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普通なら
「もう私のこと好きじゃないの?」
日が傾き始めた昼過ぎの薄暗い喫茶店内、カウンターと僅かなテーブル席で埋められた狭い空間は、コーヒーの香りで満ちている。
その心地よい静寂に不釣り合いな言葉を唐突に投げつけたのは、同じ大学サークルに所属している俺の恋人だった。
「ん? どういうこと?」
俺は眉間に皺を寄せながら返す。当然だ。なぜそのようなことを問うのか、まるで理解できない。少なくともここに来るまで、彼女は楽しそうだった。
彼女の世間話に相槌を入れ、彼女の買い物に付き合い、どちらを買うべきか聞かれたら共に悩み、時に体調を気遣った。何も問題は無かったはずだ。ここに来てからだって、次はどこに行こうか目を輝かせながら話していた。
それなのに、彼女の口からは不満を顕にした言葉が発されている。それがどうしてなのか、俺にはわからない。
「急にどうしたの?」
続けて質問する。だが、彼女は俯き、自身の飲み干したティーカップを見つめたまま何も言葉を返さない。
俺は辺りを軽く見回した。店内にはカウンター内で食器を磨く店員が一人、客はカウンター席に一人、テーブル席にも一人、二人……
彼女はあまり周りを見てくれない。声色が高いので、このような静かな空間ではよく響くのだが、彼女はなぜかそれを自覚してくれない。
他人に聞こえる可能性があるこの場所で、空気を悪くするような話をするなど信じられない行為だ。返答が無いのならば、一刻も早くこんな脈絡のない話題は終了させたい。
「気にしすぎだよ」
俺はテーブルに置かれた自身のコーヒーカップを手に取り、僅かに口を付ける。届いたときは熱かったコーヒーも、今は温くなっていた。
カップを置くついでに彼女の方に目をやる。依然として俯き、顔を力ませ口を閉ざしていた。
俺はまた辺りを見回す。何も変化はなく、店員は磨き終わったグラスを静かに丁寧に並べている。他の客だって、文庫本を開いている者、スマートフォンを触る者、思い思いに自分の時間を過ごしている。
それでも、彼女の言葉を誰かが聞いていたかもしれない。場違いな痴話喧嘩をしだすカップルだと思われているかもしれない。そんな不安が押し寄せてくる。
無いはずの無数の視線を感じる。本当は俺が気づいていないだけで、皆、こちらを見て顰めっ面をしているのではないか……。
漆の塗られた木製家具、窓には色彩豊かなステンドグラス。レースのあしらわれたテーブルクロスに付いた茶色いシミも、年季を感じさせて俺は好きだったのに、もはやここは俺にとって安寧を得られる場所ではない。
「もうそろそろ出ようか」
俺は席を立つためテーブルに手をかけ、ズボンの後ろポケットから財布を抜き取ろうとした。
それに待ったをかけたのは、彼女だった。
「……どうしてすぐに返事くれないの?」
「は……?」
財布から手を離し、席に座り直す。彼女は俯いたまま、ただ一点を見つめている。
「前にも言ったよね、チャット返してって。SNSは見てるくせに恋人の連絡は見ないの?」
「え……?」
「あと、私の目の前で他の女の子と仲良くしないでよ。なるべく私を優先してよ。会話するのはいいけど、少しは気遣えないの?」
彼女はいつもより早めの口調で、俺を責めるように言い立てる。
きっとこれが俺に対する不満なのだろう。だが、これがどうあの発言に繋がるのか。何を言っているのか、俺にはさっぱりわからない。まるで無機物と化した言葉が、俺の思考回路をすり抜けていく。
「写真だって一緒に撮りたい。なのにいつも断るじゃん。休日はもっと遊びに行きたいのに、何も言わずに他の人と遊びに行く。どうして私を大事にしてくれないの?」
「あのさ……」
「それにいつも思ってたけど、会話少ないよ。私から話題振らなきゃ何も話さないじゃん。私といるのそんなにつまらない?」
