ちていくんだよ」 「へえ」 「北極では、その落ちていく空気が巨大な滝を作っている。空気は激しい流れになって、地上まで一気に流れ下っているんだ。地上には、あの百分の一の規模の滝もありはしないよ」 「知らなかったわ。オオガラスをそこへ引っ張っていくのね」 「滝から落下させて、少しでもスピードがつくようにするんだ。そして地上の空気にぶつけて、一気に燃え上がらせる」 「うまくいくと思う?」 「わからない。でもやってみるしかない」  私とコツムジは飛び続けた。灯台が見えてきたのは、一時間ほどたったころだった。コツムジは、船などよりもはるかに速く飛ぶことができるのだろう。 「見えてきたよ」コツムジが言った。  顔を上げるとそのとおりだった。見覚えのある形で、今も塔の上部が明るく輝いている。だが近づいていくにつれて、様子が少しおかしいことに気がついた。明るい灰色に塗られていたはずの灯台が、なぜか黄色っぽく見えるのだ。だがすぐに理由に気がついた。何百匹もの蜂がとまり、表面を覆い尽くしているせいだったのだ。  蜂たちはびっしりとしがみつき、羽根を休めている。私たちに気づき、十匹ほどがさっと飛び立ち、いかにも警戒した様子で近寄ってきたが、私が誰なのかすぐにわかったようだった。一匹が進み出て、私たちの道案内を買って出てくれた。  コツムジはスピードを落とし、その蜂の後ろをついていき始めた。ゆっくりと灯台に近づき、塔の根元に着陸した。そこはちょうど日影になっていて、女王蜂が身体を休めていた。ひどく暑いので、働き蜂たちが羽根を動かし、やわらかく風を送って冷やしてやっている。私はコツムジから降り、女王蜂の前へ歩いていった。昼寝をしていたのか、女王蜂は目を覚ましたばかりのようだった。私を見下ろし、口を開いた。 「おまえの大叔父はすでに解放されたはずだ。巣箱に案内してもらおうか?」  私は事情を説明し始めた。はじめは不審そうな顔をしていたが、女王蜂の表情はゆっくりと変わっていった。 「それは本当のことか?」 「ええ」 「なんとまあ」女王蜂は小さな声でつぶやいた。「私が女王であるときに限って、大きな出来事が立て続けに起こるとはな」 「のんびりしている暇はないのよ」  女王蜂はちらりと横目で私を見た。いらいらして足踏みをはじめたい気分だったが、じっと我慢した。女王蜂はゆっくりと身体を起こした。口を開いたわけでもないのに、働き蜂たちも一斉に身体を起こした。蜂たちは羽根を動かし始めた。甲板のへり近くにいた者から、蜂たちはさっと飛び立っていった。ブンブンいう巨大な羽音が、空気だけでなく、私の身体まで震わせた。甲板はすぐに空っぽになり、最後に女王蜂が飛び立って、灯台は無人になった。コツムジがさっと触れたので、私は再び腰かけた。女王蜂はそれを上から眺め下ろしていた。空中に浮かび、私が隣に並ぶと、女王蜂は号令をかけた。 「行くぞ。オオガラスへ向かう」  あのサイズの蜂が何百匹も集まって飛ぶ様子は、どんな映画で見た編隊飛行よりも迫力があった。守られるように四方を囲まれ、私とコツムジは飛び続けた。  やがて遠くに、オオガラスが小さくぽつんと見えてきた。だが近づいていくにつれて、想像以上のペースでどんどん大きくなってくる。それぐらい巨大な物体なのだ。海軍はまだ到着してはおらず、まわりはがらんとしていた。 「あれがオオガラスか?」女王蜂が口を開いた。 「ええ」 「はじめて見るが、巨大なものだな」 「あなたでも知らないことがあるのね」 「あるさ。私は卵を生むこと以外は何も知らぬ」  スピードを落とし、私たちはゆっくりと近寄っていった。私とコツムジだけが前に出て、オオガラスのまわりを一巡りして偵察したが、何も変化は見られなかった。内部では結晶が成長を続けているのだろうが、まだ外には現れていないのだろう。 