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1  大叔父の名はジョン・ニードルズといったが、六十歳になったばかりで、まだ若々しかった。頭は完全にはげていたが、白い口ひげをタワシのように生やしている。スープを飲むときには、このヒゲはびしょびしょになる。  あるとき大叔父は公園で昼寝をしていて、食事をした直後だったが、ヒゲにこびりついていたパンくずをさっと小鳥がさらっていったのには、驚くのを通り越して大笑いしてしまった。私の笑い声で目を覚まし、大叔父は何事かという顔をしていたが、理由は教えなかった。  大叔父は親戚の中でも変わり者と思われていて、親しく付き合っているのは私だけだった。一度も結婚したことがなく、若いころは空軍のパイロットだったが、退役するときに古い戦闘機を買い取って、個人で運送業を始めていた。機体は鮮やかな銀色に塗り替えられ、大叔父は『スター号』と名づけた。  このスター号に郵便物の詰まった袋を乗せ、西の海に広がるいくつかの離れ小島に届けるという仕事を請け負っていたのだ。夏休みはまだ始まったばかりだったが、珍しくも家に顔を見せて、その大叔父が言ったのだ。 「アリシア、スター号に乗ってみたくはないかい?」  私はすぐに首を縦に振ったが、家族はみんな反対した。特に父はおかんむりで、「あんなクズ鉄に乗るなど、葬儀屋に予約をしにいくようなものだ」と言った。  姉も言った。「魚に散々つつかれた後の死体を、運良く海から拾い上げることができたらだけどね」  腹を立てて、私はテーブルの下で姉の足をけってやった。姉はもっと強くけり返してきた。スター号に乗ることには母も反対した。丁重にではあったが、両親は大叔父に断りを言い、大叔父は特に機嫌を悪くしたふうでもなく帰っていった。だが翌日、私にあてて電報が届いた。  電報など一度も受け取ったことがなかったので興奮したが、差出人は大叔父だった。  日曜の午前中のことだったが、家族はみんな、メイドまで連れて教会へ出かけていて、私が一人で留守番をしていた。大叔父は、私は教会へなど行かないことを知っていたのだろう。大叔父ほどではなかったが、私も家族の中では変わり者だったのだ。電文は短く、簡潔だった。    今夜六時、飛行場ニテ待ツ。  ぞくぞくするような興奮が身体を駆け抜けるのを感じた。自分の部屋へ飛んで帰り、支度を始めた。昼前には家族が帰ってきたが、考えを悟られないように苦労した。少しでも油断するとニヤニヤ笑いが浮かんできそうになるのだ。姉はすぐにかぎつけ、「あんた、どうしたの?」と言ったが、私は首を振ってごまかした。  スター号は夕暮れの光を浴びて輝いていた。私は家の前からバスに乗って飛行場へ向かったのだが、停留所につく少し前から、輝く機体がフェンスの向こうに見えてきて、わくわくした。バスを降りて五分後には、私は芝生の上に止められたスター号を見上げていた。荷物の積み込みが終わった直後のようで、サインをした書類を大叔父が係員に手渡しているところだった。エンジンはもうかかっていて、排気ガスの匂いが漂ってくる。 「来たな」そばへ行くと大叔父が言った。私はうなずいた。  大叔父は私のカバンを持って、機内へ運んでくれた。戦闘機という言葉から想像していたよりも大きく、操縦席のすぐ後ろにドアがあり、そこを入っていったのだ。だが内部は驚くほど狭かった。丸い水道管の中に入ったような気がする。前方にはイスが二つ並んだ操縦席があるが、その後ろはそのまま荷物室につながっていて、郵便物の入った大きな袋が五つか六つ無造作に置いてある。  大叔父は手招きをし、私を副操縦士の席に座らせて、ベルトを締めてくれた。操縦桿や、目が痛くなるほどいくつも並んでいる計器類を眺めているだけで、私は興奮した。窓の向こうには飛行場の風景が広がっている。ここは平野の真ん中にある変化のない町で、町の外は地平線まで畑や草原が広がっているだけで、アクセントになるものは何もない。死ぬほど退屈な町だ。  大叔父も操縦席に座り、ベルトを締めた。無線機を使って、管制官と二言三言話し始めた。準備が整ったようだった。大叔父はアクセルを開き、操縦桿を少し右に倒した。エンジンの音が大きくなると、私の心臓はさらにどきどきした。巨大なエンジンが、私の背丈よりも大きなプロペラを目にも見えない速さで振り回しているのだ。わくわくしないほうがどうかしている。  スター号は滑走路に出て、スピードを上げた。エンジンの振動が直接伝わってくるが、怖いとは思わなかった。舗装の荒れた滑走路の上を飛び跳ねるようにしながら加速していき、あっという間に空に浮かんでいた。水平飛行に移って、大叔父はスター号をくるりと一周させ、町の様子を見せてくれた。私は窓に顔をつけ、夢中になって眺めた。駅や市役所、公園や小学校などを見分けることができた。自分の家を探してみようと思ったが、その前にスター号は西を向き、スピードを上げ始めていた。目の前には夕日がある。それを追いかけるようにして、スター号は飛び続けた。何分か飛んで陸地を抜け、日が沈んでしまう前に海岸に達することができた。  背後から満月が登り、海面をきらきら照らしてくれた。私は再び身体を乗り出し、窓の下を眺めたが、いつの間にかうとうとしてしまったらしい。大叔父の声で目を覚ました。少し緊張した声だった。 「アリシア、あれは何だろう?」 「えっ?」  私がまだ目をこすっていると、大叔父は肩をつついて、前方に注意を向けさせた。 「竜巻かしら」はじめ私はぼんやりとそう思った。空の高いところから、長いヒモのようなものがだらんと垂れ下がっているのだ。相当巨大なもので、月の光を受けて輝いているが、どこから降りてきて、上がどこにつながっているのかはわからない。遠すぎて下もよくわからない。だがすぐに、雲などまったくない晴れた空だということを思い出した。晴れた空に竜巻など出現するものだろうか。 「風はほとんど吹いていないぞ」大叔父がつぶやいた。だとすると、余計わけがわからない。  大叔父は地図に目を落とし、鉛筆で小さな丸印を書いた。「わしたちが今いるのはこのあたりだ。何かあるかい?」  地図を受け取り、私は目をこらした。だが何も見つからなかった。真っ白な大洋の真ん中に過ぎない。 「あれは何なの? どのくらいの大きさがあるの?」 「何なのかはわしにもわからん。あんなものは見たこともない。ひも状のもので直径は二十メートル、長さは数キロというところか」 「竜巻じゃないわね」 「まるで金属でできているかのごとく光っておる。近づいて旋回してみよう」  大叔父は操縦桿を倒し、アクセルをしぼった。スター号はゆっくりと機体を傾けていった。竜巻のようなものはゆっくりと窓の中央に移動し、大きくなっていった。ある程度近づいたところで大叔父は再び操縦桿を倒し、そのまわりをぐるぐると飛ぶコースにスター号を入れた。窓に顔をくっつけ、私は目をこらした。邪魔なので、シートベルトは外してしまった。 「どうだアリシア、何かわかるか?」  長い間、私は口を開くことができなかった。目を奪われていたのだ。正体がわからないから見つめ続けているのだと大叔父は思ったかもしれないが、そうではなかった。正体がわかったので、私は言葉を失っていたのだ。 「どうしたアリシア?」とうとう大叔父は言った。 「あれは鎖だわ。長く大きな鎖が天から垂れ下がっているのよ」 「なんだって?」 「鎖よ。何かの金属でできているんだわ。それが月光を受けて輝いているのよ」 「そんなバカな。アリシア、少しの間、操縦桿を持っているんだ。支えているだけでいい。動かすんじゃないぞ」  私は言われたとおりにした。大叔父は私の側に大きく身体を乗り出し、窓に張りついた。そして声を上げた。 「おお」  大叔父はなかなか自分の場所に戻らなかった。私は身体を縮めていることに疲れてしまった。 「ねえ、大叔父さん」 「おお、すまんすまん」大叔父は自分の場所に戻った。すぐにシートベルトを締め直し、気づいて私のベルトも締めてくれた。 「おまえの言うとおりだ」大叔父は口を開いた。「あれは鎖に違いない。正体はまったくわからんが」 「どこから垂れ下がってきているのかしら?」 「そして、下はどこにつながっているのかじゃな」 「調べてみるの?」 「もちろんさ」大叔父はにっこり笑った。こういうときの大叔父は子供のような顔になる。 「どっちから調べるの?」 「まず下を見よう」  大叔父は操縦桿を倒し、機首を下に向けた。エンジンをさらにしぼった。エレベーターに乗って下の階へ降りていくときのようなすうっとした感覚があり、スター号は高度を下げていった。  海上のあのあたりでは、ときどき予告もなく強い風が吹いて、今でもパイロットや船乗りたちを驚かせることがある。もちろん飛行機を墜落させたり、船を転覆させたりするほど強いものではないが、肝を冷やさせるには十分だ。だからスター号が鎖にそって降下しているときに吹いたのも、きっとそういう種類の風だったのだろう。いつもなら機体をガタガタゆすぶる程度のものでしかないが、あのときのスター号は鎖のすぐ近くを飛んでいたのだ。あっと思ったときには百メートル以上流され、翼の先端が鎖に接触しようとしていた。もちろん大叔父はとっさに操縦桿を逆方向にきったが、間に合わなかった。ガガガと大きな音がし、鎖に触れて翼の先が吹き飛んだ。次の瞬間には翼は根元から折れ、エンジンごともぎ取られていた。燃料パイプがちぎれ、ガソリンが噴水のように噴き出すのが見えたが、よく引火しなかったものだと思う。  片方の翼を失って、スター号は落ち葉のようにくるくる回りながら墜落していくしかなかった。イスに縛り付けられたまま激しく振り回されて、私はすぐに何もわからなくなってしまった。スター号がそのまま地上にまで落ちてしまわなかったのは、奇跡としか言いようがないだろう。私はやがて目を覚まし、自分がどこか暗くて狭い場所にいることに気がついた。何度も振って頭をはっきりさせ、目をこらすと、自分がまだスター号の操縦室にいるとわかった。天国でも地獄でもないとわかってほっとしたが、飛行機はどんな状態になっているのだろうと心配になった。エンジンの音は聞こえなかった。残ったエンジンもすでに停止していたのだろう。  操縦室は暗く、豆電球のように小さなランプがいくつか灯っているだけだ。大叔父は隣にいて、まだ気を失っている。窓の外はほとんど真っ暗だが、それが夜の闇のせいではないことに気がついた。夜の闇が電球の光を反射するはずがない。窓ガラスはすでにこなごなに割れてしまっていたから、それが光を反射しているのでもない。  私は気がついた。窓の外にあるのは金属の壁だ。すべすべと輝く滑らかな壁だ。あの鎖を作っていた金属の輝きを思い出した。 「アリシア…」  大叔父が目を覚ましたようだった。私は振り返った。 「大叔父さん、大丈夫?」 「おまえは?」 「私は大丈夫よ。ケガはない?」  大叔父はシートベルトを外し、自分の身体をあちこち触っていたが、やがて納得したようだった。 「ああ、ケガはないようだ。しかしひどい目にあったな」 「私たち、あの鎖の途中に引っかかっているのよ」 「スター号がか?」大叔父の顔色が変わった。 「ええ」  大叔父は身体を乗り出し、外の様子を調べ始めた。 「これはまずいぞ」すぐに大叔父は言った。 「どうして?」 「おまえの言うとおり、機首が軽く引っかかっているだけだ。今すぐ外に出たほうがいい」  身の回りのものを入れたカバンは、すぐ手の届くところに置いてあった。