徐々に勢いを増していく彼女の言葉に、俺は焦りを覚えた。周りにいる人に聞こえてしまう。とにかく彼女を止めなければならない。
「わかった、わかったから。一回お店出よう」
「いつもそうやって誤魔化す!」
俺が再び後ろポケットの財布に手を伸ばし、席を立とうとするのを、再び彼女が止めた。
悲鳴の混じった甲高い声が、耳から入って脳を揺らす。
俺はすかさず辺りを見回した。店員と目が合った瞬間、背中から汗がじっとり染み出していく。
まずい、早く何とかしなければ。俺は席に座り直し、少し身を乗り出して小声で声をかける。
「おいやめろ。そんな声出すな」
「いつも私の話聞いてくれないね」
「他の人がいる……」
「今そんな話してない!」
あまりの勢いに俺は彼女と距離をとる。今にも泣き出しそうな震えた声。先程まで俯いていた彼女が、真っ赤な目をさせながらついにこちらをまっすぐ見た。
俺は椅子の背もたれに体重を預け、深く息を吸い込み、それらをゆっくりと吐き出しながら天井を仰いだ。大きさのあるものから小さいものまで、吊り下げられた様々なガラスランプが天板に明かりの模様を作っている。
俺はその模様の一つ一つを視線でなぞりながら、彼女の言葉を反芻した。
チャット? 気遣い? 写真? 休日? 会話?
正直、何か問題のある行動をとった覚えなどない。問題があるとするなら、それは彼女の異常な捉え方だが、そのようなことをこの状況で言えるわけがない。事態が悪化するだけだ。
彼女に納得してもらうため、一つ一つ慎重に脳内で言葉を構築していく。
その間、彼女はこちらをずっと見つめていた。その視線が鋭い針となって、浅く胸を刺していく。
やっと言うべき言葉がまとまり、俺は再びため息を吐くと、彼女と目を合わせた。
「まずチャットのことだけど、ちゃんと返事自体はしてるよね。確かに遅くなってるけど、いつも内容は今何してるかとか、最近どうかとかだからさ、どうしても優先順位が下がるんだよ」
当然のことだ。そもそも、恋人の近況報告程つまらない連絡はない。どうしてそこまで互いの生活に干渉しなければならないのだ。そんなにすぐ返事が欲しいなら、SNSよりおもしろい内容の連絡をしてほしい。
「それからね、サークルには男子も女子もいる。だから俺にだって女友達はいる。人前でまで恋人として振る舞わなければならないわけじゃない。俺らは2人でいられる時間を作れるのだから、友人がいるときは友人といることを選ぶときもあるよ」
これも当たり前のことだろう。気遣いとはなんだ。女子と会話はしていいけど仲良くするなという言葉がもう破綻していてわからない。疾しい気持ちを抱きながら異性と接していた記憶などない。
「それから、写真は苦手だって話したよね。代わりに風景の写真は撮ってるでしょ? 休日に関しては先に予定が立った方を優先してるだけだよ。今日だって事前に約束したからこうして2人で出かけてるじゃん」
なるべく周りに聞こえないよう小声で話す。俺は当たり前のことしか話してない。当たり前のことをただ説明しているだけだ。それで納得できないのならば、それは彼女が異常なのだ。
「あと会話だけどさ、恋人だったら絶対何か話さなきゃいけないわけじゃないよね? 無理に会話するのが辛いなら話さなくていいと思うけど。沈黙があってもいいんじゃない」
言いたいことを言い終えた俺は、一息つくためにコーヒーカップに手を伸ばしかけ、もう冷めていることを思い出し、行き場の失った手をテーブルに乗せた。
彼女からは何も言葉がない。再び俯き、今度は脱力しきった顔をしている。
何も返事がないならそれでいいだろう。今度こそ終わりだ。俺は無言で席を立とうとしたが、そこにまた、彼女の言葉が投げかけられた。
「いつもそうやって押し付けるよね」
押し付ける? 何のことだ?