「海軍とやらはまだ来ないのか?」私たちが戻ってくると、女王蜂は言った。 「気配もないね」コツムジも見回している。 「私たちだけでも先に始めましょう」私は言った。白っぽい銀色に光るオオガラスの外壁を眺めているだけで、その内側で結晶化が進行している様を想像することができて、いても立ってもいられない気分だった。  口ではなにも言わなかったが、女王蜂がちらりと見回すだけで、働き蜂はいっせいに行動を始めた。羽根を動かして飛んでいき、それぞれがオオガラスの外壁に取り付いたのだ。壁が黄色に変わった。そして全力で羽根を動かし、オオガラスを押し始めたのだ。最後に女王蜂がゆっくりと近づき、その中に加わった。羽音が一段と大きくなった。私とコツムジは、少し離れたところから見ていた。 「オオガラスは動くと思う?」私は言った。 「もう動き始めてはいるよ」コツムジは答えた。「ごくわずかだけど、それは感じる」 「間に合うかしら?」 「それはちょっと絶望的な気分になってきた」  私を乗せたまま突然身体をひるがえらせ、コツムジは別の方向へ向けて飛び始めた。びっくりして私はしがみついたが、コツムジはかまわず加速を続けている。オオガラスはすぐに遠く小さくなり、振り向いても小さな銀色の点でしかなくなってしまった。あまりスピードを出しているので強い風が当たり、私は片手でエリを押さえていなくてはならなかった。息を詰め、じっと前方を見つめていた。 「見えてきた」コツムジが叫んだ。  私の目には、最初は小さなゴマ粒のようにしか見えなかった。百あまりの黒い小さな点々だ。だがコツムジがスピードを落として近寄っていくうちに、形がはっきりと見えてきた。葦の島の戦艦たちだった。  その中の一隻だが、もちろんオオガラスは別だが、これほど大きな船を私は見たことがなかった。地上のどんな船と比べても倍はあっただろう。風の頂の性質に合わせて、へさきはひどく変わった形をしていたが、船であることに変わりはない。船尾では、地上の風車小屋と同じぐらいあるスクリューがブンブン回っている。へさきに立って、コイルと大叔父がこちらを見ていることに気がついた。気がついて、大叔父が手を振ってきた。私とコツムジはそこに着陸した。 「どうだった?」すぐにコイルが口を開いた。 「蜂たちは協力してくれたわ。もうオオガラスを押し始めているわ」 「間に合うのかな?」大叔父が言った。 「これで全速力だよ」  聞き覚えのない声がしたので振り返ると、緑色の服を着た男がいた。鋭い目つきをして、眉の先もナイフのようにとがっている。ボタンが金色にピカピカ光っているのが、いかにもえらそうな感じだ。コイルが紹介してくれた。 「アリシア、これがこの戦艦の艦長だ」  私たちはあわただしく握手をした。コツムジがくるくると丸く小さくなって、私の肩に乗った。 「艦長、コイルと二人で計算してみたのだが」大叔父がポケットから紙を取り出して広げた。「オオガラスの内部で結晶が成長しきるのには、あと十二時間ほどしかかからないだろう。もちろん概算だがね。それまで船体がもってくれれば、何とかなるかもしれん」 「十二時間で北極まで到達できると思うか?」艦長が言った。 「それも計算してみた。ぎりぎりというところだな」 「進路を少し東寄りにして」コツムジが口をはさんだ。「気流に乗ればもう少し早く着くと思うよ」 「そんな気流があるのか?」男たちはコツムジを振り返った。 「あるよ。荒れた気流だから、ちょっと船が揺れるかもしれないけれど」 「贅沢は言っておれん」艦長が言った。「進路を計算しよう。コツムジ、詳しい位置を教えてくれ」  二時間後にはすべての用意が済んでいた。艦隊はオオガラスを取り囲み、ありったけの綱や鉄のワイヤーを伸ばして、船体を結びつけたのだ。