私たちはそれを持ち、ハッチを開けた。大叔父は私を先に外に出し、自分は後からやってきた。  気がつくと私は、鎖を作っているがっしりした金属の上に立っていた。本当に頑丈で、飛行機が一機や二機引っかかっても壊れる心配などする必要はない感じだ。一つ一つの環はアルファベットのOに似た形をして、一個の大きさが一軒の家ほどもあるのだが、それが見える限りずっと上下につながっている。私たちはドーナツの内側にとまっているハエのようなものだ。スター号もその環の中に鼻を突っ込み、本当に引っかかっているだけという感じだ。スター号を眺めて、大叔父はため息をついた。 「二十年間一緒に飛んできたのだが、これでスクラップだな」  片方の翼をもぎ取られ、機首も大きくへこんでしまっているスター号は、お世辞にも格好いいとはいえなかった。それでも銀色の塗料は、この瞬間も月光を受けて輝いていた。  全体で何千トンあるのか知らないが、鎖は重力でだらりと垂れ下がっている。風を受けても揺れる気配はない。私たちは海の上にいて、頭の上では星々が光っている。何百メートルか下にある海面はその光を受けて、きらきら輝いている。耳をすませても、かすかな風の音以外は何も聞こえない。目をこらしても、船や飛行機の明かりらしいものは何も目に入らない。身体の力が抜けてしまい、私は座り込もうとしたが、鎖が突然動き始めたのはそのときだった。  ゴクンとした大きな揺れだったので、私はとても驚いた。思わず大叔父にしがみついたが、壁に手をついていなければ、大叔父も転んでしまっていただろう。 「風か?」大叔父が言った。 「わからない」  そうは言っても、風の仕業ではないような気がしていた。肌にも髪にも何も感じられなかったのだ。鎖がもう一度揺れ、O字型の環同士のつなぎ目が、こすれてギギギと鳴った。  大きな揺れではなかった。それでもスター号を揺さぶるには十分だったのだろう。ズズズと物がずれるような音がし、機体が動くのが見えた。環の中にはまり込んでいた機首がゆっくりと動き、バランスを失っていった。スター号はすうっと落下を始めた。大きな音を立ててすぐ下の環に一度ぶつかり、垂直尾翼が外れた。さらにその下の環にぶつかったときにはエンジンが外れて、それで落下する方向が変わり、鎖にぶつかることはもうなかったが、まっすぐに落ちていった。  海面に達するには少し時間がかかった。ものすごく遠いところで最後に水しぶきが上がり、少し遅れて、水音がかすかに聞こえてきた。 「これで海の藻屑か」大叔父がつぶやくのが聞こえた。 「私たちはどうなるの?」  大叔父はにっこりした。「いま海面から何メートルのところにいるかわかるかい?」 「ううん」 「概算だが九百メートルほどだな」 「なぜわかるの?」 「スター号が落ちていく秒数を数えたのさ。それで暗算した」 「へえ」 「わしたちはここでじっとしていればいいのさ。これだけ巨大なものだ。船か飛行機か、とにかくそのうち誰かが見つけてくれるさ。何も心配することはないよ」 「寒いわ」 「着る物は持っているのだろう?」  私はカバンを開け、服を出して身につけた。大叔父も同じようにした。だが、鎖が再び揺れ始めたのはそのときだった。 「きゃあ」私は大叔父にしがみついた。  今度の揺れ方は、さっきとは違っていた。揺れるというよりも、動くと呼ぶほうがいい。グオーンと腹の底に響くような低い音が加わっていて、環と環のつなぎ目が、まるで歯ぎしりでもするようにこすれあっているのだ。私だけでなく、大叔父も顔色を変えた。 「何が起こってるの?」 「わからん」と大叔父は答えたが、すぐにはっとした表情に変わった。 「どうしたの?」 「まさかとは思うが…」 「何なの?」 「アリシア、上から誰かがこの鎖を巻き上げようとしておるんじゃ」  本当に大叔父の言うとおりなのか、確かめる方法はなかった。だがその後も鎖は揺れ続け、機械が発するような低音も聞こえつづけた。そして十五分ほどたったころには、大叔父の言うことが正しいと認めざるを得なくなった。明らかに気温が下がり、風が強くなり、海も遠くなっていったのだ。さらに十五分たつと、風は刺すように冷たくなり、台風のような横殴りのものになった。私たちは壁の影に身体を寄せ合っていなくてはならなかった。寒いのを通り越して、私の唇は紫色になっていたに違いないが、そっとつぶやいた。 「大叔父さん、あれを見て」  大叔父もその方向を見て、あっと悲鳴を上げた。月の光を受けて、水平線が丸く輝いていたのだ。私たちはもうそれほどの高度に達していたのだろう。地球の丸さを見て取ることができたのだ。  その後も風が弱まることはなかった。寒さがやわらぐこともなかった。空気も薄くなり始めていたのだろう。口にはしなかったが、呼吸をするのが難しくなりはじめたことを私は感じていた。大叔父がさっきから嫌にキョロキョロしていることにも気づいていたが、そんなことに関心を向ける余裕はなかった。大叔父が突然声を出した。 「アリシア、こっちへ来るんだ」  大叔父は私を立ち上がらせ、手を引いて歩き始めた。私はもう目を開けていることも難しかったが、ついていった。私たちは金属の床の上を歩いていき、O字型の環の奥まった場所へ入り込んでいった。風上に当たるから、これまで近寄らなかった場所だ。 「これをごらん」  首を動かすことさえ難しかったが、言われた通りにした。そして、そこに金属製の壁があること、継ぎ目とノブのようなものがあって、ドアのように見えることに気がついた。だが私が覚えているのはそこまでだった。 2  私が目を覚ましたのは、かなり時間がたってからだったに違いない。井戸の底のように狭く、壁も何もかもが金属でできた部屋の中だったが、明るく照明されて風もあたらず、暖かくもあった。小さな窓があり、大叔父は私に背中を向け、外の様子を見ているようだった。私は声をかけた。 「大叔父さん」  大叔父は振り返った。にっこりしてかがんだ。「目が覚めたな、アリシア」 「ここはどこ?」 「もう寒くはないだろう?」 「うん」 「ここはさっきの鎖の内部さ」  私は顔を上げて見回した。言われてみれば確かにそのようだった。あれだけ大きな環なのだから、これぐらいの部屋を内部に作るのは簡単なことだろう。部屋のすみには小さな機械があり、明るく輝きながら、同時に暖かい空気を吹き出しているのだった。 「暖房装置のようだ」大叔父が言った。「使い方がわかってよかったよ。もう安心だ」 「鎖の動きは止まったの?」  大叔父は首を横に振った。「まだ動き続けている。窓の外をごらん」  私は立ちあがった。ドアのわきにかわいらしい丸い窓があって、見たこともないほど分厚いガラスがはまっている。それでもよく透き通っていて、外の様子を見ることができた。大陸の海岸線が、地図で見るのとそっくり同じ形で伸びている。べったりと塗られた茶色い塊で、海の部分は黒く塗り分けたようになっている。 「どのくらいの高さにいるの?」 「もう見当もつかんよ」  私は窓ガラスに額を押し付けた。白い雲が、薄く引き伸ばした綿のように陸地や海の上に散らばっている。 「どこまで登り続けるのかしら?」  だがその答えは、大叔父も持っていないに違いなかった。黙って首を横に振った。鎖はその後も三時間動き続けた。大叔父と私は、ビスケットやチョコレートを出してきて少し食べた。食べ終えるころ、窓の外の変化に気づいたのは大叔父だった。  そのころには、景色の半分は星空に覆いつくされていた。地球はもう本当に丸く、大きなスイカのように視野の下半分を占領している。だがそれが突然、真っ暗な壁のようなものでさえぎられ、何も見えなくなってしまったのだ。そして鎖が大きく揺れ、私は大叔父の上に倒れこんでしまった。部屋が横倒しになったので、私たちは荷物と一緒に壁の上をごろごろと転がっていった。やっと身体が止まったとき、部屋は完全に上下逆さまになっていた。気がつくと私は大叔父の背中の上に座っていたが、あわてて起き上がった。 「あいたた」背中をなでながら、大叔父は起き上がろうとした。 「大丈夫?」 「大丈夫だが、アリシアも大きくなったものだと実感したよ」  私たちは窓のところへ行き、外をのぞき込んだ。鎖はもう停止していた。機械の音はまだ聞こえていたが、何分かするとそれも静かになった。私たちは窓に顔を押し付け、外の様子を眺めた。薄暗かったが、どこかに照明があるようで、その光で物を見ることができた。 「部屋の中なの?」私は言った。 「わしには倉庫のように見えるな」 「でも空っぽよ。何も置いてなんかないわ」 「床と壁は金属だな。この鎖と同じ材質のようだ」 「誰かいるのかしら?」 「さあ? 人影は見えんな」  大叔父が手を伸ばし、ドアのノブに触れようとしたので、私は叫び声を上げた。 「外に空気がなかったらどうするの?」 「えっ?」  大叔父もやっと気がついたようだった。だがそのときには遅く、もうノブを半分以上回してしまっていた。カチッと音がしてロックが外れ、数ミリだがドアは開いてしまっていた。  私たちは顔を見合わせた。大叔父がほっとしたように首を縮めるのが見えた。 「ふう、外にも空気はあるようじゃぞ」 「なかったら私たち、もうデメキンみたいになって死んじゃってるわ」  急いで荷物をまとめ、私たちはそっと部屋を抜け出した。ドアを開くと、下の床まで一・五メートルほど隙間があったので、大叔父が先に降りて、私をそっと降ろしてくれた。私たちは床の上に立つことができた。  大叔父の言うとおり、床は鎖と同じ材質でできていた。見回すとそばの壁もそうで、何メートルも高いところにあるが天井も同じようだった。ところどころ照明装置があり、白い光を放っている。 「ここはどこなの?」 「わしにもさっぱりわからんよ」  肩をくっつけ合うようにして、私たちはそろそろと歩き始めるしかなかった。少し行ったところで、大叔父が口を開いた。 「どうやらここは、この鎖をしまっておくための場所のようじゃな」 「どうして?」 「ごらん。鎖はきちんと折りたたまれ、自動的に整頓して置かれている。あそこにあるカギ爪つきの車輪が見えるかい? あれが鎖を巻き上げていたのさ」  大叔父が指さす方向を見て、私は息をのんだ。これまでに見たことどころか、夢の中ですら空想したことのない大きさの車輪があり、今は静かに停止しているが、巨人の腕のように太い軸が壁から突き出して、その先に取り付けられていた。同じように巨大な歯車があり、それが力を伝えていたのだろう。まるで巨大な時計の中に迷い込んだネズミになったような気がした。  私たちは歩き続け、壁に行き当たった。ドアが一つあり、この部屋を出てどこか別の場所へ通じているようだった。何秒間か顔を見合わせていたが、大叔父が手を伸ばしてノブをつかんだ。カギはかかっておらず、簡単に開くことができた。  ドアの向こうは長い廊下につながっていた。パイプの内側のように丸い形をして、左右にどこまでもまっすぐに伸びている。どちらの方向に目をこらしても、小さすぎて点になってしまうほど遠くまで続いている。 「どっちへ行くの?」 「さあ?」大叔父も首をかしげた。  だが、どちらかへ行かなくてはならなかった。左へ歩いていくことにした。しばらく行くと三叉路に出くわした。横からやってきた通路が九十度に交わっているのだが、その向こうからかすかな足音が聞こえてくることに気がついたとき、私たちは凍り付いてしまった。見回しても隠れる場所はなかった。