Trois

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「おはよう」  霞む視界の中で近付く気配。軽いリップ音が聞こえ額に柔らかな感触が当たる。馨しいネロリのような香りに頬が綻ぶ。ふわりふわりと微睡む視界。その先に美しい男性を見つける。  不意に考えが頭を駆け巡る。優しいその声に現実に戻されたのだ。私は勢いよく体を起こす。ベッドから上半身を起こして声の主を見つめた。フランソワは驚いたように目を丸くしている。私が眠る近くに腰を落としていたフランソワは私の頬を柔らかく撫ぜた。 「おはよう、メアリー」  あたたかな笑みを浮かべるフランソワがそこにいる。私はついに「おはよう」を言い合える日々を手に入れた。それがどうにも恥ずかしくて、でも嬉しくて素直に挨拶ができないでいる。体内から出てきた上擦った声。 「お、……おはよ、う」 「うん。おはよう。よく寝られたかな?」 「……昨晩よりは」 「寝癖がついてる」  くすり、笑うフランソワは私の髪の毛を触りベッドから下りた。軽やかに歩みを進め、窓際に立つ。いつものようにカーテンを開けた。 「っ、……」  眩しい朝の日差しに眉根を顰めると、またフランソワは笑った。フランスの柔らかな朝の日差しがベッドを浮き彫りにする。 「メアリーの言う通り、昨晩に比べて18分多く寝ている。新記録だ!」  フランソワにレオナルド・ダ・ヴィンチに作られた人造人間だと打ち明け、受け入れられてから数日が経過した。その数日前、ホテルからフランソワの自宅に拠点を移した。200年前から存在するというアパルトマンの5階に住居を構えるフランソワの手を取った。フランソワの好意で広い部屋に住まわせてもらっている。  一緒に暮らし始め、目の当たりにした豊かな暮らしに驚いてしまい体が追いつかない日々を過ごしていた。  昨晩食べた豚肉は頬が落ちそうなほどに美味しかったのだけれど急激な刺激に胃が受け付けず、吐き出してしまう始末。  柔らかなベッドに清潔なシーツ、いい香りのする枕。柔軟剤というものを数日前に知った。枕のおかげで私の頭はネズミに齧られないし、布団のおかげで足先が冷えなかった。  何世紀も怯えて過ごした体はこの穏やかな場所に拒否反応を起こしている。身を守るために行っていた習慣が染み付いてしまっていた。 「お腹は? 空いているかな?」 「少し」 「スープを作ったんだ、起きておいで」  僅かな物音に飛び上がる私をフランソワは笑わず、怒らず「だいじょうぶ」と囁き宥めてくれる。  私の頬を再度撫でて寝室を出て行ったフランソワ。私はパリの景色が一望できる窓を見つめた。昨晩より18分多く寝た。何世紀も生きてきた中でのこの18分はとてつもなく大切だ。
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