あの巨大な戦艦はトラバサミ号というのだが、船尾にワイヤーを取り付けて、先頭に立ってオオガラスを引くことになった。  艦長が合図をして、汽笛を鳴らした。ボーッという大きな音が風の頂に三回響いた。艦隊の船たちに、エンジンと全開にせよと伝える合図だった。煙突から真っ黒な煙をもくもくと噴き出して、船たちは全力でスクリューを回転させ始めた。蜂たちはもちろんオオガラスを押し続けていた。そこへ艦隊が加わったのだ。ぐっとスピードが上がったような気がした。綱やワイヤーがピンと伸び、低い音を立てて船体がきしみ始めた。  とても長い旅だった。私はトラバサミ号の甲板で休んでいたが、時々はコツムジに乗ってオオガラスのまわりを一回りした。いつ船体が破れて結晶が顔を出すかと気になって仕方がなかったのだ。だが船体にヒビが入る気配も、一箇所が異常に膨らんでいるということもなかった。胸をなでおろして、毎回私はトラバサミ号に戻ってきた。  北極が近づいてくるにつれて、艦長たちの表情が険しくなっていくことは感じていた。コイルや大叔父と一緒に、部屋のすみで小声で話すようになり、ときどきはコツムジも呼ばれて加わった。確かに私も、船の揺れが大きくなり始めていることを感じないではいられなかった。トラバサミ号でさえそうなのだから、甲板へ出てみると、他の小さな船たちは明らかに気流にもまれ始めていた。小さい船であればあるほどそうで、タグボートの一隻などは、見ているのが気の毒なほど前後左右に揺れている。まるで小川を流れていく木の葉のようだ。たまたまそばに来ていた艦長も、私と同じ方向を見ていた。 「これ以上気流が悪くなると、小さい船は切り離して、島へ帰るように命じるしかなくなるだろう」 「そんなことをして、時間通りに北極に着くの?」  私の声はひどく不安そうに響いていたのだろう。艦長はにっこりした。 「着くさ。コツムジの話では、この先に待っているのは本当に速い流れだそうだから」  艦長が心配していたとおり、一時間後には小型船の切り離し作業が始まった。葦の島の船乗りたちはみな頑固なので、なかなか首を縦に振らなかったが、ある一隻が突然大きな音を立てて転覆し、あっという間に沈没してしまうのを目の当たりにしては、意地を張ってもいられなくなった。沈没した船の乗組員たちを助けあげ、オオガラスにぶら下がる形になっていた沈没船のワイヤーを切って地上へ落下させたあとで、小型船の切り離し作業が本格的に始まった。船べりから見ていたのだが、沈没船は水の中へ落とされた小石のように一瞬で見えなくなり、やがてはるかかなたでオレンジ色のまばゆい光を発して数秒間輝いて消えた。空気との摩擦で燃え尽きてしまったのだろう。  切り離し作業が進んでいる間も、気流の荒れ具合はひどくなり続けた。もうトラバサミ号であっても小舟のように左右に揺れているのが感じられるほどだった。私は何度か床に転んだ。そのたびに大叔父が助け起こしてくれたが、私はこりずに船べりに戻り、オオガラスの様子を眺め続けた。  すでにほとんどの船は切り離され、今ではほんの何隻かの大型艦だけが残っていた。切り離されて自由になった船たちは、名残惜しそうに何秒間か並走していたが、やがてかじを切って気流を離れていった。気流を離れると、あれほど揺れていた船体がウソのように静かになる。だが彼らは別の命令を受けていて、全速力で葦の島々へ向かい始めた。万が一オオガラスを滝からうまく落とすことができなかった場合に、島の住人たちを乗せて避難させるためだ。作戦が失敗すれば、どこへ逃げたところでいずれみんな死んでしまうのだが。 「女王蜂が呼んでるよ」  突然コツムジが声を上げたので、私は顔を上げた。見ると、働き蜂の一匹がすぐそばまで来ていて、大きな瞳で私を見つめていた。コツムジが身体を長く伸ばし、私はその上に腰かけた。