根が生えたように立ちつくしているほかなかった。  足音はどんどん近づいてくる。いかにも体重の軽そうなパタパタいう音だ。子供のような歩き方を連想した。何度目かわからないが、私は大叔父にしがみついた。  角を曲がって、足音の主が姿を見せた。私たちに気づき、立ち止まった。意外そうな顔で、目を大きく見開いた。呆然としているといってもいいかもしれない。  だがそれは私たちも同じだった。足音の主はとても小柄で、背丈は私と同じか、もしかしたら少し低いぐらいだったのだ。その目には、大叔父などは巨人のように見えたかもしれない。目をまん丸にして、口もあんぐりと大きく開いていた。数世紀昔の絵に描かれているような古めかしいデザインの服を着ている。靴のつま先などは、牛の角のようにとがっている。身体と同じように顔も小さく、老人のようにしわだらけだが、年寄りではないようだった。目は魚のように大きく、鼻の穴はちんまりと小さい。 「これはあんたたちの船なのかい?」かすれた声でその男は言った。大叔父と私は顔を見合わせた。 「船だって?」大叔父が言った。 「この漂流船のことさ」 「違うわ」私は答えた。「私たちは鎖に引っかかって、ここまで巻き上げられてきちゃったのよ」 「ああ」いかにもほっとしたという様子で、男はけたけた笑い始めた。「そうなのかい」 「少し事情を説明してもらえんかな?」大叔父が言った。 「おやすい御用で」男は手にしていた布袋を床にドスンと置き、大叔父と私と交互に握手をした。 「これはアリシア、わしはその大叔父のジョン・ニードルズだ」大叔父は男を見つめ返した。 「おいらはコイルってんでさ」男は言った。「葦の島の住人で、職業は宝探し人でね」 「宝探し?」私は目を丸くした。 「そうだよ、お嬢ちゃん。骨の折れるわりに儲からない仕事だがね」 「どんな宝を探すんだね?」大叔父が言った。 「宝石とか貴金属とか、そんなもんですよ。どこから来なすったか知らないが、旦那方がお住まいの町でも同じようなもんでしょう?」 「まあね」私はうなずいた。 「葦の島とはどこにあるんだい?」 「もちろん『風の頂』に決まってまさあ。他にどこがあるというんです? ははあ、旦那方は『風の底』から来たんだね」 「風の底って?」  何がおかしいのか、コイルは突然笑い始めた。遠慮も何もない大きな笑い声だったが嫌な感じはなく、大叔父と私は顔を見合わせていたが、もう少しでつられて、私たちまで笑い出し始めてしまうところだった。 「ねえ旦那方」笑い終えて、コイルは顔を上げた。「百聞は一見にしかずといいます。葦の島をお目にかけましょう。そうすれば、おいらがこれを漂流船と呼んだ理由も、あんたらが住んでいるところが風の底と呼ばれるわけもおわかりになりましょう」  コイルは布袋をよいしょとかつぎ、私たちの前を行きはじめた。大叔父と私もついていくしかなかった。コイルは廊下をたどり、いくつか交差点を通っていった。ドアをいくつも開けたり閉めたりした。そしてとうとう、ガラスでできたチューブのような細長い廊下に出た。コイルと大叔父はそうでもなかったが、そこに達したとき、知らず知らず私は立ち止まってしまい、それ以上は一歩も歩き出すことができなくなってしまった。まったくおせっかいな構造だと思うのだが、床がガラスでできていて、足の下に地球が見えているのだ。壁も天井もそうで、見上れば星々があり、天の川がぼんやりと光っている。再び下を向くと、白い雲のまとわりついた青い地球が迎えてくれるのだ。大叔父がとっさに察して、さっと私の手を引いてくれた。コイルも何も言わなかった。私は、前だけを向いて歩き続けた。  廊下は十メートルほどで終わり、コイルの船に乗り込むことができた。ボートと呼ぶほうがふさわしいほど小さなものだったが、それでも再び金属の床の上に立つことができて、本当にほっとした。だが次に様子が変わったのは大叔父のほうだった。 「ほう、これは…」と言ったきり、大叔父は黙り込んでしまったのだ。だがそれも数秒のことで、すぐにまわりを眺め、キョロキョロし始めた。本当に小さな船で、人は三人ほどしか乗れないだろう。船室はそれこそ四角く狭い箱でしかなく、前方の窓に向かって舵輪やアクセルらしいレバーが並んでいる。そういう操縦室や船体の様子を、大叔父は夢中になって眺めている。まるで新しいおもちゃを買ってもらったばかりの子供のようだ。そういう感覚が理解できるのか、コイルは少し離れたところからニヤニヤ見ている。私に気づき、すみのイスに腰かけるように身振りをした。  そのそばには小さな窓があったので、私は外を眺めた。この小さな船はさっきのガラスの廊下を通して、コイルが漂流船と呼んでいた巨大な船に連結されているのだった。そしてこの二隻は、この高い空にぽつんと風船のように浮かんでいる。水上の船とは違うが、船体がびりびりとわずかに揺れるのが時折感じられる。コイルがウインクをした。 「この揺れは、空気の塊が船底にぶつかるから起こるのだよ」 「ねえ大叔父さん」私は振り返った。「この船はどうして地上へ落ちてしまわないの? どうしてここに浮かんでいられるの?」  大叔父はヒゲの先を揺らし、興奮した様子で口を開いた。 「それがすべてのポイントなんだ、アリシア。この船は空気の表面に浮いておるんじゃ。地上の船が水に浮くのと同じようにして」 「我々はそれを『風の頂に乗っている』と表現します」コイルが口をはさんだ。 「どういうことなの?」私にはわからなかった。  コイルは答えた。「風の底に住んでいるあんた方がどう考えているのかは知らないが、空気は見かけよりもずっと重く固いもので、重力に引かれて、地表に降り積もっているのです。水が水たまりにたまるようにね。それゆえ、宇宙の真空と空気の間にもはっきりしたと境目があります。この船も葦の島も、その境目に浮かんでいるというわけでさあ」 「すると、葦の島というのは人工の島だな」大叔父が言った。 「ご名答。いつから存在するのかは誰も知りませんが、何世紀も前から風の頂にぷかぷかと浮いているわけです。さあエンジンをかけましょう。こんなところにいつまでもいても仕方がないですからな」  コイルは操縦室のイスに腰かけ、スイッチを押した。ごろごろというようなおなじみの音をたて、すぐにエンジンが動き始めた。コイルは別のスイッチを押して、ガラスの廊下から船を切り離し、舵を右に切った。船はゆっくりと離れ、風の頂へ乗り出していった。 「これはあんたの船なの? 名前はないの?」私は言った。  コイルは陽気に答えた。「オタマジャクシさ。理由はわかるだろう?」 「丸くてころころした形が似ているからね。葦の島にもカエルがいるの?」 「いるともさ。夜になると、ゲコゲコうるさいったらありゃしない」 「あの漂流船は何というのだい?」窓越しに、大叔父は振り返って眺めていた。 「正式な名は誰にもわかりません。誰も知りません。昔からオオガラスと呼ばれてはいますが、いつごろから存在するのかもわからないし、それでもかなり古いものであるらしいのは確かですね。風の頂を行く船乗りたちの間で昔から伝説になっていて、航海の途中に目撃した者は大勢いるんだが、乗り込んで内部を探検したのはおいらが初めてでしょうなあ」 「それなのに、せっかくの探検を途中で切り上げてもいいのかい?」  コイルは笑った。「風の底からのお客さんとあっては、それぐらいの歓迎は当然でしょう。なあに、探検はまた今度にしますよ」 「あっ」あることに気がついて、私は大きな声を出した。大叔父とコイルが驚いた顔で振り返ったので、私は続けた。 「あんたがあの鎖を巻き上げたのね」  コイルは恥ずかしそうな顔をした。「実はそうなんだ、お嬢ちゃん。操縦室を見つけてね、好奇心に駆られて、何のスイッチかも知らずについ手を触れてしまった」 「君がそんなことをしなければ、わしたちは今ごろ、家の居間でゆっくりくつろいでいられたはずだよ」大叔父が言った。 「いやあ、面目ない」  オタマジャクシのエンジンは調子がよく、速いスピードではなかったが、船体を順調に前へ進ませた。外を眺めながら、目をこらしてよく見ていると、まるで海の波そっくりに風の頂が波打ち、うねり、時々はしぶきを飛ばすさまを見ることができた。もちろん地上の海よりもはるかに透明でつかみどころがなく、幽霊のようといえばそうなのだが、確かに目に見えるのだ。私の様子に気がついて、「空気と真空とは屈折率がわずかに違うから、光の当たり具合によっては、そうやって目に見えることがあるのさ」とコイルが教えてくれた。  葦の島が見えてきたのは丸一日後のことだった。操縦室の隣にはごく小さな寝室があり、私はそこで眠った。大叔父とコイルはそのまま操縦室で眠ったらしい。目を覚ますと食事の用意ができていて、いい匂いがしていた。パンとチーズと茶だけだったが、地上で口にするものよりも風味が強いような気がした。食べ終えるころ、窓の外に葦の島が姿を現したわけだった。  遠くから見ると、島の形はクラゲによく似ていた。長く伸びた足がその下にあるわけではないが、ドームのような半球形をしているのだ。巨大なサラダボウルを伏せたような形といえばいいかもしれない。表面には無数のガラス窓があり、外の光を取り入れている。 「直径はどのくらいあるのかね?」大叔父が口を開いた。 「二十キロばかりあります。実は葦の島というのはこれ一つではなく、まだまだ三十ばかりあって、葦の島々と呼ぶほうが正しい。いま目の前にあるこれは赤島と呼ばれていまして、三十の島には、それぞれ赤だの青だの緑だのと色の名をつけて区別しておるのです」 「この赤島にあんたが住んでるの?」私は言った。 「そうだよ、アリシア。ここで生まれて育ったのさ」  島が近づくとコイルはアクセルをゆるめ、汽笛を三回鳴らした。汽笛の音は風の上を伝わっていき、島まで届いたのだろう。金属でできた巨大な門がゆっくりと開き始めた。コイルは再びアクセルに手を触れ、オタマジャクシをその門の中へ向けて進ませた。  オタマジャクシが通り過ぎると、大門はすぐに背後で閉じられてしまった。窓に近づき、私は外の様子を眺めた。大叔父も同じようにしている。  ドームの内側の景色は、驚くほど地上と似ていた。霧のようなものが白く立ち込めているせいで遠くまでは見えず、おかげで頭上にあるはずの天井は目に入らない。風の頂は、ここまで来ると本当に水にそっくりで、表面を走る波がわずかにギザギザととがり気味であることをのぞけば、地上の海とほとんど見分けがつかないだろう。オタマジャクシは運河のような水路へ入っていき、左右には家々がずっと立ち並ぶようになった。家々は、ドームやオタマジャクシと同じ白っぽい金属でできていたが、表面が風化しているので、ぼんやり眺めていると古めかしい石造りの家と見間違えてしまいそうだ。平らな屋根があるが、雨どいがないことにすぐに気がついた。大叔父をつつき、私はそのことを口にした。 「ああ」コイルが笑った。「風の底では空から水が落ちてくることがあるのかもしれないが(たしか雨と言うんでしたっけ?)、ここではそんなことはありません。家々の屋根は、暖かい空気を外に逃がさないためにあるんです」  しばらく進み、運河の曲がり角や分岐点をいくつも通り過ぎてから、とうとうコイルは船を岸に寄せた。エンジンを切ってひょいと桟橋に飛び降り、綱を手にして、手際よく船をつないだ。私たちに向かって手招きをした。 「真夜中だから、誰の目もありません。粗末な家ですが、まあどうぞ」  コイルの家の玄関は、船のすぐ目の前にあった。