俺はもう何も気にせず立ち上がり、財布を取り出し、テーブルの横に置かれた伝票に手を伸ばすが、すかさず彼女がその手を掴み制止した。
「は? 何?」
俺は彼女を一瞥する。彼女はまっすぐこちらを見ている。先程とは違う、意志のこもった目で俺を射抜かんとばかりに睨みつけている。
「もう会計しよう。もう出ようって」
俺は強引に手を振り払い、レジに歩を進める。
視界から彼女が消えたあたりで背後から椅子の脚が乱暴に床を擦る音が聞こえた。きっと彼女も立ち上がったのだろうと思い振り返ると、彼女はテーブルに両手をついて前屈みの姿勢のまま、さっぱり動かなくなっていた。髪が垂れ下がり、表情は読めない。
先程から彼女が何を考えているのか、何をしたいのか全く理解できない。
前々から思っていたが、彼女は普通じゃない。あまりにも、不気味だ。
俺は動かなくなった彼女の元に近づく。腕を引っ張って連れて行こうと手を伸ばしたとき、彼女が何か呟いていることに気がついた。
「……なら、そうじゃん」
「え?」
うまく聞こえず思わず聞き返す。彼女はテーブルに手をついたまま大きく息を吸い込み、そして、叫んだ。
「普通なら、恋人の話は聞くものじゃん!」
今までの比とはならない、甲高い声。それはもはや悲鳴となって店内に響き渡る。
辺りを見回す必要などない。視線が、集まっている。
俺は無意識に後退り、彼女と距離をとった。
「何言ってんだよ……聞いたじゃん。だからもう行こう」
俺は焦りでいっぱいだった。すぐにこの場から出たいのに、どういうつもりか彼女にその気は無いらしい。
テーブルから手を離し、まっすぐ俺を睨みつけながら、彼女は言った。
「あんた、おかしいよ」
「……はぁ?」
「おかしいよ。普通なら、話聞くじゃん。なのに、何話してもあんたいっつも自分を押しつける。 ……おかしいよ」
……おかしい? 俺が?
彼女にそのようなことを言われる道理はない。
おかしいのは、説明しても理解しない、周りを見ずに自分本位の行動しかとれない、お前だろう。
「…….俺は普通のことしか言ってない。おかしいのはお前だ」
頭にきていた。限界だった。彼女のわがままにはもう付き合いきれない。
「いつも俺の話聞かずに理解しようとしないのはお前だろ」
「なら私のことも理解してよ。私の話聞いてよ」
「聞いてるだろ。その度に説明してるのに聞かないのはお前だ」
「そっちだって私の話聞いてくれたことない!」
「いつもいつも、お前といると俺ばかりが苦労する」
「私だってつらいよ!」
もはや周りの視線などどうでもよくなっていた。目の前にいるこの普通じゃない異常な人間を、俺はどうにかしなければならない。
俺はさらに反論しようと口を開いた。だが、彼女は手提げのカバンを手にし、突如ふらっとこちらに歩み寄る。そのあまりにも突拍子のない行動に、俺は口を噤んだ。
彼女が目の前まで来た。俯いている。
僅かな沈黙が走った。何か話すのか、話さないのか。わからないままの時間。
何も話さないならもうこれが最後だ、と口を開きかけたときだった。
「もう、あんたのこだわりには付き合いきれない」
初めて聞いた、低く小さい声。でも、それは紛れもなく彼女から発せられていた。
「こだわり……?」
俺は問う。しかし、返答は得られなかった。
彼女は手提げのカバンから財布を取り出し、そこから千円札を2枚抜き取ると、俺に投げつけた。
千円札は風の抵抗を受けながらひらひらと舞い、足下に落ちて床を滑っていく。
その様をながめている間に、彼女はもう既に店の扉を開いていた。
ドアノブを回す金属音、木の軋む音とベルの音。そして外の喧騒。店員が小さくありがとうございますと告げる。
扉の向こうで、彼女の背中が小さくなっていった。
木の軋む音と共に喧騒が遠のき、支えを失った乱暴なベルの音によってそれは閉ざされる。
そして、元の静寂が訪れた。
客はもう、俺一人だけになっていた。
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