大叔父が気づいて止めようとしたが、そのときにはもう船べりを乗り越え、私たちは気流の中に出ていた。頼りなくふらふらと飛ぶ蜂のあとをついていった。私はできるだけ身体を小さくし、コツムジの邪魔にならないようにした。だがコツムジは風を上手に読みながら、安定を保って飛び続けた。  オオガラスの船尾に回りこむと、蜂たちの黄色い姿が目に入った。まだ力いっぱい押し続けている。だが数は三分の一ほどになってしまっている。なぜだろうと思っていると、ある一匹が不意に羽根の動きを止め、眠るように動かなくなって、ポロリと離れて下へ落ちていくのが目に入った。私は一瞬で納得していた。蜂たちは全力でオオガラスを押し、力尽きた者はすべてああやって死んでいくのだ。コツムジはゆっくりと女王蜂に近寄っていった。女王蜂はすぐに気づき、私を見た。 「何の用なの?」私は言った。 「おまえは私のそばを離れるな」 「どうして?」私は女王蜂を見上げた。最初に出会ったときと同じように大きく、力に満ちた姿だ。羽根もまったく変わりなく、力強く動き続けている。疲れを知らない巨大なエンジンのようだ。 「この先の流れは本当にきついぞ。トラバサミ号でも耐えることができるかどうかわからん。小さな船と同じように沈んでしまうかもしれぬ」 「だから?」 「だからおまえはここにいよ。私が守ってやる。守りきる自信があるわけではないが、船の上にいるよりは安全だろう」 「でも…」 「そこのおまえ」女王蜂はコツムジに話しかけた。 「なに?」 「アリシアを私の上に降ろし、おまえは艦長に伝えてこい。アリシアは私のところにいると」 「わかった」  ぽんと押されて、私は女王蜂の身体の上に落とされてしまった。首のすぐ後ろの部分だ。 「しっかりつかまっていろ」女王蜂の声が聞こえ、もうコツムジは姿を消してしまっていた。私は両腕をまわし、女王蜂の首に抱きついた。 「そう、それでいい」女王蜂が言った。「見ろ、もう一隻沈没していくぞ」  顔を上げると、ワイヤーの一本が突然切れ、あおりを食らって戦艦の一隻が転覆するところだった。トラバサミ号と変わらない大きさの船だ。ということは、トラバサミ号ももう安全とはいえないのだろう。転覆した戦艦は空気の中でもみくちゃにされ、船体がやわらかいチーズのように裂けるのが見えた。そうしながら落下を始めた。救命ボートが何隻もさっと気流の上に散らばるのが見えたが、あの中の何隻が助かるのだろうという気がした。 「大叔父さんはどうなるの?」 「悪いが、そこまで面倒は見れぬ。トラバサミ号が沈まぬことを祈れ」  コツムジが戻ってきた。「伝えてきたよ」とだけ言い、丸くなって私のポケットの中に消えた。 「何か言ってた?」  ポケットの中から小さな返事があった。「船よりもここのほうが安全だろうって。大叔父さんは、アリシアの家族によろしくって」  それっきりコツムジは黙ってしまった。女王蜂の身体が大きく揺れたので、私は腕にもっと力を込めなくてはならなくなった。働き蜂は、もうほんの少ししか残っていなかった。みな力尽きて落ちていき、オレンジ色の光を発して消えてしまったのだ。 「あなたは大丈夫なの?」私は女王蜂に話しかけないではいられなかった。 「心配するな。力加減は心得ている。力尽きる前にやめ、この場を離れるさ」 「働き蜂たちは?」 「また生めばよい。巣箱はおまえが見つけてくれたではないか」  さらに一隻が沈没し、残っている船はトラバサミ号だけになった。それでも煙突から煙をはきながら、ワイヤーをピンと伸ばして引き続けている。何を思ったのか、コツムジが突然ポケットを飛び出していった。止める暇もなく、あっという間に見えなくなってしまった。ただ私も、そういうことにあまりこだわっていられないのも事実だった。