見回すと同じように小さな家が何百と並んでいて、どの家の前にも小さな船が一隻ずつつないであるのが見えた。 「ここでは、自分の船を持っていないと暮らしにならないのさ」コイルが言った。  キーを使ってドアを開け、コイルは私たちを家の中へ入れてくれた。私は平気だったが、大叔父には少し大変だった。葦の島の住人はみなコイルのように小柄なようで、この家もそれに合わせたサイズだったのだ。大叔父は身体を二つに折り曲げ、慎重に戸口を潜り抜けていった。  家の中は無人で、コイルは一人暮らしのようだったが、部屋の中はよく片付いていた。耳に口をつけて「大叔父さんのアパートの部屋とは大違いね」と私がささやくと、「まあな」と言って大叔父も笑った。  コイルは私たちをよく歓迎してくれた。私たちのことはもちろん他の人々には秘密にしていたが、朝になると市場へ行き、いろいろと珍しい食べ物を買ってきてくれた。家の中には、小さいが本の詰まった書斎があり、自由に使わせてくれた。大叔父と私は、一日中、本にかじりついて過ごした。  そういう平和な日々だったが、数日しか続かなかった。空いた部屋があり、大叔父と私は狭いがそれぞれ寝室をあてがわれていたのだが、ある朝、目が覚めてみると、コイルがひどく取り乱した様子でいたのだ。 「どうかしたのかね?」大叔父が話しかけた。 「いえね」コイルは困った様子で返事をした。「おいらもこんなことは経験がありません。どうしていいやら」 「一体何が起きたのかね?」  コイルはその出来事について説明してくれた。だが大叔父も私も、すぐには信じることができなかった。特に大叔父はそうで、傍目でもわかるほど疑わしそうな顔をしていた。 「風に浮かぶ島があるというのは信じても、その話はどうもなあ」と大叔父は言った。 「お目にかけてもいいですよ」コイルは機嫌を悪くした風でもなかった。「しかし旦那の姿では、外では目立って仕方がありませんな。すぐに城の警備兵たちが集まってくることでしょう」  大叔父は肩をそびやかした。 「代わりに私が見にいってくるわ」私は口を開いた。「いいでしょう?」  大叔父とコイルは顔を見合わせた。 「お嬢ちゃんなら、顔を頭巾で隠せば怪しまれることはなかろうが、どうします?」コイルは大叔父を見上げた。  十分後には支度を済ませて、私はコイルと一緒に家の外に出ていた。借りた長い外套で身体全体をおおっていた。顔は頭巾で隠し、通りに出て、手を引かれて歩き始めた。オタマジャクシに乗ると、コイルはすぐにエンジンをかけた。  昼間だから運河は同じような小船でいっぱいだったが、コイルはかじを操って、うまく通り抜けていった。現場にはすぐに着くことができた。一目でわかったのだが、先日通り抜けてきたあの大門だった。これが開くと、ドームの外にすぐつながっている。 「これが赤島で唯一、船が通行できる門でね。ごく小さい出入口は他にもあるが、船が出入りできないのではどうしようもないのさ」  私は立ち上がり、操縦室を出て船べりに立った。まわりには同じような船がたくさんいて、人々はみな船べりに立って、大門を眺めている。私も同じようにした。  コイルが言ったことは本当だとすぐに納得できた。大叔父にはきちんと伝えなくてはならない。ドームのガラス窓越しに見ることができたのだが、すぐ外で巨大な蜂の巣が作られつつあって、出入口のまん前をふさぎ、大門を開閉することがもはや不可能になっているのだ。それだけではなく、人の背丈ほどもある蜂たちが何百匹もいて、忙しそうに身体を動かして、巣を大きくする作業を続けていた。 「いつからいるの?」私はコイルを振り返った。 「発見されたのは夜明けごろらしい。だがきっと昨夜遅くからいるのだろうよ」 「あれは何という蜂? ずいぶん大きいわ」 「それも誰も知らないのだよ。誰一人見たこともない。見るからに肉食で、凶暴そうな連中だ」 「本当にそうね」  私たちは眺め続けた。小船たちはくっつき合い、押し合いへし合いをしている。人々は不安そうにざわざわ小声で話している。制服を着た警備兵を乗せた船がときどき通りかかったが、彼らにもどうすることもできない様子だ。  私は蜂たちを観察した。見えているのはすべて働き蜂のようだ。きっと女王蜂は巣の中にいるのだろう。働き蜂たちはみなまったく同じ姿をして、動物園のオリの中にでも飼えば、一匹でもかなり見栄えがするだろう。あまりにも恐ろしげな姿だから、誰も飼育係にはなりたがらないかもしれないが、  働き蜂ですらあの大きさなのだから、女王蜂はどのくらいあるのだろうという気がした。巣はもう学校の校舎ほどの大きさにまでなっていたが、あの内部はきっといくつもの階に分かれていて、女王はその中心にいるのだろう。  コイルに肩をたたかれ、私は振り返った。 「警備兵の大部隊が来た。家に戻ろうか」  コイルが指さす方向を見ると、その通りだった。市民たちの船よりもふたまわりほど大きな船が近づいてくるところだった。甲板の上に兵たちを鈴なりに乗せている。コイルはエンジンをかけ、オタマジャクシをスタートさせた。運河の支流の一つに入り、ゆっくりとスピードを上げた。  昼間見る町は、夜とはまったく感じが違っていた。夜には静まり返っていたが、今は人通りが多く、物売りや通行人、学校へ行く子供らの姿であふれている。頭巾で顔を隠しながら、私は眺めていた。  オタマジャクシは家の前まで戻ってきた。エンジンを止め、コイルは船を岸にくくりつけようとした。騒ぎが起こったのはその直後だった。私は家の前に立ち、コイルがドアのカギを開けてくれるのを待っていた。だがコイルがキーを取り出し、鍵穴に差し込もうとする前に、家の中でドタドタと大きな足音が聞こえ、ドアが内側から大きくバタンと開いたのだ。  もちろんそこには大叔父がいた。興奮で顔を赤くし、ひげの先を震わせている。手の中には本があるから、この瞬間まで読んでいたのだろう。 「わかったぞアリシア」大叔父は叫んだ。「この本の中に書いてあることから推測できる。あのオオガラスというのは…」  大叔父はもともと声が大きく、身振り手振りで話す人物だった。それがおもちゃのように小さな家の戸口から飛び出してきたのだ。人目を引かないわけがない。すぐに大叔父は、自分の半分ほどの背丈しかない人々の注目を一身に集めることになってしまった。  赤島の人々にとっては、これは散々な日だったに違いない。大門は正体のわからない蜂の巣のせいで使用不能になり、町の中には巨人まで姿を現したのだ。もちろん大叔父にとっても運の悪い日ではあっただろう。この瞬間、コイルの家の前を、警備兵を満載した船が通過していくところだったのだ。兵たちは一瞬は呆然としていたが、指揮官が一言号令をかけると、コオロギの群れのようにひらりと船から飛び降り、大叔父のもとへ殺到してきたのだ。大叔父は、あっという間に地面に引きずり倒されてしまった。その上に何人もが飛び乗り、身動きができないようにした。残りの兵たちが大叔父の手足を縛り上げた。声を上げることができないように、猿ぐつわもされてしまった。 「コイル」兵たちの指揮官が大きな声を出した。 「なんだ?」コイルは答えた。 「こいつは何者だ? なぜおまえの家から出てきた?」  どきりとした顔で、コイルはちらりと私と目を合わせた。頭巾で隠したまま、とっさに私はこくんとうなずいた。コイルは少しは安心した顔をして、指揮官に答えた。 「そんな怪物のことなどおいらは知らんよ。おおかた、食い物でも狙ってこそ泥に入っていたんだろう」  コイルは近隣でも評判のよい男のようだった。同意する声が、すぐにまわりの住人たちの間からも上がった。指揮官は納得したようで、大叔父はそのまま引きずっていかれ、船に乗せられた。乱暴に扱われているので、船べりや甲板にぶつかる音がドスンドスンと聞こえてくる。エンジンがうなりを上げ、船は動き始めた。大叔父を乗せたまま遠ざかっていった。すぐに角を曲がって見えなくなってしまったが、大叔父は振り返ってじっと私を見ていた。  騒ぎがすんだ後、大叔父が手にしていた本が地面に落ちていることに気がついた。それを拾い上げ、コイルにうながされて私は家の中へ入っていった。 「まあ元気をお出しよ」私を食卓に座らせ、食事の支度をしながらコイルは言った。「おいらだって、大叔父さんのことをほってはおかないよ」 「どうするの?」 「さあ、それはまだわからんが」  私はため息をつき、大叔父が読んでいた本を手に取り、ページを開いた。 3  コイルは反対したが、私は耳を貸す気はなかった。昼過ぎには支度をすませ、私はコイルの家を出た。カバンを持ち、外套を着て、頭巾で顔を隠して通りを歩き始めた。城へ行く道順はコイルが教えてくれていた。二十分もたたないうちに、私は城門の前に立つことができた。私のカバンは大きく膨らんでいた。そうやって立っているだけで、門番たちの目を引くには十分だったが、頭巾を外して顔を見せると、門番たちは顔を見合わせ、階段を駆け下りて、そばまでやってきた。 「何者だ?」門番たちは、私に長いヤリを突きつけた。  声を震わせさえしないことに、自分でも感心していた。私は落ち着いた声で言った。 「私の従者が連れ去られてしまった件で、赤島の王に抗議しに来たのよ。すぐに従者を返すか、私を王のところへ連れて行くかしなさい。でないと…」 「でないと?」門番たちは不審そうな顔をした。 「『外側よりも暖かく過ごしやすいので、巣はドームの内側に作るほうがよい』と蜂の女王に進言するわ」 「蜂の女王? 進言だと?」  私は鼻でふんと笑った。「大門に巣を作っている蜂の女王のことよ。でも、これ以上のことはあんたたちには話せないわ。私を王のところへ連れて行きなさい」  もう私のまわりには警備兵たちが集まり始めていた。彼らは剣を抜き、私を取り囲むようにして、ぞろぞろと歩き始めた。小さな島だから、城といっても大きなものではなかった。まっすぐな廊下を進み、五分後には王の前にいた。朝からずっと会議が続けられていたのだろう。大臣たちがそのまわりにいる。王は中央にある大きなイスに腰かけていたが、いかにも信用していない顔で私を見ていた。 「おまえは誰だ?」  王は機嫌の悪い声を出した。私は見つめ返した。コイルと同じぐらいの年齢かもしれないが、わがまま放題でいかにも甘やかされて育ってきた感じの男だ。 「王の広間というから」私は口を開いた。「もう少しは掃除がしてあって清潔な場所だと思っていたのだけどね」 「なんだと?」王は顔色を変えた。 「木の葉が散らばって、イモムシだって歩いているし、とてもお客を迎える部屋ではないわ」 「木の葉? イモムシ? そんなものがどこにある?」 「これが目に入らない?」私は自分の足元を指差した。茶色いシャクトリムシが一匹、のんびりと歩いている。  王は呆然と見下ろしていたが、すぐに顔を上げた。「虫は確かにいるが、木の葉はどこにある? いいかげんなことを言うと…」  私はさっと歩き始め、あっと思った家来たちが身体を動かしかけたときには、王のすぐそばまで行っていた。王の耳のすぐわきに両腕を伸ばし、ぽんと一回拍手をした。そして手を開き、手のひらに乗っている木の葉を見せた。王や家来たちの目には、いかにも何もない空中から木の葉を摘み取ったように見えただろう。木の葉を鼻先に突きつけてやると、王は目を白黒させた。 「しかし…」  私は王の肩に軽く触れた。次の瞬間には、私の指は小さなカマキリの子をつまんでいた。「こんなものが肩にいたわ」 「しかし…」  私は王のそばを離れ、家来たちのところへ歩いていった。