第一章 三ツ國 史堂

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第一章 三ツ國 史堂

第1話  目に映るは、一面の鈍色だ。  仰向けに寝転ぶ身体に、はらはらと音もなく高く遠きより落ち来る白いものは、睫毛に柔く触れると思う間もなく、溶けて消える。  じっと目を凝らせば、その雪の花の精緻な花弁を溶けて(ほど)ける前に見えやしまいかと瞬きを堪えるも、ただ密かに眼球を濡らすだけだ。  やがて生温かいものが、つうと耳の奥に入るのを感じ、そこで初めて涙を流していることに気づく。  あゝ身体が……。  寒い……寒くて……。 「……ちゃん……お兄ちゃん。……きて。……起きて……お兄ちゃん、起きて!」  はっと短く息を吐いた。  目を開けると同時に、見慣れた天井が僕の視界に入り安堵する。  一瞬にして夢の淵から呼び戻した声の持ち主を、仰ぎ見た。  こちらを覗き込むようにしているため整った顔は陰り、長い睫毛に縁取られた色素の薄い瞳くらいしか良く見えないが、その肩口で切り揃えられた髪が、さらさらと僕の頬に触れている。  目を開けた僕を確認した後で身を乗り出し、ベッド脇のカーテンを開けたついでにとその人物が窓も開け放った途端、刺すような光と、もわっとした肺を押しつぶす真夏の熱気が室内に流れ込んだ。   「お……おはよう、(なつめ)」 「おはよう、じゃないわよ。もう昼近くなんだからね? それにしても、何なのこの部屋。いくら暑いからってクーラーの設定温度が十九度なんて……寒くないの?」 「寒いくらいが、好きなんだよ」  とはいえ寒かったから、あのような夢を見たのだろうことは間違いない。  夢とは所詮、記憶の集まりに過ぎないのだ。ランダムに記憶を切り貼りしては繋げ、ひとつのストーリーとなった夢。  この見た夢と似たような出来事が、僕の中に記憶されている。すべての音を消し去るほど雪の重なった地面に仰向けに横たわり空を眺めていた過去の現実は、動かしたくとも動かない身体で叫びたくとも声の出ないままに、ぬるりと耳の穴から滴る温かな血を感じながら、昊よりゆっくりと落ちてくる雪をただ茫然と眺めていた。 「お兄ちゃん、朝ごはんは昼と一緒で良いよね?」  (なつめ)の声で、再び現在へと呼び戻される。 「うん……もしかして、また素麺、かな」  何か文句あるの、と言わんばかりに睨まれるも、正直こう毎日のように素麺ばかりでは飽きてしまう。それでも用意されたものをただ食べるだけの身である自分を思えば、何も言えやしないのであった。  ベッドから起き出し、着替えるから部屋を出てくれるかなと口を開こうとした時、家の電話の鳴り響く音が聞こえた。  誰かな、と言いながら小走りで部屋を出て行く(なつめ)の後ろ姿を見ながら、態々(わざわざ)この家の電話に掛けて来そうな人物が一人だけ思い当たり、僕はその顔を頭の中に浮かべる。 「……はい、()(くに)です。あ……千加良(ちから)さん、こんにちは。……はい、居りますって今起きたところなんですよ? ……え? そうなんですか? もう、お兄ちゃんたら、スミマセン……わたしからも、ちゃんと言っておきますね。……はい。あはは。少々お待ちください」  よく通る(なつめ)の声の所為で、電話を掛けてきたのが誰か、すぐに分かってしまった。やはり思った通りだ。そのうえ、ベッドに投げ出されたままのスマホをちらと見れば、その人物から多数の着信履歴がある。  お兄ちゃーん、とそう叫ばずとも聞こえているのに矢鱈と大きな声で僕を呼ぶ(なつめ)に返事をすると、足早に電話口へ向かった。 「……お電話代わりました。史堂(しどう)です。……寝てま……はぁ……まあ、良いですけど。でもそれって全然、急ぎじゃな……いえ。そうですね。……あ、お昼ご馳走してくれるなら……はははッ。すぐ行きます」  受話器を置き、くるりと身体ごと振り返ると、腰に手を当てた(なつめ)に正面からぶつかりそうになり、慌てて両手を上げる。 「うっわ、びっくりした。何?」 「千加良(ちから)さん、何度もスマホに掛けたって」 「あ、うん。聞いた」 「急ぎの用事?」 「あれは……そういう訳じゃなさそうだな。多分、暇なんだよ」  電話の向こうの顔を思い浮かべながら身支度をするべく洗面室へと足を運ぶ僕の後ろを、(なつめ)が「良いなぁ」と言いながらついて来た。 「……何、もしかして(なつめ)千加良(ちから)くんに会いたいとか?」  鏡越しに、(なつめ)の自分とは少しも似ていない、整ったその可愛らしい顔を見ながら問いかける。カランを動かしたあと視線を蛇口から出る水に移し、両手に飛沫を受け止め身体を屈めた。 「うーん……正直に言えば、わたしもお素麺以外のものを食べたい?」 「ぶはっ」  鼻に水が入ってしまった。そうだった。(なつめ)は、あの千加良(ちから)を前にしても平常心でいられる数少ない女性なのである。   「とうとう(なつめ)も、千加良(ちから)くんの魅力に参ったのかと思った」 「えー? 千加良(ちから)さんは確かに恐ろしいくらいに素敵だけど、わたしの好みじゃないもの。……わたしは、お兄ちゃんの方が好きだな」 「あはははっ。ハイハイ、いつも慰めてくれてありがとう」  人は見てはいけないと思うものほど目にしたくなり、近寄れぬ恐ろしいものほど間近に寄ってみたくなる。千加良(ちから)の持つそのような危うい魅力は、周囲の人間を否が応でも狂わせた。  男である僕でさえ見惚れるほどの顔に、似つかわしくないその冷酷そうな目元が更なる色気を醸しだしているのが鬼無(きなし) 千加良(ちから)という人物なのである。  タオルで顔と手の水分を拭い、ぽんぽん、と軽く(なつめ)の頭を鏡越しに後ろ手で撫でた後、手早く自身の髪を整え始めた。 「連れて行くのは構わないけど、予定があるから僕を起こしたんだよね?」 「あー……うん」 「じゃあ、仕方ない」  僕の言葉に首を竦めた(なつめ)は「あーあ、もっと強引に誘ってくれたら予定も断れるのにな」と残念そうに呟く。 「お兄ちゃんは、そういうところだと思う」 「え? 何が?」 「……秘密」  視線をずらし鏡に映る(なつめ)の表情を見ようとしたが、すでに背を向け居間に戻るところだった。 「お兄ちゃんの為に淹れたんだから、コーヒーだけでも飲んで行ってよね」  声が少し尖って聞こえるのは、おそらく気のせいではないだろう。  このやり取りのどこに、怒る要素があったというのだろうか。全くこれだから五つしか離れていないとはいえ、十七歳の女の子の気持ちなど今以(いまもっ)て分からない……いや、どんな年齢であっても、女性のことは凡そ分からないな、と考えながら居間へと向かった。  
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