まわりでは嵐のように強い風が吹き荒れ、ますます強く女王蜂にしがみつかなくてはならなかったのだ。 「滝が見えてきたぞ」  顔を上げると、前方に雲のようなものが薄く見えていることに気がついた。帯のように長く左右に続いている。その幅は何キロもあるだろう。熱いスープの表面から出る湯気のように沸き立ち、まるで生きているかのようにうごめいている。あの部分で気流が終わり、九十度に折れたようになって地上へ向かって落ちているのだ。 「もうここでよかろう」  女王蜂は羽ばたき方を変え、オオガラスから離れていった。気流を離れ、真横に出ようというのだろう。働き蜂がもう一匹も見えないことに気がついた。女王蜂は、オオガラス全体を眺め渡すことのできる場所に出た。前方はるかにトラバサミ号がいるのが見える。この瞬間も滝に向かって、ヤリのように突き進んでいる。 「やつらはオオガラスと運命を共にするつもりなのか?」と女王蜂がつぶやくのが耳に入った。 「まさか」伸び上がり、私は少しでもよく見ようとした。まわりを吹く風は相変わらず荒れ狂っている。私は両足に強く力を込めなくてはならなかった。 「いや、やつらはワイヤーを切る準備を始めているな。見ろ」  私は、女王蜂が指さす方向を見た。風に飛ばされてしまわないように命綱をつけた乗組員たちが船尾に集まり、力をあわせてワイヤーを切り外そうとしているのが見えた。ひときわ大きな人影はきっと大叔父だろう。 「間に合うかしら?」私はつぶやいた。ワイヤーがあまりにも強く食い込んでいるので、彼らはてこずっているように見えた。滝はもうすぐそこまで迫っているのだ。今すぐ舵をいっぱいに切らないと、とても間に合わないだろう。  同じことを感じて乗組員たちがあせり始めているのは、ここからでも見て取ることができた。服の色から、私はコイルと艦長を見分けることができた。この二人が、まわりの数人に何かを命令するのが見えた。命令を受けた者たちが振り返り、大叔父に近寄っていくのも見えた。大叔父は何事かと顔を上げたが、あっという間にかかえあげられ、船べりへ運ばれていった。そして乗組員たちは、船べり越しに大叔父を外へ投げ落としたのだ。  手足をバタバタさせながら、大叔父は落ちていった。聞こえはしなかったが、大きな悲鳴を上げていたに違いない。だが大叔父は、たった三十センチほどしか落ちることはなかった。なぜか大叔父の身体は空中で停止し、まるで見えない手で運ばれているかのように、こちらへ向けてそろそろと進み始めたのだ。  大叔父はコツムジの上に乗せられているのだと、女王蜂も同時に気がついたようだった。さっと身体をひるがえらせ、降下を始めていた。コツムジが大叔父の体重に耐え切れなくなる前に捕まえなくてはならない。女王蜂はカーブを描き、獲物を狙うワシのように降下していった。そして足の先で、大叔父の身体をさっとつかまえた。大叔父は足にしがみついたようだった。女王蜂がにやりと笑った。 「見かけほど重い男ではないな」 「大叔父さんは大丈夫なの?」私の場所からでは、もちろん大叔父の様子は見えなかった。 「心配ない。私の足につかまり、ほっと息をついているところだ」  その間も、トラバサミ号の乗組員たちはワイヤーの切り離し作業を続けていた。そして、何とか成功したようだった。ワイヤーは突然切れ、ちぎれたゴムひものように縮み、びゅんと空中を舞った。トラバサミ号は自由になり、大きく汽笛を鳴らして、舵を思いっきり左に切った。  オオガラスはまっすぐに進み続けていた。ぎりぎりのところでよけ、トラバサミ号は滝をかわすことができた。船体の三分の一近くをはみ出させながらだったが、大きく旋回して曲がっていった。甲板上の乗組員たちが歓声を上げ、手をたたいた。船尾を大きく滑らせながら、トラバサミ号は方向を変えていった。その間もオオガラスは直進を続けていた。  