そして一人一人の頭上や背中、わきの下から小さな虫や葉を見つけ出していった。そのうちに広間の床は、私の手を離れた葉や虫たちがぽつんぽつんと落ちているようになった。  手品は私の趣味だったのだ。友人たちの間でも私の技術はよく知られていて、学校で行われる何かの会合やクリスマスパーティーなどでも、ちょっとした余興を頼まれることがあったのだ。コイルの家の書斎で本を読んでいて気がついたのだが、葦の島には手品というものがまったく存在せず、誰一人見たことも聞いたこともないのだった。念のためコイルの前でもあらかじめやって見せたのだが、そのときの驚きようというのは大変なものだった。「あんたは魔法使いか?」とまでコイルは言った。  だから機嫌をよくして、私は王の前で手品の腕を見せることにしたのだ。最後に両手のひらを大きく広げ、十匹ばかりの蝶をそこからさっと飛び出させたときの王の驚いた顔というのは、いま思い出しても微笑が浮かぶほどだ。コイルに手伝ってもらって、庭の木の葉や虫たちを集め、身体のあちこちに隠しておいただけなのだが。  用意しておいたタネがすっかり品切れになったときには、王の表情はまったく変わってしまっていた。うやうやしいとさえいえる顔つきに変わり、私に話しかけた。 「あなたはどこから来られたか?」 「風の底からよ」私は見つめ返した。 「風の底?」 「葦の島とあの蜂たちの間で和平を取り持ってやろうとわざわざやってきたのに、あんたたちは私の従者を連れ去ってしまった」 「従者ですと?」 「あのヒゲを生やしたのっぽよ」 「あの巨人のことか?」 「あれは私の家来なのよ。今すぐ返してもらいたいものね」 「しかし」王は家来たちを見回した。「あれが葦の島に害をなすものでないと確信できぬ限り、返すわけにはいかぬ。あれは今、正式の裁判を待つ身である」 「裁判?」 「さよう。国中の賢者を集める手配をしておる。その判断を仰ぐ」 「それまで待っていられないわ」 「ほほう」王はにやりと笑った。「何か急ぐ理由でもおありか?」 「そんなのじゃないわ。どうすれば私のもとへ返してくれるの?」 「そうさなあ」王はわざとらしく天井を眺めた。「あの蜂どもを追い払ってくれれば、返してやってもよいぞ。それほどの魔力をお持ちなら、造作もないことであろう?」  私はそれを承知するしかなかった。腹が立って、頭がかっかしてきたが、王に背中を向けて歩き始めるしかなかった。背後から、再び王が話しかけてきた。 「名はなんと申される?」  私は振り返った。「アリシア」 「ではアリシア殿、私もできるだけのお手伝いをしよう。今夜の宿はお決まりか?」 「いいえ」 「ならばわが城に泊まられるがよい。それとも他に希望がおありか?」 「ある人の口から、この赤島にはコイルという者が住んでいて、物知りで有能であると聞いたわ。そこへ案内してくれるとうれしいわ」 「コイルか。おやすい御用だ」  王は家来たちに合図をした。城の裏側は運河に面していて、私は十分後には船に乗せられていた。船はエンジンを響かせ、コイルの家へ向かって進み始めた。  コイルはもちろんすぐに迎えてくれた。賢い男だから余計なことは口にせず、私とははじめて顔を合わせるというふりをした。王の命令ならば仕方がないという顔をし、私を家の中へ入れた。ドアが閉まって二人きりになると、すぐに表情を変えた。 「どうだった、アリシア」 「どうもこうもないわ。あの王はろくなやつじゃないわ」  私はかなり機嫌の悪い声を出していたのだろう。あきれたような顔をしてコイルは笑った。  翌朝も、大門の前の人だかりは前日と同じように多かった。あるいは前日よりも多かったかもしれない。オタマジャクシに乗り、私はコイルと一緒に来ていた。たくさんの警備兵に守られて、王まで姿を見せていた。オタマジャクシはゆっくりと大門へ向かって進んでいった。  金属でできた分厚い扉だが、蜂の巣のおかげでほんの一メートルほどしか開くことができなくなっている。だがそれでも私には十分だった。門の隙間に押し付けるようにして、コイルは船を止めた。船べり越しに、私は隙間を見上げた。目の前には、段ボール紙のような色をした壁が立ちふさがっている。蜂の巣の外壁だ。私は腕を伸ばし、その壁をとんとんと二、三回たたいた。  反応はなかなかなかった。しびれを切らし、私はもう一度たたこうとした。変化があったのはそのときだった。バリバリというかすかな音を立てて、壁が振動を始めたのだ。続いて小さなカケラがぱらぱらと剥がれ落ち、とうとう小さな穴が開いた。私の手首がやっと通るほどの穴でしかなかったが、その向こうにいるものが黄色い姿をしていることを知るには十分だった。かさかさと音を立てながら穴はどんどん大きくなっていき、蜂の頭が通り抜けられるほどになった。  穴越しに私は見上げた。覚悟はしていたのだが、身体を動かすことができなくなってしまっていた。蜂の頭は牛と同じぐらい大きく、大きな目玉をして、まったく無表情に私を見つめていた。 「ええと…」  私が口にできたのはそれだけだった。蜂は穴の外に身を乗り出し、私に向けて前足を伸ばしてきた。あっと気がついたときには肩をつかまれ、私は強い力で引き寄せられていた。大きなキバのある口がやってきて、私の腰をつかんだ。黒い革のベルトを締めていたので、そこをくわえたのだ。足が床を離れるのを感じ、私は子猫のように持ち上げられてしまった。蜂は身体を引き、私を巣の中へ引っ張り込んだ。  巣の中は、想像していたよりも明るかった。茶色い壁がわずかに光を通すからだった。床や天井も同じ材質でできていたが、とても清潔でゴミ一つ落ちていない。天井は低いが、私なら頭をぶつけることなく歩くことができる。  蜂は、私をそっと床の上に降ろした。大きな瞳でもう一度見つめ、「ついてきなさい」とでも言うように前を歩き始めた。  巣の内部はとても混雑していた。働き蜂たちが幼虫の世話をしているのだ。パイプのような形の小さな部屋が無数にあり、幼虫たちはその中にいた。働き蜂たちはその部屋の中に頭を突っ込み、首を伸ばして、まるでキスでもするようにして一匹一匹にエサをやっている。  ゆっくりと歩いて、私は巣の奥へ連れて行かれた。もっとも深い場所にある部屋だったが、そこで女王蜂が待っていた。だが私ははじめ、それを女王だとは思わなかった。蜂だとも思わなかった。なぜこんなところに地下鉄の電車が置いてあるのだろうと思った。女王蜂の身体はそれほど大きかったのだ。  長い間私は、呆然とした表情でいたに違いない。とうとう女王蜂がこちらを向き、話しかけてきた。 「おまえがやってくるだろうと思っていた」女王蜂はとがったあごを大きく開き、一言一言はっきり発音した。 「私のことを知ってるの?」 「風の底から人間がやってきたと葦の島のネズミたちが噂しあっていた。それをコウモリたちが聞きつけ、私の耳に入れてくれた。空を飛ぶ者同士、助け合っているのだよ」 「蜂に噂話を教えて、コウモリは何の得があるの?」 「いろいろあるさ。例えば、味のよい果物のなる木をどこかで働き蜂たちが見つけると、その場所を私はコウモリたちに教えてやる」 「コウモリは果物が好きなのね」 「そのとおり」 「私をここへ呼んで、どうする気なの?」 「おまえに頼みたいことがあるのだ」 「頼み?」 「頼みをきいてくれれば、この巣を大門の前からどかせよう。そうすればおまえの大叔父は自由の身になろう?」 「何でも知っているのね」 「まあな。おまえには私の巣箱を探して欲しいのだよ」 「巣箱?」 「そうさ」 「どんな?」 「それはそれは大きなものさ」女王蜂は目を輝かせた。「縦横が数百メートルもあり、私たちが何世紀も使ってきたものだ」 「それも風の頂に浮かんでいたのね」  女王蜂は大きくうなずいた。「それが先日の嵐を受けて、大きく揺れ始めた。あんな大嵐は経験したこともなかった。巣箱全体が木の葉のように揺れ、あまりの不快さに、中にとどまってなどいられなくなった。私たちは幼虫を腕にかかえ、一旦巣箱の外に避難することにした。空を飛び、嵐の外に出たのだ。そして一晩待ち、嵐が静まってから戻ってみたが、巣箱は影も形もなかった」 「風で流されてしまったの?」私は目を丸くした。 「そうらしい。働き蜂を四方に放って探させたが成果はなく、何も見つからなかった。手がかりすらなかった。私たちは帰る家を失ってしまったのだよ。そうやって何週間も空をさまよっていたのだが、風の底からやってきた人間がいると、あるとき噂を聞いた」 「だからここに巣を作ったのね」 「そして今、うまい具合におまえを呼び寄せることができた」女王蜂はうれしそうに笑った。 「だけど、どうやって巣箱を探せばいいの? 手がかりはまったくないのでしょう?」 「おまえには風の底に住む者の知恵があろう? それを用いれば、巣箱を見つけ出すことができるかもしれぬ。頼れるものは、もはやそれ以外にないのだ」  話がすむと、またさっきの働き蜂が道案内をしてくれた。私は廊下を歩き、同じ穴を通って巣の外に出た。コイルとオタマジャクシはまだそこで待っていた。私が姿を見せると、見物人たちの間から大きなざわめきが上がった。  私は城へ連れて行かれた。広間に通され、女王蜂が話した内容を告げると、王は目を丸くした。 「それでおまえは、巣箱を探すことを承知したのか?」と王は言った。  私はうなずいた。「承知するしかなかったわ。そうしないと私の従者は帰ってこないし、蜂たちが気の毒でもあったしね」 「だが、どうやって探すつもりかね?」 「それで相談があるのよ」  私が話を切り出すと、王は目をむいた。断られるかと思ったが、あの巣をどけない限り大門は永久に開閉できないのだということを思い出させて、何とか承知させた。大叔父にあてて簡単な手紙を書き、渡してくれるように頼んで、私はコイルの家へ戻った。  コイルは書斎中に書物を広げ、忙しく調べ物をしているところだった。私が入っていってもすぐには気づかないほど没頭していたが、私がイスに腰かけると、気配を感じて顔を上げた。 「これは大変な仕事だぞ」コイルは言った。 「でも急がないといけないわ。大叔父さんはだいぶ元気をなくしているそうよ」 「ああ」コイルはため息をついた。 「何かわかった?」 「まるでだめだ」コイルは首を振った。「巣箱がどこへ飛ばされていったのか、まったく見当もつかん」  赤島の王はいくつかの船を持っていた。もちろんそれらは大門の内側に足止めを食らっていたわけだが、運良く一隻だけは島の外にいて難を逃れていた。アメンボ丸という快速船で、それを私に貸すことを王はしぶしぶ承知したわけだった。翌朝には、私とコイルは馬車に乗って、家の前から出発しようとしていた。港が使えないので、島の裏側にある小さな出入口を使ってアメンボ丸に乗り込むのだ。馬車の荷台には、コイルの書斎にあった本や資料をありったけ積み込んでいた。  アメンボ丸は鉛筆のように細長い船だった。人や荷物はあまり積むことができなかったが、いかにもスピードが出そうな姿だ。王の命令には逆らえないのだろうが、船を引き渡すとき、船長はひどく悔しそうな顔をしていた。だが若い船員たちはそうでもないようで、この降ってわいた休暇が楽しくて仕方がないという顔をしていた。  時間をかけて、コイルは船長から船の取り扱い方を教えられていた。その間に燃料や食料の積み込みも終わり、とうとうアメンボ丸は島を離れた。乗り組んでいるのは、私とコイルだけだった。あとは誰もついてきたがらなかったのだ。  