第9話

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第9話

 夕食の後、洗い物を終えた(なつめ)が浴室へと向かうのを見送った僕は、自室に篭り遅々として進まない本来の仕事に取り組むことにした。  小説を書くとは、現実を虚構に見せかけ、虚構で現実を語る作業だ。最早どこに真実があるのか、それすらも不確かな世界に深く沈んでゆくその先。そこに見えるものを描く。  だが、現実とは何だろう。  僕の目の前に映るひどく曖昧な現実など、夢との界さえも分からないというのに。  そうこうしているうちに、途中で投げだした文章の先を書き(あぐ)ね、ふと顔を上げれば視線の先にある窓の外、蠢く何本もの白い腕が僕を誘っていた。  さあ、その部屋から出ておいで。  ……と。  その触れる筈のないガラス一枚を隔てた夜の夏の濁った空気が、幾重にもかさなる澱となって僕の中へ溜まりをつくる。  文章を組み立てるのを諦め、椅子から立ち上がるとベッドへ横になった。  天井を見上げ、胸の上で両手を組む。  見たくないものを見ない為に両眼をきつく閉じ、暗闇に身を委ねるや否や僕の意識は抗う術もなく、今度は過去へと呼び戻されるのであった。     『……このまま延命治療を続けることは、賢明とは言えません』  ――あの日、左眼の眼帯と身体に繋がれた点滴の管の所為で上手く身体を動かすことの出来ない(わずら)わしさから、座るよう勧められた椅子を断り機械に囲まれベッドに横たわる母親を立ったまま見下ろしていた僕は、その医師の言葉のあと、血の気がなくどこまでも真っ白に見える母親のその肺へと空気を無理矢理送り込む規則正しい音が途端に不自然なまでに大きく聞こえ、思わず左手で自分のその腕と繋がっている点滴スタンドの支柱に手を掛けたのだった。  医師の言葉は、至極当然だ。  続けて脳死状態であると判定された理由の説明を受けたのだが、医師の放った「奇跡が起これば」という言葉を切っ掛けに、そのあと僕の耳に届く声は言葉ではなくただの意味のない音に変わってしまった。  ……奇跡?   では奇跡を起こさないようにするには?  その考えに、ぞくりと身体が震えた。  母親の、彼女の意識は今、何処にあるのだろう。機能を止めた脳の奥底に消えたのでなければ、何処かを浮遊しているとでもいうのか。  だとしたら僕の目の前にある機械に繋がれベッドに横たわるのは母親などではなく、肉体という器にすぎないのではないだろうか。  意識が戻ったら……?  意識が戻れば、これまでと同じ繰り返しになるのは目に見えていた。  (なつめ)が中学に進学する少し前から始まった、あの僕と(なつめ)を見る、疑いの眼差し。  僕が知らない人に見えると叫び、汚らわしいものを見る目を(なつめ)に向けるようになった母親。  何故? どうして?  それまでにも僕達には何もなかったし、これからだってそうと知っていた筈なのに、家族として信じることが出来なくなったのは何故だろう。  壊れてゆく母親が、耐えられなかった。 『だけど、血は繋がっていない』  どうなることも現実に望んでいた訳ではないのに、度重なる母親からの責苦(せめく)に対し思わず口から飛び出してしまったこの一言が家族を壊すなら、いや家族を壊したとするなら僕は、すべてを捨てて(なつめ)さえ居れば良いと思った。    本来なら願うべき奇跡を真っ向から拒絶し、僕を見下ろし浮遊する母親の意識が何処にあるのか知らないのを良いことに、僕は自らの決意で以って、器である母親の肉体の維持を止めさせたのだ。  そう……僕は、両親を殺したのである。    そもそも事故が起こる前の車内で、あの言葉を口にして、口論の引き鉄を引いたのは紛れもなく僕だ。つまり、その所為で事故により即死した父親は勿論のこと器である肉体と命を切り離した母親にあっては尚更。  だから……。  僕の眼帯が取れた時、最初に視えたモノ。  其れが、全ての答えだった。    いっそ堕ちる処まで堕ちたら、何かが変わるのだろうか。    現実に於いて両親が居なくなったいま、残された二人きりの家族として、掌中の珠に触れることなく大切に飽かず眺めていたいと云う以前からの思い。また同時に湧き上がる、それと相反する自ら手折(たお)って汚してしまいたいという怒りにも似た思い。  いや、もしかしたら単に僕の中の獣は、爪を磨ぎ、果実が甘く熟すのを待っているだけだとしたら?   そうなのだろうか。  それも良いかもしれないと、どろりとした夏の夜は僕の思考を鈍らせる。その為、僕は部屋の温度を極限まで下げるのだ。  僕の中の獣を、眠らせる為に。  微睡みは、やがて深い眠りへと僕を(いざな)う。  夢の世界は、現実と何が違うのだろうか。  脳が見せている夢の世界が、実存すると信じてはいけない理由は何処にあるのだろう。  同じ脳を通して見ている現実の世界が、実存するものだと信じて疑わないのは、何故だろう。  その答えは、すぐ目の前にあると感じるのに伸ばした手は届かないのだ。  決して。  
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