オオガラスの四角い船首が、滝の上へゆっくりと乗り出していくのが見えた。虚空へ向かって、へさきをナイフのように突き出してゆくのだ。だがあれほど大きな船だ。すぐにへさきは自分の重みで折れ曲がり始めた。甲高い音を立てて、金属が折れ曲がってゆくのだ。怪獣の悲鳴のような、聞いたこともない大きな音だ。それでも船体は前進を続けた。バランスを崩し、オオガラスは滝の上で前のめりになっていった。  船尾がゆっくりと持ち上がってゆくのが見えた。シーソーのように立ち上がりながら、オオガラスは落下を始めた。その船体を、今でも気流が後ろから荒々しく押しているのだ。きっとすさまじい力だろう。落下が始まると、オオガラスは空気によって真上から強くたたかれることになる。通常の落下よりもスピードがついたに違いない。あの大きな船体が、あっという間に小さくなっていった。  女王蜂は安全な場所まで下がり、空中に静止していた。私はすべてを眺めることができた。オオガラスはゴマ粒のように小さくなったが、突然赤く燃え上がり、その光はどんどん黄色味を増していった。そして最後は、オレンジ色というよりもむしろ白に近い光を発して燃え上がり、三十秒近く輝き続けたが、ふっと消えて、それ以後はもう何も見えなくなってしまった。  いつの間にかコツムジが戻ってきて、肩の上に乗っていることに気がついた。ふうっと小さなため息をつくのが聞こえたので、手を伸ばして、そっとなでてやった。  トラバサミ号は舵を切り、葦の島々へ進路をとった。私たちは甲板の上に降り、休息することになった。女王蜂も同じようにしたが、彼女一人がいるだけで甲板がいっぱいになってしまう感じだった。乗組員たちは怖がって、誰一人近寄ろうとはしなかった。私はひどく疲れていたが、一晩ゆっくり休むと元気が出てきた。朝食の席で、私は大叔父に話しかけた。 「あの結晶はどうなったの? 世界はもう大丈夫なの?」  ポケットから紙を出してきて、大叔父はテーブルの上に広げた。細かい文字で長い数式が書き連ねてある。「これをごらん」 「何なの?」 「コイルと二人で計算してみたのさ。オオガラスと同じ大きさの結晶が空気に触れたと仮定して、二十四時間後には何が起こるだろうとね」 「どうなるの?」 「あの大きさの結晶が空気に触れた場合、二十四時間後には地上の空気のかなりの部分がすでに結晶化してしまい、風の頂にいても気圧の低下という形で感じ取ることができるであろうという答えが出た。だがそんなものはまったく観測されていないんだ」 「じゃあ?」 「みんな助かったのさ。世界はもう心配ないよ。結晶はすべて燃え尽きてしまったんだ」 「本当に?」 「もちろんさ」大叔父はにっこりした。 「わーい」大叔父の首に思わず抱きついてしまい、私は皿や茶碗をもう少しでひっくり返してしまうところだった。 6  トラバサミ号は静かに航行を続けた。その日の昼には艦長室に呼ばれ、何人かと一緒に小さなパーティーを開いた。パーティーが終わり、風にあたるために甲板に出たところで、コツムジが私を呼びに来た。「女王蜂が呼んでるよ」とコツムジは言った。コツムジに連れられて、私は駆けていった。  女王は昨日とまったく同じ様子で、甲板に腹ばいになっていた。誰が与えたのか、骨付き肉の食べかすがいくつか、バケツに入って散らばっているのに気がついた。 「何か用なの?」女王蜂の真下まで歩いていき、私は見上げた。コツムジが肩の上に乗った。 「私は巣箱へ戻ろうと思う。卵をたくさん生まねばならぬ」 「ええ」 「だがその前に、おまえと大叔父を乗せて地上へ寄り道してやることもできるが?」 「私たちを地上へ連れ戻してくれるの?」  女王蜂はゆっくりとうなずいた。 「大叔父さんを呼んでくるわ」甲板の上を、私はドタドタと駆けていった。