快速船の名のとおり、スピードはよく出た。赤島はあっという間に見えなくなった。 「だけど、どこか行くあてはあるの?」操縦室へ行き、私はコイルに話しかけた。 「ないよ」コイルはあっさり答えた。「だが長年の経験でな、なぜか探し物とは、うろうろしていると行き当たるものなのさ」 「へえ」どうも信じられないような気がしたが、自分にも考えがあったわけではないので、異議は唱えないことにした。  アメンボ丸は走り続けた。甲板に出て、私は下に見える地球の様子を眺めていた。アメンボ丸はちょうど夜の側を飛んでいて、まるで水の底にあるかのようにときどき揺れるが、月光が太平洋に反射する様子を見ることができた。真っ黒に塗りつぶされた大陸の上に、大都市の明かりが小さな白い花の群れのように散らばっていたりもする。船べりにもたれかかり、私はいつの間にかうとうとし始めていた。  船体のかすかな揺れで目を覚ましたとき、すぐ隣に別の船がいることに気がついて、私はひどく驚いた。星空のように真っ黒に塗られた船で、寄り添って停船していた。いつの間にかアメンボ丸のエンジンも止まっていた。その黒い船から乗り移ってきたのだろうが、見たこともない男がいて、操縦室の中でまじめな顔をしてコイルと話しているのが見えた。立ち上がり、私は操縦室へ歩いていった。 「おお、アリシア」コイルは私に紹介した。「これはワーム。おいらの昔からの友人で、職業は…」 「誇り高き密輸業者だ」  本人が、太いがらがら声で言った。ぼうぼうのヒゲを生やして目つきの鋭い、いかにも油断のならない感じの男だが、それでも身長は私と同じぐらいしかない。よく太っておなかが丸く突き出しているので、なんとなくけとばしてみたいような気がする。きっとボールのようにころころと遠くまで転がっていくことだろう。 「密輸って、何を密輸するの?」 「葦の島の王たちが酒に高い関税をかけたもんでな、みなが安心して酔っ払うことができるように、オレたちががんばって働いているというわけさ」 「つまり」私は言い返した。「酒場の近所で割れている窓ガラスの半分はあんたたちの責任ということね」  びっくりした顔で、ワームはコイルを振り返った。「なんて娘っ子だ、これは?」  コイルは肩をそびやかした。「ただの娘っ子ですらこうなのだから、風の底とはそれぐらいおっかない場所だということさ」 「ああ、それはオレが一番よく知っとるよ。それで蜂の巣箱の話だったな」 「どこらあたりにあるか、見当がつくかい?」  ワームは首を横に振った。「さっぱりだ。だが思うことがないわけではない。その大嵐の話は聞いたことがある」 「大嵐だって?」コイルは目を丸くした。私は黙って聞いていた。 「このところ、風の頂のあちこちでその噂を聞くようになった」 「どんな嵐なんだい?」 「とんでもなくスケールの大きなものなんだそうだ。予告もなく突然現れるので、船や島がすでにいくつか襲われている。嵐が通り過ぎた後には何一つ残ってはおらんそうだがね。残骸も死体も何一つ見つからないそうだ。拭い去られたかのように、きれいに何もかもなくなっているそうだ」 「へえ」  コイルとワームは、その後も一時間ほど話しつづけたが、特に得るものはなかった。ワームは船に戻ってエンジンをかけた。コイルも手を振り、アメンボ丸のエンジンをかけた。二隻はゆっくりと別れていった。 「変わった形の船ね」ワームの船の姿が見えなくなってから、私はコイルに話しかけた。 「そうだったかい? 気がつかなかったな」  そうコイルは答えたが、私はひどく奇妙な気がした。ワームの乗っていた船は、風の頂へやってきてから一度も見たことがない変わった形をしていたのだ。角張った葉巻のような細長い形なのだ。四角い窓が、その側面にハーモニカの穴のように並んでいる。ワームの船について、私はもう少し何か言おうと思ったが、コイルが海図の上で何かの計算を始めたので、そのままになってしまった。  私たちはアメンボ丸を走らせ続けた。夕方になったので、私は食事の支度を始めた。小さなキッチンがあり、一通りの設備が備えられていた。スープを作るために、私は湯を沸かす用意をはじめた。コイルは、操縦室でまだ海図とにらめっこをしていた。女王蜂やワームから聞いたことをもとに、これまでに嵐が襲った場所に印がつけてあったが、だからといって何がわかるというものでもなさそうだった。  コンロに火をつけるのに私は苦労していた。あちこちいじってみたがよくわからず、コイルを呼びにいこうと歩き出しかけたときだった。どこかから声が聞こえた。 「右側にあるスイッチを入れてないから電気が流れないんだよ」  まるで子供のような甲高い声だった。もちろん聞き覚えなどなく、私は驚いて振り返った。広いキッチンではない。見回すのに二秒もかからない。だが人影はない。小さなコンロと戸棚、調理台と流しがあるだけだ。人が姿を隠す場所などあるはずがない。  声はクスクスと笑った。「僕はここだよ」  私はびっくりして天井を見上げた。天井は低く、小さな電球が一つ取り付けてあるだけだ。そのすぐ隣で、巻き上げられた小さな綿ぼこりがコマのようにくるくる回転しているのが見えた。私の表情がよっぽどおかしかったのだろう。声はもう一度クスクス笑った。 「綿ぼこりがしゃべっている」何秒もたってから、私はやっとつぶやくことができた。声は、もう一度楽しそうに笑った。 「しゃべってるのはホコリじゃないよ、僕だよ」 「誰?」 「僕は嵐だよ。綿ぼこりを巻き上げることしかできないほど小型だけど」  私は後も見ずに駆け出し、廊下をドタドタ横切って、コイルを呼びにいった。コイルは、もちろん私の言うことなど信じなかった。私に腕を引かれて、いかにも馬鹿らしそうな表情でキッチンに入ってきた。 「あんたのやる手品には感心するが、嵐が口をきくというのは、人を担ぐにもひどすぎるぞ」 「そう?」声が言った。「アリシアはウソなんかついてないよ」  いかにも気に食わないという顔でコイルはキッチンに足を踏み入れたわけだったが、自分の頭の上から声が聞こえ、見上げるとそこで小さなつむじ風が舞っているのを目にして、口をあんぐりと開けた。 「ふふふ」  高いところから、楽しそうな含み笑いが聞こえてくる。 「これは何だ?」目をむいて、コイルは私を振り返った。 「知らない」私は答えた。「気がついたらそこにいたの」 「赤島の大門に蜂が巣を作ったと聞いたので、見物に行ったんだよ」子供の声は答えた。「そうしたら、アリシアが巣の中へ入っていくのが見えた。おもしろそうだから、ずっとついてきた」 「あの巣の中へもついてきたの?」私は目を丸くした。 「うん。アリシアの服のポケットの底でじっとしてた」 「あんたは誰なんだね?」コイルが言った。 「僕は小型の嵐だよ」 「名前は?」 「そんなものない」 「この船で何をしている?」 「別になんにも。僕が乗っていては迷惑?」 「少なくとも砂ぼこりは立つわ」私は横から言った。 「ねえ、邪魔はしないから、もうしばらく乗せててよ。おとなしくするから」  コイルと私は顔を見合わせた。 「どうするね?」 「さあ?」  だが結局、この子は追い出さないことになった。追い出すとしても、どうやればいいのか見当もつかないということもあったが。  それ以来ずっと、嵐の子は私のそばにいるようになった。肩の上や首筋にまとわりつき、まるで飼い主に戯れる子猫のようだった。 「ややこしいから、あんたに名前をつけるわね」  夕食がすんで、キッチンで後片付けをしながら私は言った。嵐は私の頭の上に座って、髪を数本逆立てて遊んでいた。 「どんな名前にするの?」 「どんなのがいい?」 「さあ?」  私は少しの間考えた。そして口にした。 「コツムジなんてどう?」 「つむじ風の小さいやつという意味?」 「ええ」 「ふうん」  まんざらでもない様子だったので、このときから名はコツムジと決まった。  コツムジは本当に私のそばを離れなかった。甲板にいるときもキッチンにいるときも、コイルと操縦室にいるときも一緒だった。私の肩に止まり、えりをパタパタ動かした。眠るときはベッドの中まで入ってきて、肩のそばで小さくなり、風は吹かせないが、ボールのように弾力のある丸い空気の塊になった。耳をすませるとスウスウと寝息まで聞こえることに気がついて、思わず微笑んでしまった。  こうやって三人を乗せて、アメンボ丸は進み続けた。あてがあったわけではない。航海の途中で船に出会ったり、島に行き当たったりするたびに人々と話して情報を集めたが、参考になることはあまり得られなかった。ただ一つ、ここ何週間か大嵐はどこにも現れていないので、またそろそろどこかが襲われるのではないかと不安が広がり始めているということ以外は。  夜遅くなり、私はベッドに入って眠っていた。アメンボ丸は空の中央を進み続けていたが、次の町に着くまでということで、コイルは操縦室で見張りに立っていた。船が大きく傾き、ベッドが突然斜めになり、コツムジと一緒に床の上にほうり出されて、私は目を覚ました。すぐに起き上がり、操縦室へ走っていった。 「どうしたの?」  だが操縦室の中も同じような有様だった。イスがひっくり返り、海図が散らばっている。頭をぶつけたのか、コイルは床の上で気を失っている。船がもう一度大きく揺れたので、私は壁に肩を強くぶつけてしまったが、悲鳴を上げている暇はなかった。外の様子に気がついたのだ。 「アリシア」  コツムジがしがみついてきた。ひょいとかかえてポケットに突っ込み、私はコイルに駆け寄った。肩を揺さぶるとコイルは目を開け、頭を強く振った。帽子が脱げていたのでかぶらせてやると起き上がり、窓の外を眺めた。そして息をのんだ。  アメンボ丸は、巨大な漏斗の内側にひっかかっていたのだ。少なくとも私の目には漏斗のように見えた。黒味がかった半透明のガラスのような色をしているが、直径は何キロもありそうで、渦のようにゆっくりと回転している。私たちは甲板に出た。まるでクリスマスツリーにつけられた飾りのようにして、漏斗の内側に何か小さなものが無数にくっついていることに気がついた。  何だろうと目をこらすと、船や建物がばらばらになった残骸だとわかった。漏斗があまりにも巨大だから小さく見えていただけなのだ。すべて大嵐に巻き込まれたものなのだろう。半分や三分の一にちぎれてしまって、以前の形は想像するしかないようなものもあるが、明らかに元は船や家々だった。船たちは航海をしているときに、家々は島ごと襲われたものだろう。漏斗の内側に張り付いて、ぐるぐる回り続けているのだ。アメンボ丸はその真っ只中にいるわけだった。 「時計回りに回転しておる。あの漏斗は何でできているのだろうな」コイルがつぶやいた。 「前にも見たことがある?」 「ないな。話に聞いたこともない。誰が作ったのか見当がつかん。だが、あんたの小さな友だちなら何か知っているかもしれん。きいてみてくれないか」  私はポケットの中をのぞき込んだ。 「だめよ。震えていて出てこないわ。口をきこうともしない」  アメンボ丸は、そのまま漏斗の内側に引っかかっているしかなかった。見上げると天井はなく、暗い星空がそのまま見えているが、何の助けにもなりはしなかった。漏斗は傾斜がきつく、アメンボ丸がいくらエンジンをふかしても、とても脱出することなどできそうになかった。 「アリシア」  しばらくたって、ポケットの中から小さな声が聞こえてきたのでのぞき込むと、コツムジが見つめ返してくるのと目が合った。 「どうしたの?」 「二人だけで話せる?」 