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  息が、苦しい。     私は必死に藻掻いて、川面を突き破る様に浮上し、荒さを増した川波の間から、目の前にいる夫に呼び掛けた。 「あなたの両親に…、ちゃんと、説明しようよ。お義父さんもお義母さんも、私が原因で赤ちゃんが出来ないって、思ってる」  どうどうと、渦巻きながら轟く川鳴りの音に呑み込まれまいと、懸命に声を張り上げる。 「他の人達には、どう思われてもいい。でもあなたの両親にだけは、本当の事伝えたいの」  夫は、非閉塞性無精子症だった。  昔から子供が好きだった私達は、 『 新婚の時の、夫婦二人だけで過ごす時間は貴重だって聞くけど…。直ぐにでも、赤ちゃんが欲しいね 』  なんて、照れ笑いを浮かべながら、沢山の子供達に囲まれた暖かな未来を、夫と枕辺に寄り添って話し合ったものだった。  それから二年が経過しても、妊娠の兆候が現れなくて焦った私は、スマホのカメラ機能を使って精子の動きを確認出来るキットを購入し、夫に渡した。  検査しても私に異常は見られなかったし、普段の生活に気を付けて妊活用のサプリを飲んでも、思うような結果が出なかったからだ。  なかなか妊娠しないのはタイミングが悪いだけだろうし、産婦人科に赴いてまで検査はしたく無い。  と渋り続けていた夫でも、これなら自宅で気軽に、精子の状態を調べてくれるだろうと考えたのだ。  子供がやる拙い実験みたいに精液を採取して、どきどきしながら二人で覗いてみたスマホの画面には、動き回る精子の姿はおろか、精子らしき姿は一つも確認出来なかった。 「手術して精子を一つでも採取出来れば、顕微授精で妊娠出来る可能性があるって、お医者さんも言ってたじゃない。だから…」  非閉塞性無精子症でも、妊娠の可能性はゼロでは無い。  だが、術後の疼痛、男性ホルモン低下の可能性がある事。全例で精子が見つかる訳では無い上、精子採取成功率も決して高率ではないと言う数々の厳しい事実を突き付けられた夫は、目に見えて生気を失い、不安定になってしまった。  昔から怒りっぽい所はあったけれど、少し態度に出す程度で、物に当たったり、私に暴言を吐いたり泣き付いたり、ましてや…手を上げる人では無かった。 「まだ、間に合うから…。お義父さんとお義母さんに事情を話して、支えて貰いながら、手術を…」    バンッ! と、握り締めていた箸を手の平ごとテーブルに叩き付けた夫は、色を失って固まる私を睨んだ。 「…病気の事を言ったら、俺の両親まで、傷付けてしまうだろ。お前は俺が抱えて来た辛い思いを、あの人達にも味わわせるって言うのか」  ……違う。  お義父さんとお義母さんを、傷付けたい訳じゃ無い。  でも、それなら私は……?   「傷付く人間は、少ない方がいいに決まってる。だって、お前には……」  お前には、両親、いないだろ。  夫の口唇は口早に動いているのに、無音の映像を見ているようにその声は届かなかった。  届く前に、藻掻くのをやめたから。  こうして深い川底に沈んで、聞きたくない言葉を全て川鳴りに紛れさせてしまえば、私はこの先もずっと、傷付かずにいられる。  揺らめく斜光に(くすぐ)られて開けた双眸には、私の身体を削り取りながら一生懸命に苔を食べ、すくすく育つ可愛い子供たちの姿が映っていた。  
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