大叔父は艦長室で見つけることができた。茶を飲みながら、まだコイルや艦長たちと話し込んでいた。私が事情を話すと、大叔父は驚いて立ち上がり、もう少しで天井に頭をぶつけてしまうところだった。  すぐに支度が始まった。荷物をまとめ、丈夫なヒモで女王蜂の足にくくりつけた。長い旅になるから、コックたちが食べ物を用意してくれた。乗組員たちが甲板に整列し、私と大叔父は女王蜂の背中に乗った。途中まで一緒にいくということで、コツムジは私のポケットの中に入った。艦長の号令に合わせて乗組員たちが敬礼し、大きな音で汽笛が鳴り、女王蜂はふわりと飛び立った。少し高さをとり、女王蜂が身体を安定させてから見下ろすと、伸び上がるようにしてコイルが両手を大きく振っているのが目に入った。私と大叔父も振り返した。女王蜂はすでに前を向いて飛び始めていて、みんなあっという間に小さくなってしまった。振り返ったまま私は見つめ続けたが、すぐにトラバサミ号も小さく、遠く見えなくなってしまった。  女王蜂の背中の上では、大叔父が前に乗り、私はその後ろにいた。大叔父は手書きの地図を見せて、私たちが住む町の位置を女王蜂に説明しているところだった。首をきつく曲げて振り返りながら、「その海岸線の形には見覚えがある」と女王蜂が言ったので、 私たちはほっとした。  速いペースで、女王蜂は高度を下げていった。当然スピードもついてくるので、それを殺すのに苦労しているようだった。足を広げ、空気抵抗をわざと増やして飛んでいることに気がついた。螺旋のようにくるくるまわりながら、私たちは降下していった。  そのまま日が暮れた。大叔父の背中にもたれかかったまま、私は眠ってしまった。目が覚めると、丸い地平線の向こうから太陽が昇ってこようとするところだった。地上はもうかなり近く、スター号に乗っていたときと変わらない高度だった。目の下には、なだらかな起伏のある草原が広がっている。これが切れたところに、大叔父と私の住む町がある。 「おはよう。よく眠れたかい?」  大叔父の声が聞こえたので、私は顔を上げた。 「ええ、大叔父さん」 「アリシア、少し話しておきたいことがある」 「何なの?」私は大叔父を見つめ返した。 「コツムジは、おまえが眠っている間に帰っていったよ」 「えっ?」あわててポケットの中に手を入れたが、もちろん空っぽだった。「どうして?」 「さあな。あの子にはあの子の考えがあってのことだろう。アリシアによろしくと言っていた」 「起こしてくれればよかったのに」 「コツムジが起こすなと言ったのさ。おまえの寝顔を見つめて、頬にそっとキスをしていったようだった」 「そうなの」  私は、そっと自分の頬を押さえた。コツムジに触れられた感覚がまだそこに残っているような気がした。突然女王蜂の声がした。 「そろそろ町に着くぞ。どこで降ろせばいい? まさか空軍基地などないだろうな。戦闘機に追われるのは願い下げだぞ」 「大丈夫だ」大叔父は笑った。「空軍基地などはない。もう少し東に寄ってくれないか。線路を探して、それに沿って行こう。アリシアの家は線路のそばにある。簡単に見つけることができるだろう」 「線路? あの鉄のイモムシの通り道のことか?」  身体を傾け、女王蜂は進路を変えた。朝日を反射して、線路がきらりと光るのがすぐに目に入った。いくらもたたないうちに、私は自分の家を見つけることができた。指さすと、「おお」と言って大叔父が微笑んだ。  女王蜂もそれに気がついたようだった。スピードを落とし、カーブを描きながら近寄っていった。だがその途中で、私たちは教会の敷地の上を通りかかった。白い色をして、高い塔のある建物だ。緑色の芝生に囲まれて、広い土地の中央に立っている。芝生は墓地になっていて、明るい灰色をした墓石がいくつも並んでいる。 「あら」私は声を上げた。 