「ええ」小さな声で答え、私は甲板を歩き始めた。へさきまで行き、二人きりになった。「ここならコイルには聞こえないわ」  コツムジは、ポケットからそっと顔を出した。「これはアリジゴクの巣だよ」 「アリジゴク?」 「うん、ものすごく大きな虫だよ。話には聞いたことがあるけど、僕も見たことはない」 「何をする虫なの?」 「巣を作って船や島を飲み込んで、巻き込まれた人や動物をみんな食べちゃうんだ」 「どうやって?」 「見て」コツムジは見回した。「船や家の残骸はあっても、死体は一つもないよ。みんな食べられちゃったんだよ」 「その虫はどこにいるの?」 「わからない。この巣のどこかだと思う。この巣は直径が何キロもあってね、どこかに新しい獲物が引っかかっていないかと、アリジゴクはたえず巡回しているらしい。いつそこらの残骸の影から姿を現すかわからないよ」 「私たちも食べられちゃうの?」 「もし見つかったらね」 「そんなのは嫌だわ」 「コイルのところへ行こう。事情を説明しないと」  話を聞いて、すぐにコイルも顔色を変えた。 「この巣は何でできているのかね?」最初の驚きが過ぎ去ってから、コイルが言った。 「風だよ」コツムジは答えた。「アリジゴクは風をこういう形に作り変えて、自分の巣にしてしまうんだって」 「ねえ、あれは何?」私は前方を指さした。ごく遠くだが、何かが見えたような気がしたのだ。  コイルとコツムジは、どきんとした表情でその方向を見た。だがアリジゴクではないとわかって、すぐにほっとした顔になった。  それは大きな箱のように見えた。黒っぽい色の木材で作ってある。だがあの大きさの箱だ。元は高さが何百メートルもある木だったに違いない。そんなものがどこに生えていたというのだろう。それに、あの箱を組み上げるのに必要になるクギは、きっと私の身長と同じぐらいの長さがあるだろう。 「あれは何だね?」コイルがつぶやいた。「巨人の棺おけか?」 「蜂の巣箱よ」私は言った。「やっぱりここにあったんだわ」 「女王蜂に教えてやったら喜ぶだろうね」とコツムジ。 「ここから脱出することができればな」コイルがため息をついた。  巣箱は、ゆっくりと私たちに近づいてきた。近づくにつれて、その大きさがよりはっきりとわかってきて、口を開けて見上げることになった。女王蜂が言っていたことは大げさではなかったのだ。これまでに私が見たことのあるどんなビルディングよりも、どこの造船所にあるどんなドックよりも大きかった。私たちはアメンボ丸の甲板の上に並んで、首をまっすぐ上に向けて見上げていた。 「ねえ」コツムジが言った。「この船の上にいるよりも、あの中に入ったほうがアリジゴクに見つかりにくいんじゃない? いつ現れるかわからないよ」  それには一理あるような気がした。コイルはアクセルを吹かし、船を巣箱に向けて進め始めた。少し操縦しにくそうにはしていたが、アメンボ丸を巣箱の入口につけることができた。コイルが綱を投げたので、私は巣箱にくくりつけた。食料や道具類をかかえ、コツムジが私のポケットの中に飛び込み、私たちは上陸した。  赤島の大門で見た蜂の巣と同じように、この巣箱の中もとても清潔だった。見回してもチリ一つ落ちていない。蜂は成虫も幼虫も一匹もおらず、影すらない。いくつもの階に分かれているが、幼虫の入れるための小部屋が無数に並んでいる。 「女王の部屋はどこかしら?」私はつぶやいた。 「どうした? 何か用事があるのかい?」コイルが言った。 「ううん、ただ思っただけ。うんと広い部屋に違いないわ」  当てもなく長い距離を進んで、歩き疲れたところでコイルが言った。 「さあ、どうするね? どこに荷物を置く?」 「ここにしましょう」私は荷物を置いた。廊下が九十度に曲がった曲がり角だったが、そこがそのままキャンプ場所になった。 「ちょっとまわりを見てくる」コツムジがポケットから飛び出し、駆け出していった。角を曲がり、すぐに見えなくなった。  コイルは床に腰をおろし、携帯用のコンロを引っ張り出して、食事の用意を始めた。私も同じように腰をおろした。茶を入れるために、コイルは葉の入った金属製の缶を手にし、ポンと音を立ててフタを取った。中をのぞき込み、大きな声を出した。 「まいったな」 「どうしたの?」 「ごらん」コイルは缶を振ってみせた。サラサラと軽い音が聞こえる。 「それがどうかしたの?」 「茶の葉がすっかり乾いてしまっているんだ。フタの閉め方が不十分だったのだろう」 「乾いてちゃいけないの?」 「いけなくはないが、風味も何もあったものじゃない。葦の島の茶の葉は、常に適度の湿気を保っていないといけないのだよ」 「へえ」  白湯を飲むだけで、食事は茶なしで済ませるしかなかった。その後も夜までは何も起こらなかった。コツムジも戻ってきて、「どこまで行っても同じような空っぽの部屋が続いているだけだったよ」と言って、私のポケットの中に姿を消した。コンロの火を消し、私たちは毛布にくるまった。  何時だったのかはわからないが、私は夜中に目を覚ました。ポケットの中でコツムジがゴソゴソと動き始めたからだった。手を突っ込み、私はささやいた。 「何やってるの?」  コツムジは小さな声で答えた。「あれが見える? あの曲がり角の向こうで壁がぼんやり光っているよ」  私はいっぺんに目が覚めてしまった。目をこらすと確かにそうで、百メートル以上向こうだが、壁が光っている。きっと曲がり角の向こうにいる何かが光を発しているのだろう。光源が揺れているのか、かすかに強くなったり弱くなったりを繰り返している。ポケットから飛び出し、コツムジが私の肩に飛び乗った。 「どうしよう?」  その声が震えているので、私はぽんと軽くたたいてやった。 「行ってみよう」  そっと毛布から出て、私は歩き始めた。ゴム底の靴をはいているので、足音はほとんど立てなかった。  私たちは、輝く壁のある曲がり角へゆっくりと近づいていった。そこでは壁は九十度の角度を作っていた。私はその角に張り付き、顔だけをそっと突き出した。肩の上にはコツムジがいる。  だが相手も同じことを考えていたらしい。同じように曲がり角に張り付き、こちらの様子をうかがっていたのだ。だから私は、三十センチと距離を置かずにそいつと顔を合わせることになってしまった。  最初に悲鳴を上げたのはコツムジだった。ギャッと言って肩から飛び降り、私の袖をつかんで走り始めようとした。だが私だって、それほど勇気があったわけではない。同じような悲鳴を上げ、ドタドタと走り始めようとした。冷静だったのは、壁の向こうにいたそいつだけだったろう。とっさに前足を大きく伸ばして、私の足首をつかんだのだ。私はそのまま床に倒れてしまった。コツムジがころころと転がり、何メートルも先へ行ってしまうのが見えた。コツムジはそのまま全力で走りはじめ、コイルのところへ駆けていった。  その間に私は、相手をもう少し観察することができた。この巣箱はとても大きく、廊下もゆったりしていた。だがその廊下でも手狭に思えほど大きな虫だったのだ。戦車ぐらいの大きさがあり、六本の長い足がある。顔の前には長い触角があり、ちょうちんのようにぼんやりとした光を放っている。この光が壁に反射していたわけだ。その光のおかげで、顔に目玉が八つあるのが見える。磨かれた黒い小石のように輝いている。  もちろん私は暴れた。足を思いっきりバタバタさせ、逃げようとした。運良くかかとが命中し、片方の足爪が外れた。もう一方の足も自由にすることができた。私は飛び上がり、全力で走り始めた。  コイルは武器になりそうなものを手にして、駆け寄ってくるところだった。鍋を支えるのに使う鉄の棒だったが、あまり役に立つようには見えなかった。私とコイルは合流し、アリジゴクに背を向けて走り続けた。コイルの頭の上にコツムジがいるのが見えたが、すぐに飛び移ってきて、私の肩に乗った。 「やつをどうする?」コイルが言った。 「さあ? いるのは一匹だけなんでしょうね」 「それは間違いないと思う」コツムジが答えた。「この世で最後の一匹の生き残りだと聞いたから」 「ならいいが」走り続けているので、コイルは息を切らせ始めている。前方は、細長い廊下がずっと続いている。 「コツムジ、あいつはまだついてきてる?」 「来てるよ。ずいぶん遠くだけど」  私も一瞬ちらりと振り返った。青白いぼんやりとした光が左右にゆっくりと揺れているのが見えた。これだけ遠いと、蛍のように害のないずいぶんと平和な光に見える。コイルはとうとう立ち止まってしまった。私も同じようにした。並んで後ろを振り返った。 「あいつの歩みが遅いというのはありがたいな。逃げるのは造作もない」コイルが口を開いた。 「でもずっと追いかけてくるわ。いかにも疲れ知らずの感じよ」 「ここを右へ曲がってずっと進めば、荷物を置いた場所に戻ることができるよ」コツムジが言った。 「なぜわかる?」コイルは不思議そうな顔をした。 「巣箱の中を一回りして、様子を調べたもん。この廊下は一番外周にあるんだ。ずっと歩いていけば、ぐるりと回ってもとの場所に戻るよ。荷物を持って、アメンボ丸へ帰ろうよ」 「やれやれ」  私たちは再び走り始めた。走りながら話しつづけた。 「船に戻ってどうするの?」私は言った。 「さあな。コツムジ、あのアリジゴクは漏斗の中を歩くことができるのか? 船を追いかけてくるだろうか?」 「足の裏が特殊な形になっていて、自由自在に歩けると聞いたよ。そうやって犠牲者を追い詰めて、食べちゃうんだって」 「たちが悪いな」  だが私たちは、荷物を置いた場所に戻ることはなかった。いくつか曲がり角を過ぎて、背後の光はすでに見えなくなっていた。少し速度を落とし、私たちは早足で歩き続けた。あるところで三叉路に差し掛かった。気をつけてはいたが、私たちは光にはまったく気がつかなかった。その三叉路の暗がりから、突然二本の太く長い腕のようなものが伸びてきて、コイルの身体をつかみ、あっという間に引きずり込んでしまったのだ。  呆然として、私は立ち止まることしかできなかった。コイルの悲鳴が聞こえた。大きな鋭い声だったが、明かりのない場所だったから、暗くて何も見えはしない。しかしその中に、突然あの青白い光が見たのだ。長い触角の先でゆらゆらしているのまでわかる。アリジゴクは、コツムジの知らない近道を通って先回りをし、光を見せないために身体を前後逆さまにして、後ろ足を使ってコイルを引きずり込み、かかえあげたのだ。  トリックに引っかかったのだとわかったときには、アリジゴクはもう駆け出し始めていた。コイルを抱きかかえ、おしりを振りながら遠ざかりつつある。コイルの悲鳴はまだ聞こえている。 「コイル!」  すぐに悲鳴は止まり、叫んでももう返事はなかった。肩の上から、コツムジがさっと飛び立つのを感じた。廊下の天井すれすれを飛びながら、アリジゴクを追いかけていった。 「アリシアはそこで待ってて。すぐ戻るから」  アリジゴクの姿とともに、コツムジも曲がり角の向こうに見えなくなってしまった。私は立ちつくしていた。だがコツムジはすぐに戻ってきた。床の上をものすごい勢いで滑りながらやってきて、私の肩に飛び乗った。 「どうだった?」 「コイルはちゃんと生きているよ。アリジゴクに殴られて失神しているだけのようだった。耳を引っ張ったら、ううっと言って顔をしかめたよ」 「どうすればいいと思う? どこへ連れて行くつもりなのかしら?」 「アリジゴクは下の階へ降りていったよ。身体が大きいから、中央の太い階段しか通れないんだ。