「どうした?」 「あそこでお葬式をしているわ」  指さすと、大叔父にもすぐにわかったようだった。「本当だな。誰が死んだのだろう」  私は目をこらした。気を利かせて女王蜂は高度を下げ、くるりと旋回してくれた。  参列者はみな黒い服を着ている。真新しい墓石が二つあり、人々はその前に並んでいる。なぜか二つの葬儀が同時に進行しているようだ。参列者の中に母の姿があることに気がついた。見覚えのある喪服を身につけている。その隣に父と姉がいるのも目に入った。 「お母さんたちがいるわ」  大叔父も不思議そうな顔をした。「なぜか知らんが、わしの昔の戦友たちもいるぞ。何人か見覚えがある」 「どういうことなのかしら?」  だが、知人の誰かがなくなったらしいのは間違いなかった。こういう光景を目にしたら、参列しないのは失礼に当たるだろう。  女王蜂に言って、教会の建物の裏に着陸してもらった。あの大きな身体なのに、女王蜂は音を消して飛ぶことができた。その姿を誰にも見られることはなかっただろう。背中から降り、荷物をほどき、私たちはあわただしく別れの言葉を述べた。女王蜂は再び羽根を動かし始め、あっという間に空のかなたに見えなくなった。  私と大叔父は顔を見合わせ、カバンを手にして歩き始めた。教会の建物を回り込んで、墓地へ歩いていった。  足音に気づいて、最初にこちらを向いたのは姉だった。赤くなった目にハンカチを押し当てていたが、その目を大きく見開き、ハンカチを手から落としてしまった。私は駆けていき、拾い上げようとかがんだが、姉が大きな悲鳴を上げたので、手は途中まで伸ばしたままになってしまった。  顔を上げると、みんながこっちを見ていた。引きつったような顔で私と大叔父を見つめている。気を失って、母が突然ドサッと倒れたので、あわてて父が抱き起こそうとした。悲鳴を止めるために、姉は自分の口の中に指を突っ込まなくてはならなかった。参列者たちが私たちのまわりに集まり始めたが、口を開く勇気を最初に絞り出したのは神父だった。 「あなた方は今までどこへ行っていたのです? 元気でいたのなら、なぜ連絡しなかったのです? スター号が墜落して死んでしまったのだとみんな思っていたのですよ。これはあなた方二人のお葬式なのですよ」  驚いて振り向くと、そのとおりだった。二つの墓石には、私と大叔父の名が刻まれていた。 7  私と大叔父の話など、誰一人信じてはくれなかった。貯金をはたいて、大叔父は古い飛行機をもう一機買い、仕事に復帰した。夏休みも終わり、私は学校へ戻った。  授業中にも、最近私は先生からよく叱られるようになった。自分でもどうしようもないのだが、少しでも気を抜くと、すぐに空を見上げてしまうのだ。白い雲や青い空のはるかかなた、宇宙と大気を隔てるぎりぎりのところに住む人々に思いをはせないではいられないのだ。人工の島々を築き、地上の誰にも知られぬまま何世紀も生き続けてきた人々だ。地上の人々が風の頂のことを知ることは永久にないのかもしれないという気がする。地上の人々は、この地球に住んでいる人類は自分たちだけであると信じているが、それは真実ではないのだ。自分たちの頭上はるかなところに、地上の世界のことを『風の底』と呼ぶ人々がいて、彼らなりのまったく違う世界を築いているのだ。  戸外で小さなつむじ風を目にするたびに、私は胸がどきどきする。コツムジのことを思い出してしまうのだ。風の中を歩くことが、私はとても好きになった。全身に風を浴び、耳の中でごうごうと逆巻くのを聞くとき、コツムジから話しかけられているような気がするのだ。あの愛らしい声で「アリシア…」と呼びかけられているような気がするのだ。 (終)
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