でも僕たちなら、細い階段をたどって先回りができるよ」  コツムジに導かれて、私は走り始めた。通路は長く、交差点がいくつもあり、こんなに巨大で複雑な構造のものをコツムジはどうやって記憶したのだろうという気がした。走りながら、私はそのことを質問してみた。 「風には風の吹き方があってね」コツムジは答えた。「コイルたちも気がついていないことだけど、風の頂にも流れがあるんだよ。地上の海の海流と同じように、いつも決まった方向へ流れている。とても複雑な流れだけど、覚えておけば役に立つ。一度乗っかれば、後は何もしなくても目的地につけるからね。そういうことがあるから、僕は物を瞬間的に記憶することに慣れているんだよ」 「へえ」  私たちは階をいくつも降り、長い廊下を進み続けた。やがて、前方にぼんやりと光が見えてくることに気がついた。 「やっぱりここにいたよ」コツムジがささやいた。  私は立ち止まり、曲がり角に身体を隠して、そっとのぞき見ることにした。  とても広い部屋で、私はすぐに体育館を連想した。ほぼ正方形をしていて、アリジゴクはその中央に立ち止まり、床の上にコイルをドスンと乱暴に置いたところだった。コイルは「ううん」とうめいたが、目を覚ましはしなかった。 「どうするつもりなのかしら?」  だがその質問に対するコツムジの答えは、私を震え上がらせた。 「食べるんだよ」 「えっ?」 「痛いよ」思わず強くつかんでしまったので、コツムジは身じろぎをした。 「あ、ごめん」 「離して」 「どうするの?」 「コイルをたたき起こしてくる」  止めようとして私は口を開きかけたが、そのときにはコツムジはもう何メートルも先へ行ってしまっていた。床の上を滑っていき、背後からアリジゴクに近寄っていった。私はどきどきしながら見ていた。だがコツムジは気軽に近寄っていき、すきを見てコイルの身体にさっと飛び乗った。肩の上にはい上がり、指かしっぽか知らないが、コイルの鼻の中に差し込んだようだった。 「ハ、ハクション」  大きな音を立てて、コイルはくしゃみをして目を覚ました。当然アリジゴクと見合うことになる。目を大きく見開いた。 「この八個目玉の肉食動物め」  コイルは声を絞り出し、拳骨を作って、アリジゴクの顔の中央を思いっきり殴った。ドンと鈍い音がした。悲鳴は上げなかったが、アリジゴクは思わず数歩下がった。そのすきにコイルは立ち上がり、さっと駆け出していた。コツムジはその肩に乗り、何か話しかけている様子だった。駆け出しながら、コイルが何度かうなずくのが見えた。 「わかったアリシア、その作戦でいこう」とコイルの声が聞こえてきたが、何のことかもちろん私にはわからなかった。数十メートル離れてからコイルは立ち止まり、アリジゴクを振り返った。アリジゴクは痛みから回復し、ゆっくりとだがコイルを追いかけ始めていた。コツムジが私の肩に戻ってきた。 「さあアリシア、始めるよ」 「何を?」 「いま、コイルからマッチを受け取ってきた」ポケットの中に、小さなものがコトンと落ちる気配を感じた。 「マッチをどうするの?」  からかうように両手を大きく振り回しながら、コイルはアリジゴクの前を歩いていた。部屋の出口へ向かっているようだ。私はまだ物陰に隠れていた。コイルに誘導されて、アリジゴクが部屋の外へ完全に見えなくなってから、私は歩き始めた。部屋の壁へ近づいていった。「じゃあね」とだけ言って、私の肩を離れ、コツムジはすでに姿を消していた。  目の前にあるものを私は見上げた。古い古いハシゴなのだ。この建物が蜂の巣箱として使われるようになって以来、何世紀も人の手が触れていないものだろう。古くなって、壊れやすくなっているかもしれないとは思ったが、気にしている余裕はなかった。手足をかけ、私は登り始めた。  思っていたよりもしっかりしていたので、私は少し安心した。ずんずん登っていき、すぐに十メートルほどの高さになった。ここで待つことにした。目の前には太いロープがある。これもかなり古びたものだが、天井の中央にある大きなシャンデリアを支えているのだ。蜂の巣箱になる前、きっとここはホールのような部屋で、儀式やパーティーが行われていたのだろう。そのときに明かりをもたらしたシャンデリアなのだろう。直径は十メートルほどもあり、木材で作られているが、かなり重そうだ。それがこのロープ一本でつり下げられているのだ。よく今まで切れて落ちてしまわなかったものだ。蜂たちは巣箱のあちこちに小さな穴を開け、明かり窓にしていたから、シャンデリアなど必要なかったのだろう。手を触れもしなかったに違いない。  廊下の向こうにぼんやりとした青白い光が見え始めたことに気がついた。アリジゴクを引き連れて、ぐるりと回ってコイルが戻ってきたのだ。私はポケットからマッチ箱を取り出した。コツムジは何をしているのだろうと思った。間に合わなかったらどうするのだろう。  部屋の中へコイルが入ってきた。そのあとをアリジゴクが追っている。触角の先で、あの青い光が揺れている。 「お待たせ」  耳元でささやかれて、私は驚いて飛び上がった。だが首を曲げてコツムジと顔を合わせた瞬間、噴き出して声を上げてしまいそうになった。コツムジは、ありったけの茶の葉を体中に巻き込み、竜巻のようにくるくると回転させて、まるでミノムシのような姿だったのだ。 「何しているの?」私はささやき返した。 「準備してたんだよ」 「どうするの?」  コツムジはすっと移動し、シャンデリアを支えているロープに近寄った。すぐそばまで行き、動かなくなった。その視線が下を向いているので、私も同じようにした。  アリジゴクを誘導して、コイルは部屋の中央に近づきつつあった。あと少しでシャンデリアの真下に来るだろう。 「マッチ棒を出して」コツムジの声が聞こえた。私は言われたとおりにした。 「出したわ」 「合図したら、僕に火をつけるんだ」 「えっ?」 「この茶の葉はよく乾いているから、景気よく燃えるよ。こんなロープなんか一瞬で焼き切っちゃうぐらいの熱を出して」 「あんたは大丈夫なの?」 「大丈夫さ。僕はただの空気だもん。コイルが来たよ」  あわてて下を見ると、そのとおりだった。コイルは部屋の中央にさしかかっていた。その何メートルもない後ろをアリジゴクが追いかけている。ゆっくりとしているが、疲れを知らない時計のように正確な動きだ。 「もうちょっとだよ」  コツムジが小さな声で言った。悟られないためか、コイルはアリジゴクをにらみつけたまま、一度も上を見ようとはしなかった。私はマッチ棒を指先で握りなおした。 「今だ」コツムジが言った。  シュッと音を立てて、マッチが炎を上げた。炎が軸木に燃え移るのを待たずに、私は腕を差し上げた。炎の先がコツムジの身体に触れた。見たこともないほど明るいオレンジ色の光を発しながら、コツムジは燃え上がった。燃え尽きるのに二秒もかからなかった。香ばしい茶の匂いが鼻に届いたような気がした。  コツムジが言ったとおり、ロープは一瞬で焼け落ちてしまった。プツンといって切れ、シャンデリアを落下させた。その真下を、これ以上はないというタイミングでアリジゴクが歩いていた。ドスンと大きな音がして、シャンデリアはアリジゴクの背中に命中した。押しつぶされてはいつくばり、アリジゴクはすぐに動かなくなった。 「やっほー」  コイルが飛び上がり、大きな声を出した。コツムジのことが気になって、私は顔を上げた。  コツムジはさっきと同じ場所に浮かんでいた。ダンスでもするように身体を振りながら、まとわりついた灰を振り落としているところだった。私がハシゴを降り始めると、ゆっくりとついてきた。 「熱くなかった?」 「ぜんぜん」コツムジは平気な声で答えた。  下へつくと、コイルがアリジゴクの身体を調べているところだった。アゴをこじ開け、口の中をのぞき込んでいる。 「そんなことをしても大丈夫なの?」恐る恐る近寄って、私は話しかけた。  笑いながら、コイルは顔を上げた。「大丈夫さ。こいつは完全に死んでいる」  隣へ行って同じことをしようとしたが、自分がひどく疲れていることに気がついた。空腹でもあった。へなへなと床の上に座り込んでしまった。 「アリシア、疲れたのか?」コイルが振り返った。 「ええ」 「無理もない。何か食べるものを持ってこよう。ここで待っておいで」 「でも…」 「いいんだ」コイルは立ち上がった。「コツムジ、おまえはそばにいてやってくれ」 「わかった」  コイルは歩き始め、部屋を出ていった。まだかすかに灰の匂いがするコツムジが私の肩にとまった。ぼんやりした目で、私は死んだアリジゴクを眺めていた。  本当に大きな虫だった。運ぶとすればクレーンや大型トラックが必要になるぐらいのサイズだ。半分に割ったイチゴのようにこんもりと丸く背中が盛り上がっている。六本の足は太く長く、まるで鉄の棒のように頑丈そうだ。その一本の付け根で、何かが金色に光っていることに気がついた。 「どうしたの?」  私がゴソゴソと床の上をはって行きはじめたので、コツムジが声を上げた。 「あそこの足の付け根が見える?」私は指さした。「何か光るものがあるわ」 「光るもの?」 「ほら」  コツムジも気がついたようだった。「なんだろう?」  私は近づき、両腕と体中の力を使ってアリジゴクの足を押し広げた。 「キーだよ」小さな声でコツムジが言った。 「キー?」 「ほら、金でできてる」  かがみこみ、私は手を伸ばした。つまみあげ、コツムジに見せてやった。 「イモムシみたいな形の変なキーだね」 「見覚えはある?」 「ううん」コツムジは肩の上でプルプルと身体を振った。コイルが戻ってきた。両手に荷物を抱えている。 「どうした? 二人とも」 「ほら」私は振り返って見せた。顔を近づけ、眉をしかめ、コイルは目をこらした。 「ほう」 「何のキーかわかる?」  コイルは顔を上げ、にっと笑って私を見た。「そんなことより食事にしよう。腹が減っただろう?」 「疲れたわ。あまり食欲はない」 「少しは食べたほうがいい。砂糖をたっぷり入れたケーキを焼いてやる。後は少しお休み」  言われたとおりにして、私は三時間ほど眠った。その間、コイルとコツムジは小声で話し続けているようだったが、何の話をしていたのか、私の耳には届かなかった。  目を覚まし、元気を取り戻し、私は立ち上がった。荷物はすでにコイルがまとめてくれていた。キーは、コツムジが自分の身体を使って磨き上げ、見違えるほどピカピカにしてあった。小さな穴が開いていたのでヒモを通し、ペンダントのようにして私の首にかけておくことになった。  巣箱の外に出てみると、漏斗の形はすっかり失われてしまっていた。もう完全に消滅して、ただ船や家々の残骸が平らに散らばっているだけだった。その中に巨大な島のようにして、蜂の巣箱が浮いているのだ。それに小さなアメンボ丸が寄り添っている。  私たちはアメンボ丸に乗り移り、綱をほどいた。コイルがすぐにエンジンをかけた。アメンボ丸は動き始めた。  甲板の上に座って、遠く小さくなっていく巣箱を私は眺めていた。コツムジはいつものように肩の上にいて、私の耳たぶを揺らして遊んでいた。海図を見て、コイルはすでに進路を決めていた。ここから一番近い島へ行き、巣箱を見つけたことを報告するのだ。報告が届けば、蜂たちは大門の巣を引き払うだろうし、そうすれば赤島の王も大叔父を解放してくれるだろう。もう何も心配することはないように思えた。
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